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二日もかからず、当主代理の書類は正式に整った。戦時とは何もかもが超法規的措置を取られることになるもののようだ。知らなかった。
まず最初に、エルフィーゼは王都の家の家賃支払いを止めた。だってアルベルトがいないのだ、もう必要ないでしょう?
「ていうかなんで買ってないのかしら? 賃貸の方がよかったの?」
彼女は首を傾げつつ、屋敷の改装と新しい使用人の手配に走る。舅の寝台も新しいものに代え、専属の看護婦を雇った。三人の老人たちには、かわいそうだが暇を出し養老院に入ってもらった。彼らは抜け目がない。エルフィーゼのたくらみを見抜かずとも、入浴のときさえ首に下げている紋章指輪を掠め取るくらいは朝飯前だ。
さて。
「ここに置いてくださいまし、シュタイン侯爵夫人様!」
屋敷の門前に、けたたましい声が響いたのは、アルベルトが国境へと発って二か月ほど経った、肌寒い午後のことだった。
侍女に先導されエルフィーゼが玄関先に出てみると、そこには質素な旅装の若い女がはあはあ息を吐いている。手を引かれた幼い男の子は仏頂面である。荷物といえば、擦り切れた鞄がふたつだけ。女の顔には、化粧の名残と、隠しきれない疲労の色が浮かんでいた。
(――リズ)
一目で分かった。前の生では顔を見たことすらなかったが、噂に聞いた通りの、素朴ながらも整った顔立ち。大きな目。子供を産んだというのに少女のような腰。
そして、その傍らの男の子は、まだ五歳ほどだというのに、驚くほどアルベルトの幼少期の肖像画にそっくりだった。
「まあ、あなたが……」
エルフィーゼは目を伏せ、あえて辛そうに言葉を濁して口元を隠した。
「リズと申します。あの……アルベルト様の、その……」
リズは俯き、消え入りそうな声で言葉を探した。
「存じておりますわ。アルベルト様からくれぐれも頼むと伺っております。あなたと――ぼっちゃまのことも」
リズの肩がびくりと震えた。追い返されると思ったのだろう。彼女は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません、突然お伺いして……本当は、こんな形でお会いするつもりはなかったのです。ですが、王都の家が――家賃を、その、た、た、滞納してしまって……大家に追い出されてしまい、行くあてがなく……」
リズの声は震えていた。アルベルトは愛する彼女らの生活費を毎月払いにしていた。……ほんとになんで? と思うものの、その方が手数料その他が高いので、彼なりの見栄だったようだ。王都の家は高価な上に、借り手はいくらでもいる。それを維持し続けられてこそ高位貴族、そういう価値観だったのだろう。
(くだらない)
エルフィーゼは内心、息をついた。
「なんてこと。アルベルト様はどうしてそんな……」
「あ。その。――派手好みの方ですから」
エルフィーゼは心底同情したという表情で曖昧に頷いた。リズは恥ずかしそうに肩をすくめ、その息子はエルフィーゼが母に何かしたと思ったのだろう、きりっと彼女を睨み据えた。驚くほどアルベルトに似ていた。
実際、この幼子には何の罪もない。母親であるリズも、愚かな女であるが罪人とまで呼べるかどうか。――強いて言うなら、いずれ体面のため貴族女性と結婚するとわかっていながらアルベルトを愛した判断の甘さくらいだろう。それも、貴族の男に迫られた平民の女に拒否権があるかどうかという問題に関わる。
だが彼女らはエルフィーゼの名誉を傷つけた。
なので、破滅してもらう。それは決定事項である。
悪いのは両方の女を裏切った男の方。それはわかっている。でもそれとこれとは話が別。
エルフィーゼは朗らかに笑って、両手を広げた。
「どうぞ、中へお入りくださいませ。こんなところで立ち話も何ですし、お子様も寒かったでしょう」
「え……よ、よろしいのですか? その、離れとか、そういうのでいいんですのに」
リズはただでさえ大きな目をさらに丸くしてエルフィーゼを見上げた。
「当然でしょう。あなた方は、アルベルト様の――家族なのですから」
その言葉に、リズの目にみるみる涙が浮かんだ。彼女は何度も頭を下げながら、幼い息子の手を引いて屋敷の中へと入ってきた。
男の子は母親とは対照的に、まったく物怖じしていなかった。屋敷の中を見回すと、開口一番、こう言い放った。
「なにこの家、ボロボロじゃん。直し中なの? 父上のおうちより全然しょぼーい」
「……坊や」
リズが慌てて息子の口を塞ごうとしたが、遅かった。
「ぼく、ヴィルヘルムっていうの。父上の跡取りだよ。母上が、いずれこの家も僕のものになるって言ってたけど、こんなボロい家いらないなあ」
エルフィーゼは苦笑する。五歳児が悪気なく言っているだけだ。
「実のところ、わたくしもそう思っていてよ」
エルフィーゼは膝を折り、少年と目線を合わせた。
「あなたがヴィルヘルム様ですのね。よろしくお願いいたします。私はエルフィーゼと言いますわ」
「ふうん」
少年は値踏みするような目で彼女を見た。
「おばさんが父上の『愛してない奥さん』?」
「――ッ!」
リズの顔が青ざめた。母親は息子の腕を強く引っ張った。
「ヴィルヘルム! そんなこと言うものではありません!」
「だって父上が言ってたもん。愛してない女と結婚しなきゃいけないんだって、母上に何度も言ってたじゃないか」
リズは金切声を上げて息子を叩いたが、ヴィルヘルムはけろりとしている。平手打ちは音も威力もそんなに強くなかった。あくまでエルフィーゼに対するアピールとしての殴打だった。
(あー、そういうこと)
――ヴィルヘルムは父親にろくな躾を受けておらず、リズもまた、もしアルベルトに捨てられれば生命線となるであろう息子に厳しくできないのだ。連鎖だ。運命だ。輪廻だ。舅にろくな躾をされなかったアルベルトは息子にろくな躾も正しい愛情も注げなかった、そういう話だ。
「そうですわね。愛されてはおりませんが、シュタイン家の夫人であることに変わりはございませんの。それより、お腹は空いておりませんこと? 温かいスープをご用意させましょう」
エルフィーゼはくすくす笑い、家令に台所へと案内させた。
ヴィルヘルムは「スープ」という単語に反応し、母の手を激しく振り切って真っ先に駆け出していった。
リズはその背中を見送りながら、深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ございません……こんな形でご迷惑をおかけして」
「迷惑だなんて、思ってもいませんでしたわ。遠路はるばる大変でしたわねえ」
エルフィーゼの言葉に嘘はない。この屋敷で二人を世話をするくらいは造作もないことだし、それに――むしろ助かった。
この母子を外に放り出す理由はどこにもない。手元に置いて監視できる方が都合がいい。
前の生では、この母子は王都でぬくぬくと幸せに暮らし、エルフィーゼだけがこの朽ちた屋敷で孤独に朽ちていった。だが今度は違う。
「ほんとによくしていただいて、夢みたい……」
夕食の席で、リズは何度もそう繰り返した。ヴィルヘルムは久しぶりのまともな食事に夢中なようで、行儀もそこそこにスプーンを動かしている。跳ねるスープの色、うるさい音にもエルフィーゼは我慢しよう。
「気になさらないで。あなた方がここにいる間は、私が責任をもってお世話いたしますわ」
「でも、でも、あたしたちはアルベルト様を……アルベルト様に、あたしは」
エルフィーゼは手を伸ばし、リズのか細い手を握った。思った以上に冷たくて、ぞわっとした。
「あら。むしろ、感謝なさるはずですわよ。ご自分の大切な方々を、私がしっかり守っていたと知れば」
その言葉の裏に潜む本当の意味を、リズはまだ知らない。
――今、この屋敷にいる限り、あなた方の安全と生活は、私の手の中にある。
アルベルトにとっての急所を、エルフィーゼが握っているということだ。国境の戦地から、彼がどれほど焦り、どれほど無力感を味わうか。想像するだけで胸のすくような心地がした。
「エルフィーゼ様」
食後、皿を片付ける手伝いをしながら、リズがおずおずと切り出した。
「あの……よろしければ、私にも何かお手伝いさせてくださいませ。ただでお世話になるわけには参りません。料理でも、洗濯でも、何でもいたします」
「そうですわね……では、お言葉に甘えて」
エルフィーゼは簡単な仕事を彼女に与えた。リズの働きぶりときたらひどいものだったが、ことさら優しくした。新参のメイドたちがそれをどんな目で見ているか知りながら。彼女たちと同じ平民女、彼女たちと同じ新参者、神に許されぬ愛人の身でありながら、彼女たちの雇い主エルフィーゼに優しくされる、この土地の者ではない女の姿を。
一方台所の隅で、ヴィルヘルムが満腹になった腹をさすりながら、退屈そうにあたりを見回していた。
「ねえ、この家、他に何もすることないの? 王都はもっと楽しかったのに」
「ヴィルヘルム、我儘を言ってはいけません」
リズが窘めるが、少年は不満げに唇を尖らせた。
「だってつまんないもん。おばさんはブスだし、使用人もブスしかいない!」
エルフィーゼはくすくす笑い、メイドたちは鼻白む。リズは恐縮した素振りですみませんと繰り返したが、息子をぶつことも怒鳴って躾けることもしない。
エルフィーゼは二人を一番いい客間へと案内した。埃を被っていた客間を、その日のうちに使用人たちと共に大急ぎで整えさせ、清潔な寝具を用意させた。
「侯爵夫人様がこんな労働をなさるなんて……」
とリズは呟き、ヴィルヘルムは嫌悪と侮蔑の目でせっせと働くエルフィーゼを睨んだ。こうした方が心象がよさそうと踏んだのだが、母親の方はあたりだったようである。
「ごゆっくりおやすみになってね」
とエルフィーゼは微笑んだ。
罠は仕掛け終えた。




