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翌朝、エルフィーゼは日の出とともに起き出し、屋敷中を歩き回った。
夫は本当にいなかった。すでに腹立たしいを通り越していた。
前の生の記憶を頼りに、探し物をした。舅の書斎、その奥にある古い簞笥の抽斗の裏。非常時のため、あえてここに隠してある。かつて寝たきりになった舅自身が譫言のように呟いていたのを、エルフィーゼは覚えていた。
「右奥の抽斗、裏の隠し板にな……」
埃を被った書斎に足を踏み入れ、簞笥を引き出す。抽斗を全て外し、裏板に指をかけると、かすかな軋みと共にそれは外れた。中から古びた小箱が転がり出てくる。開けると、シュタイン侯爵家の紋章が刻まれた、先代当主――つまり舅の指輪だった。
エルフィーゼは、それを握りしめた。
前の生で、舅は意識が戻った僅かな時間に、繰り返しこう言っていた。
「あの子はまだ、現役当主としての権限を全部持っていないからなあ……」
「和解したいが、無理だよなあ……」
「私が倒れる前に、正式な引退の届けを出しておけば……」
と。
まあ、もちろん寝たきりの老人の言うことだから途切れ途切れで、言葉も拙く声も掠れていた。だが彼は何度も何度も同じ話をするので、エルフィーゼは自然とその内容を覚えていた。
また、使用人たちは昔の話ばかりする。老人だもの、それは仕方ない。それで彼女は、かつてこの家で何があったのかを知っていた。
父親のシュタイン侯爵の浮気癖。外で作った愛人と子供がいる家にいって、帰らない。泣く母親。俺はあんなやつみたいにならないと決意するアルベルト少年――。
なんのことはない。夫である男はかつて父親がやったのと同じことをやり、そして母親がされたことを妻であるエルフィーゼにやり返しているのだ。なんだってそんな見当違いな復讐を彼が始めたのか、それはわからないし、わかる必要もないのだと思う。
エルフィーゼはあの幼稚な男の残虐な復讐に付き合わない、それだけである。
アルベルトは父親との対話を拒絶し、父が倒れるとさっさと当主としての権限を振るいはじめた。なし崩しに彼がシュタイン侯爵家を取り仕切ることになったが、本当は、書類上は今も、シュタイン侯爵家の当主は先代――つまりこの寝たきりの老人のままである。アルベルトは「次期当主」として実務を執っているに過ぎず、正式な代替わりの手続きは、まだ済んでいなかった。
本当ならば、五年後に事態は自然と収束する。老侯爵の死によってアルベルトはごく当然に名実ともにシュタイン侯爵になる。
だがエルフィーゼはもうひとつのことを覚えていた。
これからほんの一週間後。隣国との国境で紛争が勃発する。以後七年にわたって続く、長い長い不毛な戦だ。多くの父親、息子、兄、弟が荒野に骨を埋めた。
この国では貴族の男子が戦地に赴くことは名誉とされ、特に貴族にはその風潮が強い。貴族当主やその子弟が自ら志願することが強く奨励される文化がある。
当然、若い貴族男性に次々戦死されては困るので、高位の貴族が実際に出征を義務付けられることはまずない。替え玉として傭兵を雇い差し向けることも暗黙の了解として容認されている。
だが、それでも「志願」は美徳とされ、社交界での評判を大きく左右した。特に、王家に近い名門であればあるほど。
前の生のアルベルトは、志願しなかった。王都でリズと子と共に安穏と暮らし、戦は他の家門の男たちに任せていた。そのことを陰で謗る声もあったが、彼は気にも留めなかった。
――今度は、違う。
エルフィーゼは指輪を握りしめ、静かに笑った。
当主権限を持つ舅の名で、正式にアルベルトを出征志願させる。書類上は何の問題もない。現当主が息子を推薦するのは、この国の慣習として全く自然なことだ。周囲から見れば、これほど美しい話はない――老いて病に伏した先代が、家の誉れのために息子を送り出す。
その日のうちに、エルフィーゼは舅の部屋を訪れた。
「お義父様」
寝台に横たわる老人のしみの浮いた手を取った。エルフィーゼの静かに語りかけに彼はうっすら目を開ける。舅の意識ははっきりしているときとそうでないときがあるが、今日ははっきりしている日だ。前の生での経験から彼女にはそれがわかる。
「アルベルト様が国境守備軍へ志願なさいました。シュタイン家の名誉のために」
老人の濁った瞳が、わずかにきょとりと動いた。
「書類はわたくしが代筆いたしました。彼の妻の名において。あとは、押印さえあれば万事整いましてございます」
「う、ううう……」
舅は痛みに耐える声を出す。エルフィーゼは甘い声を出した。
「名誉なことでございますよ。まさかお厭いあそばすことはございませんでしょう」
そうして年老いた男の黒いあざだらけの手を取った。
舅の署名は震える右手でも辛うじて書けたし、印璽はまさしく本物だった。侯爵家当主の名において、正式にアルベルト・シュタインを国境守備軍への志願者として届け出る書類が、王都の軍務局へと発送された。
半月後。
王都から早馬で駆けつけたアルベルトは、屋敷の門を叩き壊さんばかりの勢いで飛び込んできた。
「エルフィーゼ! これは一体どういうことだ!」
「まあまあ、おかえりなさいませ」
彼の手には軍務局からの正式な受理通知が握られている。アルベルトの顔は怒りのあまり赤黒く染まっていた。
「俺が軍隊に志願だと!? 誰がそんなことを――」
「お義父様が、シュタイン家の名誉のためにあなたを推薦なさいましたわ」
エルフィーゼはくすくす笑い、玄関ホールを見下ろした。優美な両翼の形の階段の上から。革ひもを通して首から下げた指輪をきらきら見せびらかすと、アルベルトの顔はドス黒く変色する。今すぐ上がってきたいだろう。だができない。
この古い古い屋敷で、両翼の階段など真っ先に朽ち果てたところだから。雨漏りの音さえ響くここで、二階に上がる手段は使用人用のハシゴだけである。
そう。エルフィーゼは何年も何年もそうやって、使用人同然の暮らしをしていた――。
「ご存知でして? 当主権限はまだお義父様にもございますことよ。正式な代替わりの手続きは、済んでいないと存じておりますが」
フン! フン! と鼻息も荒く二階に上がる方法を探していたアルベルトが、はたと足を止め、今度は青白くなった顔でエルフィーゼを仰ぎ見る。
「……お前、まさか」
「私はただ、お義父様のご意向を伺い、代筆をお手伝いしただけですわ」
「偽証は犯罪だぞッ!」
「証拠がありまして?」
男は言葉に詰まった。何もかも、紋章指輪を回収していなかった彼の落ち度である。紋章指輪は一人の当主につきひとつ。家紋と、個人を現わす模様である貴族紋が組み合わさったかたちだ。
現状、シュタイン侯爵家が家を代表する宣言をする場合有効な紋章は二つ。エルフィーゼの舅と夫は、同等の権力を有しているのだ。
すべて合法である。当主である舅の名において、嫡男を国境守備軍に推薦する――この国において、これ以上に非難のしようのない、むしろ賞賛されるべき手続き。もし撤回を申し出れば、「臆病者」「家の名誉を軽んじる不孝者」「恥知らず」という誹りを免れない。
「取り消させる。父上に、直接――」
「まあ。もし撤回などなさったら、リズ様にも累が及ぶやもしれませんわねえ……」
アルベルトは拳を震わせ、ぎろりとエルフィーゼを睨みつける。
「お義父様は今朝方から、お加減が優れません。興奮させるようなお話は控えていただきたいものですわ」
エルフィーゼは微笑みながら言う。自分でも驚くほど声も気持ちも凪いでいた。
目の前の、この男。――こんな男に人生を踏み潰されたのか、と思えばそうもなる。こんなちっぽけな馬鹿男に。
さて。そろそろか、と彼女は顔を上げ、扉の向こうへ姿を消した。
「逃げるのか!? 卑怯者め、待てっ、この腹黒い女め!!」
アルベルトは叫んだが、すでにエルフィーゼのスカートの裾さえ見当たらない。彼は地団太を踏んだ。
これから起こる未来を知っているエルフィーゼの方が、一枚上手である。そのことはすぐ証明された。
この結婚の仲人を務めた公爵がいる。名をゴットフリート・フォン・ヴァイセンベルク。アルベルトの父方の伯父にあたる、王家にも近い高位の貴族であり、豪放磊落、だが曲がったことは大嫌いという性分のむくつけき壮年男だった。
「おおい、おおい、誰かいないか? 誰もいないのかあ?――おや、いるじゃあないか。アルベルト! おお、我が甥よ!」
朗らかに笑いながら、公爵は屋敷に踏み込んできた。その古さと壊れっぷりに一瞬、ぎょっとしたようだが、すぐに笑みが戻る。表がわいわい騒がしいことに、アルベルトはやっと気づいた。
だが自分より明らかに格上の公爵の相手をしないわけにはいかない。アルベルトは慌てて姿勢を正し、引きつった笑みで両腕を広げ伯父の抱擁を受け止めた。
「伯父上……」
「聞いたぞ聞いたぞ! 国境守備軍への志願、しかも先代――お前の父上直々のご推薦とはな!」
公爵は満面の笑みで、ワンワン響く声量で続けた。
「いやはや、近頃の若い当主どもは、爵位に胡座をかいて戦場になど誰も出たがらぬ。そんな中、シュタイン家からまたひとり、剣を取る男が出るとはな! これでこそ我らが誉れ高き血筋よ!」
「……光栄です」
アルベルトは、声を絞り出すようにそう答えるほかなかった。
「なんだ、その顔は」公爵の太い眉が、ぴくりと動いた。
「まさかとは思うが、怖気づいたのではあるまいな?」
「いえ、そのような――」
「うむ、そうだろうとも!」
公爵は答えを待たずに、豪快に笑い飛ばした。恰幅のよい体躯を揺らし、両腕を広げて甥の肩を、バンバンと勢いよく叩く。
「男だ、男だ、お前は男だ!」
そして次々と貴族が入ってきた。皆、近隣の領地に散らばる弱小貴族である。だが社交界の一員だった。たとえどんなに没落した者であろうとも。アルベルトは必死に笑顔を作った。
「これはこれは、シュタイン侯爵家のご令息殿」
最初に進み出たのは、白髪交じりの痩せた老貴族だった。杖をつきながらも、背筋はぴんと伸びている。
「隣領のホーフマン男爵にございます。噂は聞き及んでおりましたぞ。当代随一の勇気あるご決断とか。我が家門など、とうに戦に出せる息子もおりませぬゆえ、羨ましい限りです」
ホーフマン男爵は皮肉とも羨望ともつかぬ笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
続いて、恰幅の良い中年の男が若い妻を伴って現れた。
「ブリンクマン子爵です。いや、実に見事、実に見事だ! 我が家の跡取りなど、剣より書物ばかり好みましてな。アルベルト殿を見習わせたいものです」
子爵の妻が愛想笑いを浮かべながら、そっと付け加えた。
「本当に、勇ましくていらっしゃいますこと」
その後ろから、まだ若い、二十歳そこそこの貴族青年が緊張した面持ちで進み出た。
「フォークト男爵家の三男、ハインツと申します。実は、私も来春には従軍を考えておりまして……アルベルト様のような方が先陣を切ってくださること、心強く思います」
青年の目には、純粋な尊敬の色がある。アルベルトは機械仕掛けの人形のようにがくがく頷くしかない。
さらに、年老いた未亡人の伯爵夫人が、杖をつきながらゆっくりと歩み寄った。
「私はローゼンタール伯爵の未亡人です。夫も、その父も、代々国境の守りに立ちました。今は私の代で家門も細りましたが……こうして若い方が志を継いでくださるのを見ると、目頭が熱くなります」
夫人は震える手で、アルベルトの手を取った。
「どうか、ご無事で……」
その言葉には、他の誰の祝辞よりも重みがあった。アルベルトは思わず視線を逸らした。
貧相な身なりの、顔の幅より大きな横に跳ねた髭の老貴族が言う。
「ヴァイゲル准男爵です。爵位こそ低うございますが、代々国境守備に名を連ねた家系。此度のこと、我が家門一同、心よりお慶び申し上げます」
准男爵は深く頭を垂れた。その粗末な上着の袖は、あちこち繕われた跡があった。アルベルトは顔を顰めないようにするのに精いっぱいである。
借金から実家を救ってもらった負い目のある妻相手には高圧的に出られても、社交界での噂と立場を人質にされればこうも弱い。アルベルトは卑怯な男であるが馬鹿ではないので、ここで騒ぎ立てれば、自分の評判を貶めるだけだということくらいは分かる。
(エルフィーゼッ! 貴様ああああああああああああッ)
心の中で叫んだところで、妻はいない――いや、いた。いつの間にかきちんとした社交服に着替え、この場に溶け込んでいる。
エルフィーゼは夫の様子を見つめていた。唇にかすかな笑みが浮かぶ。嘲笑だ。いけないいけない。慌てて、潤んだ瞳とそれでも気丈に笑う新妻の笑顔を用意する。ククッと喉が鳴ってしまうのは避けられなかったけれど。
「ホーフマン男爵様」
エルフィーゼは杖をついた老貴族の前で優雅に膝を折った。
「本日はお足元の悪い中、遠方よりお越しくださいまして、まことにありがとうございます。男爵様の御領地は、確か秋の収穫が見事だと伺っております。今度ぜひ、その手法を我が領地にも学ばせていただきとうございます」
ホーフマン男爵は、皮肉げだった表情を一転させ、目を丸くした。
「お、おお……これは、よくご存じで。いや、シュタイン侯爵夫人ともあろうお方が、我が男爵領の収穫事情にまでご興味を持たれるとは」
「弱小と侮るなかれ、と父からよく言われておりました」
エルフィーゼは微笑んだ。
「小さな領地ほど、知恵が詰まっているものでございます」
男爵は相好を崩し、深く頷いた。
前の生で生きる喜びなどいっぺんも感じたことはなくても、聞き知ったこと、家事の手際は受け継いでいる。これだけの催しを一人で立ち上げるのは骨が折れたが、やってやれないことはなかった。
次から次へと訪れる祝辞の波に、アルベルトはただ笑顔を貼り付け、頷き続けるしかないようである。
彼の入隊手続きの完了を待たず、エルフィーゼはこの催しを準備し、一夜であらゆる招待状をしたためた。シュタイン領内の農民たちの代表、近隣の男爵家、子爵家の面々にも、次々と使者を走らせたのだ。
貴族のあとにおずおずやってきた農民たちの目は、アルベルトよりごちそうの数々への渇望を隠し切れない。台所をフル回転させ、近くの旅籠からも料理を仕入れ、かなりの金額を使ってしまったが惜しくはなかった。
――エルフィーゼはこれからシュタイン侯爵夫人として、アルベルトの妻、舅の義理の娘として、当主代理をするのだから。つまり、シュタイン侯爵家の実質的な支配者になるのだ。アルベルトに代わって。
笑顔などいくらでも出てこようというものだ。
エルフィーゼはシャンパングラスを頭上に掲げる。
「我が夫にしてシュタイン侯爵家嫡男、アルベルト様の勇壮なる国境守備軍への出征を祝して!」
乾杯、乾杯、乾杯!
声は続いた。そして宴が始まった。
仲人を務めたヴァイセンベルク公爵はすでに赤ら顔。上機嫌で杯を掲げ、
「シュタイン家に、また一人、国のために立つ勇者が生まれた」
と高らかに宣言した。
農民たちもまた、素朴な言葉ながら口々に称賛の言葉を述べたあとごちそうへ飛びつく。貴族たちから降り注ぐ賛辞。エルフィーゼの笑み。
広間の中央で、アルベルトはグラスを片手に作り笑いのまま固まっていた。
彼はもう、何も言えないでいる。
(いやだ、なんて言えないでしょう?)
――かつてのエルフィーゼと同じに。言ったって誰も聞いてくれやしないのだから。
そして彼は逃げることもできない。入隊を宣言し、祝賀を開いておきながら敵前逃亡などと、シュタイン家の名誉は地に落ちる。大恩ある仲人の公爵の面前で駄々をこねることも、当主である父の推薦を覆すことも不可能。そしてエルフィーゼを詰問することも。だってそこで酔っぱらっている制服の男は役人である。この宴がお開きになればすぐ、アルベルトを引っ立てて軍営地に連れていく手筈である。
エルフィーゼは、招待客たちの間を優雅に回りながら、するりと夫の隣に寄り添った。周囲は温かな拍手で若夫婦を祝福した。エルフィーゼは胸を張る。誰よりも夫を誇らしく思う、貞淑な若妻のように。
「軍装はすでに整えましてございますからね、あなた」
にこ。と彼女は笑った。
ひく。と彼は顔面で応えた。
「家宝の剣も、食料も。なんでもございますからね――本当に誇らしいこと。シュタイン家の誉れのために、どうぞご武運を」
アルベルトの目に、燃えるような怒りが浮かんだ。だが、その怒りをぶつける場所はどこにもない。
エルフィーゼはころころ笑い、よろけたふりをして彼の胸にワインをぶっかけた。




