10
短剣の切っ先はアルベルトの喉笛を切り裂き、顔を切り上げ、額の骨でようやく弾かれて顔面からこぼれた。ヴィルヘルムの蹴りの衝撃でアルベルトの手の指は砕け、そこだけびぐびぐのたうち回って別の生き物のようだ。
割れた顎で呼吸がままならないのだろう、アルベルトはぜひゅ……っ、ぜひゅ……っと浅い呼吸を繰り返している。裾が血に濡れぬよう十分気を付けながらエルフィーゼはしゃがんだ。
「苦しいでしょうね。お医者を呼んで差し上げましょう」
アルベルトは自分の流した血だまりに突っ伏し、ぷるぷるヴィルヘルムに手を伸ばす。だが彼の息子は、彼を見て泣きながらも近づこうとはしないのだった。
「かわいそうに。なんてかわいそうな人なの。お父上はお亡くなりになり、リズは死に、ああそうそう、お母上は今頃あなたのことなんて忘れてしまったのですってね! なんてこと」
くすり。エルフィーゼは笑いながら言った。ヴィルヘルムや使用人の目など気にしなかった。
そう――アルベルトの母がシュタイン侯爵家にいないのは、亡くなったからではない。浮気性の夫、言うことを聞かない粗暴な息子に愛想を尽かし、愛人を囲って出ていったのだ。
エルフィーゼは末期の息にあえぐアルベルトに顔を寄せ、大きな声ではっきりと告げた。
「お母上様はわたくしにはお手紙をくださったのですよ。決してあの恐ろしい息子には言わないで、と書いてありましたわ。――お母上様が今は愛人の愛らしいお子様を産んで幸福であることを知ったら、アルベルトは邪魔しに来るかもしれないからと!」
「……エルフィーゼ様。どうか。エルフィーゼ様」
ヴィルヘルムが縋るような声を上げたが、エルフィーゼの肩を掴んでアルベルトから引き剥がすことはなかった……そんなことはできないのだ。エルフィーゼはいつだってヴィルヘルムの味方だったのだもの。
やがてぜいぜいとアルベルトの息は細く、かそけくなり、エルフィーゼを睨む憎悪の目から命が抜けていった。彼女はそれを愉快な気持ちで見下ろす。今にも笑い出しそうだった。だって――だって。ふふ、実の息子が蹴ったら短剣が折れて、折れて、刺さって、血が出てふ、ふ、ふ!
顔のド真ん中におまんこがついてるみたいに裂けてるんだもの! きゃはははは!
すっごく、気持ち悪ぅい。
アルベルトはかろうじて最期の力を振り絞ってヴィルヘルムを見ようとした。あるいは、この期に及んですべては嘘で、屋敷からリズが駆けてくるのを待っていたのかもしれない。だが奇跡は起こらなかった。エルフィーゼはわざと彼の前に立ちはだかり、義理の息子が視界に入らないようにした。
だからアルベルトはエルフィーゼの顔を見ながら死んだ。どんな気持ちだったのだろう?
「くっ。くっくっく……」
「エルフィーゼ様、お気を確かに」
「きゃははははははは! きゃアーっはははははははははは!」
「――メイドたち、手を貸してくれ。奥方様が!」
ヴィルヘルムに抱えられて屋敷の中に戻りながら、エルフィーゼの笑いは止まらない。
――彼女は運命に勝ったのだ。
アルベルトは正体不明の浮浪者、おそらく戦場で気が狂った元兵士という扱いで、共同墓地に埋葬されることになる。エルフィーゼはハルヴァートへ手紙を書き、彼がアルベルトであるとは断定できない言い方でその処遇を知らせた。あとは、ハルヴァートの復讐心次第である。共同墓地ごと買い取ってどうにかしてしまうか、あるいは……。
ヴィルヘルムは修道院へ入ることになった。彼自身がそう決めた。
「俺は結局、本物の貴族にはなれません。このまま寄宿学校にいても、何者にもなれません。このまま……エルフィーゼ様の恩情に甘えてばかりでは、俺はだめになってしまいます。父のように。母のように」
出立の日、いっそ透明な笑みで少年は言った。晴れやかな顔だった。
「生涯を人のために尽くします。神への祈りと、母の安らかな眠りを願って……」
「そうね、それがいいと思うわ」
ヴィルヘルムはエルフィーゼの罠から逃れた。あっぱれだった。彼は彼の人生を自らの手で取り戻したのだ……エルフィーゼがアルベルトたちを陥れてそうしたように。
義理の息子がいなくなることが思った以上に胸を突き、エルフィーゼは意外に思った。嬉しくもあり、寂しくもあり。複雑な心境だった。
「その……最後に、どうか教えてください。おばあ様からあなたにお手紙があったというのは、本当なのですか?」
「えっ。嘘ですよ。当たり前でしょう。女ですもの、捨てたいらない男のことなんて、たとえ息子でも思い出しゃしませんよ」
エルフィーゼがきょとんとして言うと、ヴィルヘルムは笑い出した。とても綺麗で透明な沢の淵を覗いた気持ちになる涼しげな笑い声だった。
ヴィルヘルムを傀儡の侯爵にして自分が実権を握り、シュタイン侯爵家を末永く蹂躙する計画は白紙に戻った。エルフィーゼが死んだあと、シュタイン侯爵家の財産は少なくない波乱を呼び起こすことだろう。
そうしてヴィルヘルムは修道院へ旅立ち、アルベルトの一件も片付いた。
屋敷はいよいよ静かになった。
舅もいない。もはや夫と呼ぶことさえおかしい、あの男もいない。ヴィルヘルムもいない。使用人たちの足音と、季節の移ろいだけが、この古い屋敷の時間を刻んでいく。
エルフィーゼは書斎で領地の収支報告書に目を通す日々を送っていた。首元を彩るのは、彼女だけの紋章を刻んだ当主の証の指輪である。
もう誰にも邪魔されなくてすむ。誰にも脅かされない。手に入れたものを、ただ静かに守り、育てていくだけの日々。
平穏だった。ただそれだけの日々だった。誰にも奪われない城と、誰の許しも要らない自由だった。
(悪くないわ。悪くない――)
波乱などこの先ひとつもいらない。
窓の外を眺めながら、彼女は小さく息をつく。安穏だけが胸にあった。
「エルフィーゼ様」
秋の午後、家令やってきて客の訪問を告げた。
「ハルヴァート様がお見えになっております」
エルフィーゼは首を傾げる。
「何のご用事かしら?」
「詳しくは伺っておりません。ただ――『手土産を持ってきた』とだけ」
応接間に通されたユリウス・ハルヴァートは、いつものように隙のない立ち居振る舞いだった。こうといってはなんだが金をかけた部屋の中でちっとも委縮せず、威風堂々としているのはさすがである。
心なしか彼の表情が少し柔らかに見えるのは秋の日差しのせいだろうか? 黒檀のテーブルの上には王都で評判だという菓子店の箱が置かれていた。
「お久しぶりですわ――で、何の風の吹き回しですの、ハルヴァート様?」
「風の吹き回し、というほどでもありませんよ」
ハルヴァートはすすめられて椅子に腰かけると、いつものように足を組んだ。
「あの男――アルベルトの件、片がついたと手紙をくださったでしょう。先ほどまで共同墓地を参っていました。奴が好きだと豪語していた酒を供えてやりましたよ」
「まあ、意地の悪い」
「意地が悪いのはお互い様でしょう、侯爵夫人」
彼はくつくつと喉で笑った。エルフィーゼも、思わずつられて笑ってしまう。
「それで、本当のご用件は?」
エルフィーゼが尋ねると、ハルヴァートは沈黙する。必要だから黙ったのではない感触を受けた。言葉を選んでいるような沈黙だった。
「――あなたがこの先どうなさるおつもりか、気になりましてね」
「どう、とは?」
「ヴィルヘルム殿は修道院へ。舅殿もアルベルトも、もういない。あなたは今や、正真正銘、独り身のシュタイン侯爵家当主だ。この先、跡継ぎをどうなさるおつもりか」
「そうですわね……」
エルフィーゼはテーブルの上の菓子箱に視線を落としながら、静かに思案する。
「今のところ、考えておりませんの。急ぐことでもございませんし」
「なるほど」
ハルヴァートは、しばらく黙っていた。それからまっすぐにエルフィーゼを見つめる。やろうと思えばこれほど真摯なまなざしをすることができるのか、この男は。
「侯爵夫人。一つ、伺ってもよろしいですか」
「なんなりと」
「あなたはこれから先、誰かに――たとえば私のような成り上がり者に、心を許すおつもりはおありか?」
エルフィーゼの時が止まった。目を瞬かせながら、彼女は沈黙する。
双方が考えあぐねて黙り込む、心地よい沈黙だった。
応接間の窓から差し込む秋の陽射しが、ハルヴァートの整った横顔を照らしている。彼の目はいつもと違って濡れて、揺れていた。
エルフィーゼはようやく言った。
「それは――求婚のおつもりで、おっしゃっていますの?」
「さて、どうでしょうね」
ハルヴァートははぐらかす。だがその目はエルフィーゼから逸れないでいる。
「私はただあなたという人間にとても興味を持っている、という話です。惹かれている、と認めてもいいのかもしれない。恐ろしく腹黒く、傲慢で残酷で強かで、それでいて――誰よりも、報われるべき人だ」
心臓がぎゅっと縮まった。エルフィーゼはかろうじて微笑みを唇に乗せたが、うまく貴婦人の笑い方ができているか自信はなかった。
「……面白いことをおっしゃいますのね」
秋の日差しは部屋を暖かく保っている。暖炉の火は当分必要ないだろう。
「今すぐに、お返事を差し上げるつもりはございませんわ」
「もちろん、急ぎませんとも」
ハルヴァートはぱっと立ち上がると、優雅に一礼した。
「私は気の長い商人ですのでね。良い取引には、時間をかける価値があると知っています」
彼が部屋を出ていく背中を見送り終え、エルフィーゼはどさっとソファの背もたれに倒れ込む。驚いた。ああ、驚いた。
テーブルの上の菓子箱にそっと手を伸ばした。蓋を開けると綺麗な砂糖菓子がお行儀よく並んでいる。一つ摘まんで口に運ぶと、思いのほか甘かった。
窓の外では、秋の風が庭の木々を静かに揺らしていた。誰にも奪われない城の中で、エルフィーゼは、久しぶりに心から笑った。
本当に久しぶりに、次に何が起こるのかを、楽しみに思う自分に気がついた。
完




