第3話 英単語テストとペナルティ
金曜日の朝、昇降口を通る風はどこか湿っぽく、梅雨の気配を孕んでいた。
ガタゴトと騒がしい教室の片隅で俺は机に突っ伏しながら片手で英単語帳のページをめくっていた。
「おい、柊。お前が朝から勉強なんて、明日は槍でも降るんじゃないか?」
「いや、世界滅亡の前兆だろ。今のうちに購買の焼きそばパン食い溜めしとくか……」
通りすがりのクラスメイトたちが珍獣でも見るかのような目を向けてくる。
「うるさい。俺だってやるときはやるんだよ。……多分な」
生返事を返しながら、心の中で盛大にため息を吐き出した。
違うんだ、お前ら。俺だって好き好んでこの『ターゲット1900』と睨み合っているわけじゃない。すべてはあの完璧超人生徒会長による「命令」のせいだ。
その時、教室の前方の扉がガラリと開いた。
すれ違う生徒たちが自然と背筋を伸ばす。凛とした佇まいで入ってきたのはお馴染みの腕章を巻いた白岸リコだった。
彼女はまっすぐ俺の席へと歩み寄ってくると、机の端にすっと指先を添えた。
「おはよう、蓮。……命令は守れているようね」
リコの澄んだ瞳が俺の手元にある単語帳へ落とされる。
「あ、ああ……。頭の中に、英単語が強制的に流れ込んでくるんだ……」
俺はわざとらしく視線を泳がせ、覇気のない声で応じた。
(見回りに来るとか、先生より先生してんじゃねぇよ。)
クラスメイトたちは「またいつもの幼馴染の距離感か」と生温かい目で見守っているが俺の背中には冷や汗が流れていた。リコは誰も見ていないことを確認するように周囲に目を配ると、ポケットのスマートフォンをカチリと鳴らした。
「昨日覚えたところを、今から復習しなさい。これが今日の授業前の命令よ」
「了解……ご主人様……」
うつろな目で呟き、俺は再び単語帳に視線を落とした。
キーンコーンカーンコーン。
一限目のチャイムとともに、英語教師の山城が教壇に立った。
「よし、席に着け。予告通り、英単語の小テストを始める」
配られた解答用紙のざらついた感触。
いつもならお手上げ万々歳の白紙で出すところだが今日の俺は違った。驚くほどスラスラと、シャープペンシルの先がスペルを紡いでいく。
(……あ、これ、昨日リコの部屋でやったやつだ)
昨日、必死に頭に叩き込んだ単語たち。
テストが回収される際、山城が俺のびっしり埋まった解答用紙を見て、眼鏡の奥の目を丸くしていた。
(……フッ。見たか山城。これは催眠の力じゃない。昨日俺が、リコに監視されながら死ぬ思いで勉強した成果だ!)
教壇の後ろ、窓際の席に座るリコを盗み見ると彼女は小さく満足そうに顎を引いていた。
そして放課後。
部活へ向かう生徒たちの足音が廊下に響く中、俺の席の前にリコが仁王立ちしていた。
「結果発表よ」
「その、テレビのオーディション番組みたいな言い方やめろ」
リコが突き出してきた解答用紙には真っ赤な丸が並んでいた。
点数は目標ラインをギリギリ超えた合格点。
「……合格ね」
その瞬間、リコのツンとすました口元がほんの少しだけ、本当に微かに緩んだ。
彼女は自分の生徒会活動がうまくいった時でさえこんな表情は見せない。
「……えらいわ、蓮。よく頑張ったわね」
リコはそっと手を伸ばし、俺の頭をぽんぽんとぎこちなく撫でた。
(……っ)
不意打ちだった。
夕方の教室、オレンジ色の光に照らされたリコの、どこか恥ずかしそうな、それでいて心から慈しむような笑顔。心臓がドクンと大きな音を立て、喉の奥が熱くなる。
そんな顔をされると、自分がただの「掛かったフリ」をしている嘘つきのようで、少しだけ胸がチクリと痛む。同時に不覚にもその笑顔に見とれてしまった。
「あ、いや……まあ、命令だからな」
照れ隠しに顔を背けると、リコの表情が急に引き締まった。
「そうね。今回の合格は、アプリの強制効果によるもの。……でも、ここからが本番よ。本当は不合格だった場合のペナルティだけれど」
「……(ごくり)」
きた。俺は唾を呑み込んだ。
学校生活を巻き込んだ、あの恐ろしい「ペナルティ」の発表だ。一体何をさせられるのか。手を繋いで登下校か? それとも、何か恥ずかしいセリフでも言わされるのか?
「不合格の場合、毎日暗記する英単語を二十個追加。さらに、もう一冊別の単語帳を追加する予定だったわ」
「…………」
(重っ!!!!)
俺は心の中でメガホンを握りつぶした。
恋愛イベントでも罰ゲームでもなく、まさかの「純粋な勉強量2倍キャンペーン」である。
「……あの、リコさん。催眠アプリの使い方、絶対間違ってるぞ」
「間違っていないわ。努力を継続させるには適切な命令が必要なの。アメとムチよ」
「普通、ペナルティってもっとこう……怖いものじゃないか?」
「勉強不足以上に怖いものなんて、この世にないでしょう? 志望校の判定は、まだ安心できないもの」
リコは当然のように言い放った。その瞳はどこまでも真剣だ。
(そこは普通に信頼してくれよ! 教育ママを超えてもはや鬼教官の塾長じゃねぇか! 価値観が完全に受験戦争なんだよ!)
「今回は合格したから、追加はなしよ。……でも、油断はしないで。次は来週の月曜日に、数学の確認テストを予定しているから」
「……はい」
催眠アプリをただの超効率的スタディツールとして使いこなす幼馴染に、俺はただただ白旗を上げるしかなかった。本当に、俺の成績のことばっかり考えてる奴だ。
カバンを肩にかけ、リコと共に下校の途につく。
昇降口を出たところで、後ろから「あ、柊くん!」と声をかけられた。
振り返ると、同じクラスの女子生徒が、プリントを手に困り顔で立っていた。
「ちょっと、ここの英語の和訳が分からなくて……。山城先生に聞こうと思ったらもう職員室にいなくて。さっきテストでいい点取ってたよね? 少し教えてくれない?」
「え? ああ、それなら――」
反射的に答えようとした、その瞬間だった。
隣にいたリコの手が、制服のポケットへと伸びた。
取り出されたスマートフォン。液晶画面には、怪しげな紫色の渦巻きがゆっくりと回転を始め、不気味な電子音が静かに流れ出す。
リコは無表情のまま、しかしその瞳の奥に、言葉にできないほど重く静かな光を宿らせて、俺の目の前にスマホを突き出してきた。
(…………なんでそこで、催眠アプリを構えるんだ?)
完璧なまでの無言。しかし、彼女の指先は微かに震えており、スマホを握る力は昨日よりも明らかに強かった。
俺の心臓が違う意味で冷たく跳ね上がった。




