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第2話 初日のノルマは数学十ページ

「……あ、ああ。わかりました、ご主人様」


 周囲のクラスメイトに聞こえないよう、蚊の鳴くような声で「設定」を出力する。

 俺のトロンとした三白眼を見た瞬間、リコのツンと尖っていた眉尻が目に見えてすとんと下がった。喉の奥で小さく息を吐き出し、胸元に当てた左手をそっと下ろす。


 カバンを肩にかけ、リコの半歩後ろをついて教室を出た。

 初夏の西日が差し込む廊下は心なしか蒸し暑い。窓の外からは運動部の威勢のいい掛け声と、スニーカーが体育館の床を擦るキュッという高い音が響いていた。


「そういえばさ、リコ。購買の裏の自販機、新商品のメロンソーダ入ってたの知ってるか? 炭酸強めで美味いらしいぞ」

「炭酸は集中力を乱すわ。それより蓮、次の体育祭の実行委員、山城先生があなたを推薦しようとしてたわよ」

「うげっ、あの鬼英語教師め……。なんで俺なんだよ。断固拒否する」

「もう私が書類を回したから手遅れよ。」

「え、マジで? …」


 歩調を合わせながら、他愛のない世間話が弾む。

 夕方の爽やかな風が通り抜ける通学路。リコの黒髪から、いつも通りの石鹸の淡い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。


(……いや、普通に話せるなら普通に誘えよ。なんでわざわざ催眠アプリなんていう怪しいワンクッション挟んだんだ)


 そんな俺の内心のツッコミなど露知らず、リコは前を歩きながらスマホの画面をチラリと確認し、真剣な面持ちで頷いている。


「……リコ、さっきから何見てるんだ?」

「催眠の『同調率維持モード』よ。あなたの意識が私の支配下から逸脱しないよう、常に微弱な電波を送っているの」

「へー、そりゃあハイテクだな」


(ただの画面保護シールドの反射光じゃねぇか!)


 そんなやり取りをしているうちに、見慣れた白岸家の門をくぐっていた。

 リコの部屋に入るのは中学の部活の大会前にプリントを届けに来て以来だろうか。ガチャリと扉を開けた瞬間、俺は部屋の光景に思わず足を止めた。


「さあ、座って。時間は有限よ」


 フローリングの床に置かれたローテーブルの上には、数学の参考書、ノート、ノック式の赤ペン、そしてデジタルタイマー。さらにはキンキンに冷えた麦茶が入ったグラスが、結露で水滴を滴らせながら綺麗に二つ並べられていた。

 壁のコルクボードには『柊蓮・集中攻略プログラム(六月度)』と書かれた計画表がピンで留められている。


(予備校でも開くのかお前は!!!)


 思わず顎が外れそうになった。驚きのあまり喉が張り付き、ごくりと唾を呑み込む。


「……あの、リコさん? 準備良すぎない?」

「当然よ。催眠が解けないうちに効率よく進めないと、あなたの壊滅的な成績を底上げできないわ」

「なるほどなー」


(催眠は解けないし最初から掛かってない。っていうか計画表、一ヶ月単位で作ってんじゃねぇよ! 長ぇよ! これいつまで演技続けなきゃいけないんだ!?)


 リコは真面目な顔でタイマーのボタンを押し、カチカチという機械音が静かな部屋に響き始める。


「命令よ。数学の問題集を十ページ進めなさい。解答はノートに書くこと」

「……御意」


(普通に先生じゃん。命令のフォーマット使ったただの受験指導じゃん。催眠アプリ使ってやることが受験対策の高校生なんて世界中でこいつだけだろ……)


 俺は心の中で激しく頭を抱えながらも、大人しくシャーペンを握った。

 カリカリと芯が紙を削る音が、時計の秒針の音と重なる。冷たい麦茶を喉に流し込みながら、二次方程式の数式と格闘する。


「……あ。ここ、符号が逆」


 リコの声がすぐ耳元で聞こえた。

 分からない問題で行き詰まっていた俺の手元を覗き込もうと、彼女がぐっと身を乗り出してきたのだ。

 途端に、シャンプーの甘い香りが一気に濃くなる。リコの白い肌と、長い睫毛がすぐ目と鼻の先にあって、彼女の規則正しい呼吸の熱が俺の頬に微かに触れた。


「え? あ、ああ……本当だ」


 ドクン、と心臓が急に自己主張を始める。

 俺は慌てて視線をノートに戻したが、耳たぶが熱くなるのを止められない。当の本人はといえば、完全に数式のミスしか視界に入っていないようで、真剣な眼差しでノートを凝視している。


(……意識してんの俺だけかよ。恥ずかしすぎるだろ)


 昔もこうだった。小学生の頃、夏休みの宿題が終わらなくて泣きそうになっていた時も、リコはこうして隣で根気強く教えてくれたのだ。あの頃と変わらない幼馴染の距離感に、気恥ずかしさと同時に、どこか居心地の良さを感じてしまう。


「――はい、今日はここまで」


 ピピピピ、とタイマーが鳴り響き、リコがペンを置いた。

 提示された十ページはきっちり終わっている。我ながら、催眠状態の演技をしながらよく集中できたものだ。


「意外とスパルタじゃなかったな……」

「毎日続ければきっと変われるわ。あなたの努力は裏切らないから」


 リコはそう言って、机の上のノートを愛おしそうに閉じた。


(……いや、そこは催眠アプリの効力のおかげじゃないのかよ。何普通に本人の努力を褒めてんだよ。先生より先生してるわ)


「ふぅ……」


 リコが小さく息を吐き出す。

 その瞬間、彼女の張り詰めていた肩の線がすっと緩んだ。自分が完璧に問題を解けたことに対する満足感ではない。俺が投げ出さずに「ちゃんと最後まで勉強してくれた」ことに対して、心の底からホッとしたような、柔らかくて優しい笑顔がその唇に浮かんでいた。


(……あ)


 胸の奥がぎゅっと締め付けられるように熱くなる。

 そんなに俺のことを心配してくれていたのか。その不器用すぎる優しさが直球で胸に刺さってしまった。


(……まぁ、毎日こういう放課後も、悪くないかもしれないな)


 恋だの愛だのという大層な自覚はまだない。ただ、この笑顔を壊したくないという気持ちだけが、俺の演技を支える確かな理由になっていた。


 カバンを持って立ち上がり、帰ろうとしたその時。リコが再びスマホの画面を真剣な顔で見つめ、小さく顎を引いた。


「……次の命令も、しっかり考えておかないと」

「え?」

「明日は金曜日だから、英単語の確認テストをしましょう。不合格なら……ペナルティよ」


(まだ増えるの!? っていうか催眠関係なくただの小テスト対策じゃねぇか!)


 満足げに微笑むリコの後ろ姿を見送りながら、俺は明日への一抹の不安を抱え、白岸家を後にするのだった。

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