第1話 幼馴染が催眠アプリを使ってきたので、掛かったフリをしてみた
放課後の教室には西日のオレンジ色がだらしなく広がっていた。
使い古された木の机が熱を帯び、どこか埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。
「……はぁ。また金曜日に英単語の小テストとか、山城のやつ正気かよ」
カバンに教科書を詰め込みながら、俺――柊蓮は盛大にため息を吐き出した。
ただでさえ赤点ギリギリの綱渡り状態だってのに、これ以上余計な暗記物を増やされては脳の容量がパンクしてしまう。
「だいたい、高校生にもなって毎週小テストなんて……。帰りにコンビニでファ〇チキでも食って脳に脂質を補給しないとやってられん」
独り言を呟いて、立ち上がろうとしたその時だった。
「蓮」
低く、澄んだ声が教室の入り口から響いた。
驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは白岸リコだった。
端正に整えられた黒髪が、夕日に照らされてわずかに朱を帯びている。
アイロンのきっちりあてられた制服の胸元には、我が校のリーダーの証である生徒会長の腕章。学年トップを維持し続ける完璧超人で、そして――俺の幼馴染。
「リコ? 珍しいな。生徒会、今日はもういいのか?」
「ええ。今日の分の書類整理は終わらせたわ」
リコはツカツカとこちらに歩み寄ってくると、俺の前の席の椅子を引いて、お行儀よく腰掛けた。
いつもなら「早く帰って勉強しなさい」と説教の一つでも飛んでくるところだが、今日の彼女はどこか様子がおかしい。
手元のスマートフォンを何度も握り直し、液晶画面を見つめては指先を微かに震わせている。
じっと俺を見つめてくるその瞳は、なぜか潤んでいて、小刻みに揺れていた。
「……なんだよ。そんなに見つめられても、小テストの答えは見せてやらないぞ。持ってないし」
「そんなことじゃないわ。……少し、時間あるかしら」
「時間? まあ、ファ〇チキを買いに行くくらいなら」
「なら、いいわ」
リコは小さく、しかし緊張を孕んだ呼吸を一つ吐いた。
その様子があまりにも真剣で、普段の凛とした彼女からは想像もつかない。
(なんだ……? この空気。もしかして、告白……とか?)
いやいや、あり得ない。相手はあのリコだぞ。
幼稚園の頃から泥団子をぶつけ合ってきた仲だ。だが、二人きりの教室、夕暮れの赤、そして彼女の強張った表情。
不覚にも、俺の心臓が少しだけトクンと跳ねた。
ごくり、と唾を呑み込む。
リコは意を決したように、スマートフォンの画面を俺の目の前に突き出してきた。
画面に表示されていたのは禍々しい紫色の渦巻きのグラフィック。
その中央には、おどろおどろしいフォントで『催眠』と書かれている。
「蓮。……これを見て」
「……あ?」
「これ、催眠アプリよ。本物だから」
静かな、しかし確信に満ちた声だった。
(…………はい?)
俺は思わず、突き出された画面とリコの顔を二度見した。
催眠アプリ。
ネットのオカルト掲示板やSNSでたまに見かける、現代の都市伝説だ。
『強い願いを持った者の前にだけ現れ、相手を意のままに操ることができる』とかいう、誰がどう見ても悪質なジョークか、あるいはウイルス入りのネタアプリ。
「いや、リコさん? 生徒会長?」
「本物よ」
リコは真面目な顔で、一歩も引かない。
彼女の綺麗な指先がスマートフォンの側面をぎゅっと力任せに握りしめている。そのせいで爪の先が白くなっていた。
嘘を言っているようには見えない。本気だ。
この学年トップの完璧超人は、どうやら本気でこの怪しい都市伝説を信じ込んでいるらしい。
(おいおい、大丈夫かよ……。ネットリテラシーどうなってんだ)
ツッコミたい気持ちが津波のように押し寄せてきたが同時に、俺の頭の中に邪悪な好奇心が鎌首をもたげた。
(待てよ? ここでそんなの偽物だろって一蹴するのも冷めないか? せっかくの幼馴染の大真面目な勘違いだ。ここはちょっと、掛かったフリをして驚かせてやるか)
「わかった。……じっと、見ればいいのか?」
「ええ。画面の中心を見つめて」
リコが画面を操作すると、紫色の渦巻きがゆっくりと回転を始めた。
チープな電子音が静かな教室に響く。
画面の端には『催眠同調率:80%……90%……』などと、安っぽい進行度が表示されていた。
俺は精一杯、目をトロンとさせて、焦点をわざとぼかした。
ゆっくりと首の力を抜き、操り人形のように視線を泳がせる。
「あ……頭が、ぼーっと……する……」
「……!」
リコの息が止まる音が聞こえた。
彼女の瞳が期待と緊張で大きく見開かれる。
「……蓮。私の声が、聞こえる?」
「……はい、ご主人様……」
言いながら、我ながらチープな演技だなと内心で草を生やした。
ちょっとやりすぎたか?
だが、リコはスマートフォンを持つ手をわなわなと震わせ、ごくりと喉を鳴らした。完全に信じている。
(よし、乗ってきた。さあ、どうする? 『私のことを好きになりなさい』とか言っちゃうのか? それとも『可愛い声で鳴きなさい』か?)
どんな恥ずかしい命令が来ても、後で「なーんてな!」とネタバラシしてやる。
俺は内心にやにやしながら、彼女の「最初の命令」を待った。
リコは頬を上気させ、潤んだ瞳で俺を見つめると、意を決したように口を開いた。
「それじゃあ、最初の命令よ。――今日から毎日、放課後は私と一緒に勉強して」
「…………」
俺は危うく、半開きにしていた口を普通の形に戻しそうになった。
(……え? 勉強?)
「それから、今日の宿題はちゃんと夜ご飯の前に終わらせること。夜更かしは禁止。12時前には絶対に寝なさい」
「…………」
(いや、オカンか!!!!)
心の中でメガホンを使って絶叫した。
なんだその命令。催眠アプリを手に入れて、他人を絶対に逆らえない操り人形にして、真っ先にやらせることが宿題と早寝早起きって。
「……あ、あと、英語の単語帳。新しいのを買って、毎日3ページずつ暗記すること」
(そっち!? 追加のノルマまで課してきたんだけど!)
何がご主人様だ。これじゃただの家庭教師つきの教育ママである。
もっとこう、甘酸っぱい恋愛的な命令とか、それこそ手を繋いで帰るとかあるだろ。なんで催眠の力を全力で勉強に全振りしてるんだよ。
思わず素に戻ってツッコミそうになったが、俺はかろうじてトロンとした目を維持した。
「……わかりました。毎日、勉強、します……」
その言葉が俺の口から零れ落ちた瞬間。
「っ……!」
リコはそれまで張り詰めていた肩の力を、すとん、と抜いた。
胸元に当てていた左手をそっと下ろし、張り付いていた緊張の表情が、一瞬にしてふにゃりと和らぐ。
本当に、心の底から安心したような、少女らしいあどけない笑みがその唇にこぼれていた。
(……あ)
その、普段のツンとした生徒会長からは想像もつかない無防備な笑顔を見て、俺の心臓が不意にトクンと強く跳ねた。
不覚にも、可愛いと思ってしまった。
そんなに安心するくらいなら、最初から普通に「一緒に勉強しよ」って頼めばいいのに。
何が悲しくて、怪しい都市伝説のアプリに頼ってまで俺を机に向かわせたいんだ。
「うん。……よくできました、蓮」
リコは満足そうに、どこか誇らしげにスマートフォンを制服のポケットに収めた。
その顔は「世界を支配した」とでも言いたげな全能感に満ちている。
(……まあ、いいか。すぐにタネ明かしするつもりだったけど、あんなに嬉しそうな顔されたら、今さら『嘘でしたー』なんて言えないよな。しばらくは付き合ってやるか……)
これが、俺の人生最大のプレミ《やらかし》になるとは、この時の俺は知る由もなかった。
翌日の放課後。
「蓮。帰るわよ。今日は私の家で、数学の二次方程式の予習から始めるから」
ホームルームが終わった瞬間、リコが当然のような顔をして俺の席の前に立っていた。
その手には、やる気満々と言わんばかりに自作の勉強計画表が握られている。
(……おい。俺、一日限りのネタのつもりで演技したんだけど。これ、もしかして毎日続く感じですか……?)
俺の、そしてリコの、壮大な勘違いの日々が幕を開けた。




