第8話 深淵の一線
「ヒュー……、ッ、ヒュー……、は……っ……」
動かない。右腕の感覚はとうに消え、脇腹の刺し傷からはドクドクと命が流れ出している。
ヘッドライトの光の向こうで、へそを曲げた大河内と、冷酷な笑みを浮かべる蛇谷が近づいてくる足音が聞こえる。戦う気力なんて、肉体的にはもう一滴も残っていなかった。
だが。
大河内が、「おい! 比良坂ァ! どこに隠れてやがる!」と叫んだその声が、ハルマの脳の最深部、美澄の悲鳴が眠る領域を激しく叩き起こした。
(動け……。動け、動け、動け、動け、動けぇぇぇッ!!!)
ハルマは声にならない絶叫を内側で上げ、折れた右腕を左手で強引に掴み、コンクリートの瓦礫の隙間から、這うようにして泥の中を横移動した。
ここは、解体業者の廃資材置き場。うず高く積まれた鉄屑、崩れたコンクリート壁、錆びついた大型重機の影。
夜の闇とヘッドライトが作る、複雑で濃密な「死角」が、今のハルマにとって唯一の味方だった。まともに戦えば一瞬で肉塊にされる。なら、この地形のすべてを脳内に同期させ、蜘蛛のように闇に潜むしかない。
「大河内、あっちの重機の裏だ。見てこい」
蛇谷の冷徹な指示に、大河内は懐からナイフを抜き、腰を引かせながらショベルカーの影へと近づいていく。
大河内が重機の影に足を踏み入れた、その瞬間だった。
ガサッ!!
「ひっ!?」
大河内が過剰に反応してナイフを振り回す。だが、それはハルマが投げたただの鉄屑だった。
本物は、大河内の真上――不安定に積まれたコンクリート瓦礫のてっぺんから、重力に従って文字通り「落ちて」きた。
「が、あッ!?」
ハルマは自分の負傷した身体の重さごと、大河内の背中に激突した。二人まとめて泥の中に転がる。
大河内はパニックになりながらハルマの顔を殴り、ハルマもまた、折れていない左腕の拳を大河内の喉元へ突き立てた。
「お…前、お前ぇぇぇっ!」
掠れた声で叫びながら、大河内がハルマの脇腹の傷口に指を突っ込む。
「ぐ、あああああああッっっ!」
視界が火花を散らすほどの激痛。ハルマは口から血を撒き散らしながらも、絶対に大河内を離さなかった。
中学時代の狂犬は、今や泥を掴んで目に投げつけ、噛み付き、相手が動かなくなるまであらゆる手段で肉を削る。これでは泥仕合だ。
ハルマは大河内の髪を掴み、地面のコンクリート片に向けて、その顔面を何度も、何度も、狂ったように叩きつけた。
グシャッ! ガッ! ガツッ!!!
「あ、が……ひ、ぃ、やめ……っ……」
あれだけ美澄を嘲笑い、ハルマをパシリにして傲慢にのうのうと生きていた大河内の顔面が、みるみるうちに血と泥で原型を失っていく。ついに、大河内から力が抜け、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。
ハルマは完全に大河内を仕留めた。ボロボロになりながら、ようやく宿敵を地獄に引きずり落としたのだ。
ハァ、ハァ、ハァ、と、大河内の身体の上に馬乗りになったまま、ハルマが天を仰いだ、その刹那。
――ドガッ!!!!
「っはぁはっ……!!」
背後から迫った影――蛇谷の、容赦のない、そして正確無比な一撃がハルマの頭部を捉えた。
コンクリート塊で殴られたかのような、質量を持った暴力。ハルマの身体はゴミのように吹き飛び、鉄屑の山に激しく激突して、そのまま地面に転がった。
「が……は……、つ……」
光が消えた。
耳鳴りすら聞こえない。ただ、自分の頭蓋骨が内側から爆発したかのような衝撃。頭部から溢れ出た血が、顔全体を覆っていく。
肺が空気を拒絶し、口からは泡混じりの血が溢れる。完全に、死の淵だった。心臓の鼓動が、急激に小さく、遅くなっていくのが分かる。
「死……ぬ」
蛇谷は、血塗れの靴をゆっくりと進め、虫を見るような目でハルマを見下ろした。
「なるほどな。その身体で大河内をハメ殺すか。大した執念だ、比良坂。……だけどな、お前のその『復讐ごっこ』、俺にとってはただのガキの砂遊びなんだよ」
蛇谷はハルマの胸元を容赦なく踏みつけた。折れた肋骨が完全に肺を突き刺す。
「が……、あ……」
悲鳴すら出ない。ハルマの視界は、ゆっくりと、しかし確実に完全な深淵(死)へと向かっていた。
(これまで、か……。法律で裁くこともできず……あいつらを、生かしたまま絶望させることもできず……俺は、ここで死ぬのか……)
(痛い痛い痛い痛い痛い痛い……)
薄れゆく意識のなかで、ハルマの魂が激しく拒絶した。いやだ。死ねない。ここで終われば、美澄は救われない。
だが、どうする? 法律? 通じるわけがない。不殺の復讐? 相手は本物の化け物だ。生かしたまま苦しめるなんて生ぬるい綺麗事は、この男には絶対に通用しない。
(……殺す)
ハルマの脳内で、何かが完全に崩壊した。
それは、ハルマが優等生として、そして人間として踏みとどまっていた「最後の一線」だった。
(こいつだけは……蛇谷、お前だけは……殺さなければ、俺が死ぬ。俺が生き残って美澄を守るためには、お前を、この手で殺すしかない……!)
激しい葛藤がハルマの心を切り裂いた。人を殺せば、自分はもう二度と「まともな社会」には戻れない。
美澄の隣に立つ資格も失う。あいつらと同じ、ただの殺人犯に成り下がる。悔しかった。法律の力で、正義の力で復讐したかった。
だが、そんなプライドは、蛇谷の圧倒的な殺意の前で、塵となって消え失せた。
(いい、やってやる……。化け物を殺すために、俺が……っ本物の悪魔になってやる……!)
ハルマの瞳の奥で、すべての光が消え、完全な「漆黒の殺意」が覚醒した。死にかけた肉体に、限界を超えたアドレナリンが駆け巡る。
ハルマは踏みつけられている左手で、泥の中に落ちていた大河内のナイフの柄を、静かに、確実に握りしめた。
覚悟は、決まった。もう、これでいいと。
法も、不殺も、すべてを捨てた本当の狂犬が、深淵の底から這い上がろうとしていた。




