第6話 犬は深淵に堕ちてゆく
「おいおい、どうした『狂犬』。その程度か?」
薄暗い廃倉庫のコンクリート床に、生々しい肉の衝突音が響き渡る。ハルマの身体が、まるで壊れた人形のように激しく地面を転がった。
「ガハッ……!? ゲホッ、ゴホッ……!」
口から大量の鮮血が吐き出され、灰色の床を赤黒く汚していく。ハルマの視界は、すでに自分の血で半分ほど赤く染まっていた。
左のまぶたは完全に腫れ上がり、視界を塞いでいる。肋骨からはパキパキと不気味な軋み音が響き、息を吸うたびに肺を突き刺すような激痛が走る。
圧倒的な、暴力の格差だった。
中学時代、ハルマは数々の不良を病院送りにし、自分の強さに絶対の自信を持っていた。高校に入ってから蓄えた法律や医学の知識があれば、どんな相手でも合法的にハメられると確信していた。
だが、眼前に立つ男――蛇谷は、ハルマがこれまで相手にしてきた「ルールの中で生きている人間」ではなかった。
「ざまぁみろ比良坂! さっきまでの威勢はどこ行っちまったんだよ! 法律がどうとか、お前の小賢しい猿の頭じゃ、蛇谷さんには指一本触れられねえんだよ!」
倉庫の壁際で、大河内が狂ったように手を叩き、下品な笑い声を上げている。その顔には、先ほどまでハルマに怯えていた情けなさは微塵もなく、絶対的な強者の後ろ盾を得た全能感に満ちあふれていた。
蛇谷は黒いシャツの袖を少しだけ捲り上げ、床に這いつくばるハルマを見下ろした。その呼吸は全く乱れていない。
「がっかりさせるなよ、比良坂。大河内から、佐々木と上田を完璧に壊した『恐ろしい優等生』がいるって聞いたから、どれほどのものかと思えば……ただの中学生からの喧嘩の延長じゃねえか」
蛇谷は歩み寄り、ハルマの傷だらけの脇腹を、容赦なく踏みつけた。
「ぐあああああああああッっっ!???」
ハルマの口から、悲鳴ともつかない絶叫が漏れる。蛇谷の靴底が、折れた肋骨をさらに内側へと押し込んでいく。
蛇谷の暴力には、無駄な感情がない。怒りも、憎しみもない。ただ「人間を効率的に無力化し、恐怖で支配する」ための、冷徹極まる暗黒の技術だった。
攻撃の軌道、スピード、体重の乗せ方、そのすべてがハルマの予測の遥か上を行っていた。
「お前がやったことは分かってるぜ。相手に先に手を出させて、それを録音するか何件かの証拠を作って『正当防衛』を主張する。素人相手なら賢いやり方だ。だがな、俺たちの組織にそんなものは通用しねえ」
蛇谷はハルマの髪を乱暴に掴み、無理やりその顔を引きずり上げた。ハルマの顔は泥と血でぐしゃぐしゃになり、かけていたメガネは完全に粉砕されて床に散らばっている。
「俺たちが本気で動けば、お前が持っている音声データなんて、いくらでも『編集された偽造品』に仕立て上げられる。お前の親の職場、通っている学校、すべての関係者に『比良坂ハルマは恐喝の常習犯だ』って噂を流して、社会的に自殺に追い込むことなんて朝飯前だ。法律なんてのはな、まともな社会の中にいる奴にしか通用しねえんだよ」
蛇谷の冷酷な言葉が、ハルマの脳内に容赦なく突き刺さる。ハルマが必死に築き上げてきた「知識の盾」が、蛇谷の属する非合法組織の「無法の力」によって、根底から叩き潰されようとしていた。
「さて、査定は終わりだ。お前は地下の賭場で、どれくらい生き残れるかなぁ?」
蛇谷はハルマの髪を離すと、背後の大河内に顎で図った。
(クソ……! 僕は、何を自惚れていたんだ。法律の知識があれば勝てる? 正当防衛なら無敵? 違う……本物の無法者の前では、そんなものただの紙切れだ……!)
「おい、大河内。こいつを車のトランクに放り込むぞ。……その前に、俺は便所に行ってくる。奥の資材置き場から、大きめのブルーシートと、血を拭き取るためのボロ布を持ってこい。床にこれだけ血を流されると、後で片付けが面倒だ」
蛇谷はハルマの髪から手を離すと、心底退屈そうに吐き捨て、懐から取り出した煙草に火をつけた。
「あ、わかりました! すぐ持ってきます!」
大河内はハルマを床に転がしたまま、嬉々として倉庫のさらに奥にある暗い資材室へと走っていった。蛇谷もまた、煙草をくわえたまま倉庫の外にある簡易便所へと歩いていく。
倉庫の中に、束の間の、しかし絶対的な「隙」が生まれた。
(……が、は……ッ……!)
床に顔を伏せたまま、ハルマは激しい吐血とともに正気を取り戻した。アカウントのハッキング? 遠隔操作のプログラム? そんな小賢しい知識を働かせる余裕など、今のハルマには一ミリも残されていない。
肋骨の激痛と失血で頭が割れそうだ。今この瞬間、ハルマの脳内を支配していたのは、中学時代の「狂犬」としての、生き残るための野生の生存本能だけだった。
(死ぬ……ここで、こいつらに連れて行かれたら、確実に殺される……!)
ハルマは血塗れのまま、縛られた両手に意識を集中させた。大河内は素人だ。ハルマを完全に無力化したと信じ込み、全能感に酔いしれていた。
そのせいで、ハルマの手首を縛るロープの結び目は驚くほど甘かった。
「――っ、う、ああああッ……!」
ハルマは皮膚が擦り切れ、肉が裂けるのも厭わず、全筋力を手首に込めて強引にロープを引き絞った。
じっとりとした自分の血が潤滑油の代わりとなり、肉が抉れる激痛と引き換えに、ずるりとロープが解ける。
自由になった両手。だが、立ち上がることすらままならない。ハルマは格好良さなど微塵もない、無様な姿で床を這いつくばった。
その時、視界の端に、大河内がカバンと一緒に床に放り出していた私物が映る。大河内のスマートフォンだ。ハルマは震える手でそれを掴み、ポケットにねじ込んだ。
その直後、奥の資材室から大河内の足音が聞こえてきた。
「ふ、……っ!」
ハルマの口から、情けない声が漏れる。
もう戦う気概など残っていない。ハルマは割れたメガネを捨て、血と泥で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ただひたすらに、倉庫の裏手にある壊れた窓へと向かって文字通り「這い逃げた」。
窓枠のガラス片で手のひらを深く切ったが、痛みを気にする余裕すらない。ガラガラと激しい音を立てて窓から外の鬱蒼とした茂みへと転がり落ち、ハルマは立ち上がった。
足がもつれ、何度も泥の中に顔面から突っ込む。それでも、背後から聞こえる「おい! 比良坂がいねえぞ!」「何だと!?」という大河内たちの怒号に背中を押され、ハルマは涙と血を流しながら、夜の森へとひたすら走り続けた。
とても、復讐者とは意味をなさない、無様で、惨めで、圧倒的にカッコ悪い逃走だった。
◇◆◇
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……っ!
どれくらい走っただろうか。
学校裏の山林を抜け、街外れの錆びれたコインランドリーの影に滑り込んだ時、ハルマはそのままコンクリートの床に崩れ落ちた。
全身の筋肉が拒絶反応を起こし、呼吸をするたびに口から鉄の味が広がる。ハルマは自分の無力さに、歯を食いしばって悔し涙を流した。
ポケットから、泥と血に汚れた大河内のスマートフォンを取り出す。画面ロックを解除し、大河内が普段からつるんでいる学校の不良仲間や、地元の粗暴犯どものグループチャットを睨みつける。
ハルマの脳細胞が、生き残るため、そして復讐を完遂するための冷徹な計算を始める。
大河内のスマホのGPS(位置情報)を「餌」にして、メッセージを打ち込み、集まってくるクズどもを自分の指定する場所に誘い出す。そこまではいい。
だが――その先の方法が、どうしても見当たらない。
(おびき寄せた奴らを、どうやって倒す……?)
ハルマは激しく葛藤した。相手は一人や二人じゃない。大河内のアカウントが声をかければ、きっと十人近くの粗暴犯が集まる可能性がある。しかもその背後には、あの蛇谷という怪物がいる前提だ。
今のボロボロの肉体で、まともに戦って勝てるはずがない。とはいえ、警察に通報しても、大河内のスマホから発信された「別人からのSOS」のメッセージだけでは、情報が把握できず、警察が現場に突入するまでに時間がかかりすぎる。
その前に自分が確実になぶり殺しにされる。
合法的に、誰も傷つけずに、自分だけが安全な檻の中からクズどもを裁く――そんな都合の良い「法律の正当防衛」の網の目は、今の状況にはどこを探しても存在しなかった。
(……一線を、越えるしかないのか)
ハルマの身体が、恐怖とは違う別の戦慄でガタガタと震え出した。法律というルールを自ら破り、社会的な一線を踏み越える。
それは、ハルマが最も忌み嫌い、二度と戻らないと誓った「あの頃の自分」になることを意味していた。
(嫌だ……! 僕は、美澄のために、あいつらとは違う『正しい人間』として復讐を果たすと決めたんだ! 暴力に頼り、法を無視して暴れ回るなら、僕はあいつらと同じ、ただのクズに成り下がるじゃないか……!)
激しい悔しさが、涙となって血にまみれた頬を伝う。高校に入ってから死に物狂いで勉強してきた。法律を学び、知識を蓄え、理性の力で世界を見返してやるつもりだった。
それが自分の誇りであり、美澄への贖罪のハズだった。なのに、本物の怪物の前では、その誇り高き知識が何一つ役に立たなかった。
結局、生き残るために、そして美澄を汚した奴らを五体満足で帰さないためには、自分が一番軽蔑していた「暴力の化身」に戻るしかない。その事実が、ハルマのプライドを粉々に打ち砕き、猛烈な屈辱となって心を締め付けた。
(悔しい……悔しい、悔しい、悔しい……っ!! 結局、僕はあの『狂犬』に戻るしかないのか!? 法律なんて、僕を、美澄を、何一つ守ってくれないのか……!!)
いくら脳内で法条文を検索しても、この窮地を脱する「合法的な方法」は見当たらない。
残された道は、ただ一つ。
誘い出したクズどもを、自らの手で、法の外側の暴力で、徹底的に叩き潰すことだけ。
「……ああ、そうかよ」
ハルマは、血の混じった涙を乱暴に拭い去った。その顔から、優等生としての「比良坂ハルマ」の仮面が、完全に剥がれ落ちる。
(綺麗事で復讐ができるなんて、僕の甘えだったんだ。あいつらが法律の一線を越えて美澄を壊したなら……僕もその一線を越えて、あいつらの人生を地獄に変えてやる)
ハルマは、大河内のスマホの画面に、罠の場所を打ち込んだ。
『街外れの、あの解体業者の廃資材置き場に集まれ』
そこは、重機や鉄パイプ、あらゆる「最悪の凶器」が転がる、かつての狂犬にとって最高の狩り場だった。
いずれ、大河内らも異変に気付き、やってくるだろう。法律の盾を捨て、自ら暗黒の深淵へと足を踏み入れた少年。
その瞳には、もはや悔しさはなかった。ただ、すべてを巻き込んで自滅をも厭わない、最凶の狂気だけが宿っていた。




