第5話 狂犬に仇なす
佐々木と上田が相次いで廃人に等しい重傷を負い、救急搬送された事件は、大河内が恐れていたような「警察による徹底的な捜査」には一切発展しなかった。
それもそのはずだった。被害者である佐々木も上田も、地域で何度も恐喝や傷害、窃盗などで補導歴がある筋金入りの粗暴犯だ。
警察からすれば「素行の悪いクズが、どこかの裏組織の縄張りにでも迷い込んで、日頃の怨恨から自業自得で闇討ちされただけ」の、よくある不良同士の身内の揉め事に過ぎない。
上田の現場に残されていたバタフライナイフからも本人の指紋しか検出されず、警察は「本人がナイフを突き出したが、返り討ちに遭った」と結論づけた。
誰も、学校で大人しく背中を丸めているガリ勉、比良坂ハルマのことなど、容疑者の端くれにすら留めていなかった。
ハルマはその警察の怠慢と、社会の非情な構造を、完璧に冷徹な目で見抜いていた。
(誰も助けない。誰も調べない。あのクズどもが美澄を犯した時、世界がそれを無視したように、クズがどれだけ肉体を破壊されようが、社会はただゴミ箱に蓋をするだけだ。社会的信用を持たない悪人は、どれだけ傷つこうが誰も味方をしない)
放課後の図書室。西日の差し込む窓際で、ハルマは静かに六法全書を閉じた。レンズの奥の瞳には、感情の機微など一滴も存在しない。ただ絶対的な零度の殺意だけが、静かに澱のように沈んでいる。
これまでの復讐は完璧だった。佐々木も上田も、自らの意志でハルマを害しようとし、その結果としてハルマの「正当防衛」という名の合法的な暴力によって文字通りすり潰された。すべては計算通りだ。
だが、ハルマの心の渇きは、まだ全く癒えていなかった。
主犯格の男――大河内が、いまだに五体満足で、のうのうと息をして学校に通っているからだ。自ら見逃したとはいえ、奴が引き下がる訳がないのだ。
(美澄の未来を、その尊厳を、一番深く汚したのは大河内、お前だ。お前だけは、手足の骨を折る程度で終わらせるわけにはいかない。お前には、生涯消えない絶望の地獄を味わってもらう)
ハルマの血管の中で、封印を解かれた「過去の自分」が冷たく脈打っている。かつての中学時代の狂暴性が、現在の高度な勉学の知識と融合し、より洗練された凶器へと変貌を遂げていた。
しかし、大河内もバカではなかった。二人の側近が玩具のように壊されたことで、彼は精神的に完全に追い詰められていた。
「クソが、何なんだよ……あのガリ勉、何をしてやがる……!」
夜の帳が降りた繁華街。ネオンの光も届かない、古びた雑居ビルの狭い路地裏で、大河内は爪を血が出るまで噛み締めながらガタガタと震えていた。
大河内は確信していた。佐々木と上田を壊したのは、あの「無能な陰キャ」である比良坂ハルマ本人、あるいはハルマが後ろで操っている『本物の怪物』だと。でなければ、あの二人があそこまで完璧に、警察すら動かせない方法で破壊されるはずがない。
恐怖に耐えかねた大河内が縋ったのは、地元の学校の不良ネットワークなどという生ぬるいものではなかった。この街の暗部に深く根を張り、恐喝、密輸、違法賭博など、あらゆる犯罪を冷徹にこなす、名前すら表に出ない実態不明の『組織』――その幹部である知り合いの男だった。
「お前が俺を頼ってくるとはな、大河内。随分と情けない面をしてるじゃねえか」
暗がりの奥から、泥水を踏み鳴らす足音が響いた。ゆっくりと現れたのは、仕立ての良い黒いシャツを羽織り、首元から胸元にかけて禍々しい蛇の刺青を覗かせた男だった。
男の名は、蛇谷。
街の人間からはただ「蛇谷」とだけ呼ばれ、恐れられている男だ。彼は大河内のような安っぽい不良とは次元が違う。
この街の闇を仕切る非合法組織の構成員であり、大河内が毎月、恐喝で集めた小銭を「みかじめ料」として上納することで、その圧倒的な暴力を後ろ盾にさせてもらっていた。
「蛇谷さん……! 待って、待ってました……!」
大河内は救いを求めるように、泥水に膝をついて蛇谷の足元にしがみついた。
「おい、汚ねえ手で触るな。お前のクラスのパシリのガリ勉が、急に狂暴になって身内を二人病院送りにしたかもだと? お前、俺をからかってんのか?」
蛇谷の目は、冷酷そのものだった。そこに不良が持つような「凄み」や「怒り」はない。ただ、他人の命や痛みを物質としか捉えていない、底の割れない漆黒の虚無があった。
「本当なんです! 佐々木の腕は引きちぎられそうなくらい折られてて、上田なんて自分のナイフで手の甲を貫通させられて、足の骨まで粉々にされてるんです! 次は俺の番なんです……! 蛇谷さん、あの比良坂ってガリ勉を、マジで殺してください! 跡形もなく消してください!」
大河内は地面に額を擦り付け、必死に懇願した。蛇谷はしばらく大河内の無様な姿を見下ろしていたが、やがて、その薄い唇を不気味に歪めて、冷たく笑った。
「……へえ。バタフライナイフを持った上田を素手で返り討ちにして、骨を粉々にした、か。もしそれが本当なら、その比良坂ってガリ勉、ただの陰キャじゃねえな。なかなかにいい『玩具』になりそうだ」
蛇谷にとって、高校生の縄張り争いなどどうでもよかった。だが、法律の枠を理解し、警察の目を盗んで人間を精密に破壊する「狂犬」がいるという話には、酷く嗜虐心をそそられた。
彼は、ただ人を壊すこと、そしてその過程で金を稼ぐことを純粋に愉しむ、本物の怪物だった。
「いいぜ、大河内。その代わり、次の上納金はこれまでの三倍だ。払えなきゃお前の身内を売れ。……そのガリ勉は、俺が直々に『処理』してやるよ。ちょうど、新しい地下の格闘賭場に流す玩具を探してたところだ。どれだけ殴れば壊れるか、試してやる」
蛇谷の声音には何の熱もなかった。ただ淡々と、家畜を屠殺するかのような冷徹さ。
「ありがとうございます……! ありがとうございます、蛇谷さん……!」
大河内は顔を跳ね上げ、邪悪な笑みを取り戻した。大河内は知っている。蛇谷が動くということは、相手が誰であろうと、五体満足で太陽の光を浴びることは二度とできなくなるということを。
あのガリ勉の比良坂が、どれだけ小賢しい真似をしようが、本物の闇の組織の暴力の前には虫ケラ同然だ。
翌日の放課後。
ハルマは、大河内から指定された学校の裏手に位置する、寂れた製材所の廃倉庫へと向かっていた。
夕日が差し込む倉庫の周囲には人影はなく、錆びた鉄扉が風に揺れてキィキィと不気味な音を立てている。
ハルマは歩きながら、胸ポケットのメガネを指でそっと直した。
(大河内め、ついに僕を直接呼び出してきたか。佐々木と上田がやられて、もう後がないから、自分で刃物でも持って待ち伏せているつもりだろう。……いいよ。お前がその気なら、今度こそ完璧な『正当防衛』の要件を揃えて、お前の人生の息の根を止めてやる)
ハルマの脳内は、復讐の爽快なイメージで満たされていた。
だが、廃倉庫の重い鉄扉を開け、中に足を踏み込んだ瞬間、ハルマの野生の直感が、これまでにない激しい警報を鳴らした。
「――っ!?」
倉庫の奥、薄暗い空間にぽつんと置かれたパイプ椅子に座っていたのは、大河内ではなかった。
仕立ての良い黒いシャツを着て、静かに煙草をくゆらせながら不敵に笑う、首元に蛇の刺青を入れた男――蛇谷だった。
その佇まい、周囲に漂う張り詰めた空気。ハルマの全身の毛が逆立つ。
そして、その傍らで、大河内が勝ち誇ったような下品な笑みを浮かべて立っている。
「はははは! きたな、比良坂! お前が佐々木と上田をどうにかした裏技は知らねえが、もうおしまいだ! こちらは本物の組織の人間、蛇谷さんだ! お前みたいなガリ勉陰キャ、一瞬でバラバラにされて終わりだよ!」
大河内が狂ったように叫ぶ。
「…………」
ハルマはメガネの奥の目を細め、蛇谷の身体の動き、重心、そしてその佇まいを瞬時に分析した。
(まずい。こいつ、ただの不良じゃない。筋肉のつき方、視線の配り方、完全に『日常的に人を殺し慣れている』側の人間だ。大河内の奴、自分の手に負えないからって、本物の非合法組織の怪物を引っ張ってきたのか……!)
予期せぬ「手強き強敵」の登場に、ハルマの背中に冷たい汗が流れる。これまでのパシリ連中とは次元が違う。圧倒的なハラハラとした緊張感が、倉庫内の空間を支配する。
蛇谷はゆっくりと立ち上がり、スマートフォンの録音機能をこれみよがしに起動して、ハルマに向けた。
「よお、お前が比良坂ハルマか。大河内から聞いたぜ? お前、大河内たちを恐喝して、言うことを聞かないからって佐々木と上田を裏で襲って重傷を負わせたんだってなぁ。今もお前、大河内を脅して金を巻き上げるために、この倉庫に来たんだろ? なあ?」
蛇谷はニヤニヤと笑いながら、ハルマを「恐喝の加害者」に仕立て上げるような言葉を並べ立てた。その口調は軽快だが、目は一切笑っていない。
ハルマは瞬時に理解した。
(こいつ……法律の仕組みを知っている! 僕がやろうとしていた『正当防衛の偽装』を、逆に僕に対して仕掛けようとしているんだ。こいつのバックにある組織は、法の抜け穴を使い慣れている……!)
「僕は、大河内くんに呼び出されて、お金を渡せって言われたから来ただけです」
ハルマは咄嗟に「無能なガリ勉」の演技を維持し、弱々しい声を出した。ここで自分の本性を晒せば、相手の思う壺だ。
「ハッ、白々しい演技すんなよ。お前のそのダサいメガネの裏にある目、隠しきれてねえんだよ。お前、本物の『狂犬』だろ?」
次の瞬間、蛇谷の身体が信じられない速度でブレた。ガッ!!! と激しい踏み込みの音が響いたかと思うと、蛇谷の強烈な前蹴りがハルマの腹部を捉えていた。
「がっ……!?」
ハルマはガードが間に合わず、まともに衝撃を受けて数メートル後ろへと吹き飛んだ。背中から古い木箱の山に突っ込み、激しい音を立てて崩れ落ちる。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
ハルマは激しく咳き込んだ。内臓がひっくり返るような衝撃。中学時代の不良たちの暴力とは、文字通り桁が違った。一発で骨を折り、人間を無力化するための、洗練された本物の暴力。
「すげえ! さすが蛇谷さんだ! 一発でゴミみたいに吹っ飛んだぜ!」
大河内が手を叩いて喜ぶ。
蛇谷はゆっくりとハルマに近づき、その髪を乱暴に掴み上げて顔を至近距離で覗き込んだ。ハルマのメガネが床に落ちて割れる。
「ほら、いい目をしてるじゃねえか。なあ、比良坂。お前がどれだけ勉強して法律の知識をつけようが、俺たちの世界じゃそんなの関係ねえんだよ。証拠なんていくらでも偽造できるし、お前をここで再起不能にして山に埋めちまえば、警察だってただの行方不明として処理する。お前のその賢い頭、俺の暴力の前で、何の役に立つんだ?」
蛇谷の冷酷な言葉が、ハルマの耳に突き刺さる。圧倒的な窮地。ハルマの培ってきた知識の盾が、蛇谷の「無法の暴力」によってへし折られようとしていた。
だが。
髪を掴まれ、顔を血で汚しながらも、ハルマのメガネを外した素顔から、怯えは完全に消え去っていた。
(ああ、そうか。法律の枠すら通用しない、本物の獣か……)
ハルマの脳内で、何かが限界を超えて弾けた。
恐怖? 焦燥? 違う。
ハルマの全身の細胞が、これまでにないほどの激しい「狂暴性の歓喜」に震え始めていた。
手強い。圧倒的に手強い。これまでの雑魚とは比べ物にならない。だからこそ――こいつを合法的に、社会的に、そして肉体的にブチのめした時、どれほどの極上の爽快感が得られるだろうか。
ハルマは血の混じった唾を蛇谷の顔に向けて吐き捨て、ニヤリと、悪魔のような冷酷な狂気の笑みを浮かべた。
「おもしろいね、蛇谷さん。……だったら、その組織の暴力とやらが、僕の『知識』と『本性』にどこまで耐えられるか、試してみようか」
絶体絶命の危機の中で、比良坂ハルマの真の覚醒と、組織を巻き込んだ最悪のデスゲームが始動する。




