第4話 歯止めのない復讐
薄暗い旧校舎の階段踊り場。埃が白く舞う空間で、空気が一瞬にして凍りついた。
ハルマがメガネを外し、胸ポケットに差したその瞬間、上田の背筋にドス黒い戦慄が走った。目の前にいる男の佇まいが、あまりにも劇的に変わり果てたからだ。
背筋はすっと伸び、その佇まいはまるで、獲物を品定めする飢えた肉食獣のそれだった。
「お前……比良坂、なのか……?」
上田の額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちる。大河内グループの中で、上田は常に一歩引いて状況を観察する狡猾さを持っていた。だからこそ分かった。
目の前の男が放っているのは、並の不良がハッタリで出す殺気ではない。本物の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、剥き出しの「狂気」だ。
「上田。君は佐々木よりは少しは頭が回ると思っていたけれど、やっぱり大河内のお零れを預かるだけの無能だったね。わざわざ僕と二人きりになれる、こんな人気のない場所に誘い込んでくれるなんて」
ハルマの声は、低く、冷たく、そしてどこか楽しげに弾んでいた。一歩、ハルマが足を踏み出す。
その瞬間、上田は本能的な恐怖に駆られ、反射的に右手を制服のポケットへと滑らせた。
「なめるなよ、ガリ勉がぁッ!!」
上田がポケットから引き抜いたのは、金属製の折りたたみ式バタフライナイフだった。シャキイン、と鋭い金属音が静かな踊り場に響く。刃渡り数センチの鋭利な刃が、夕闇の差し込む空間で鈍く光った。
「あ?」
上田はニヤリと、引きつった笑みを浮かべる。
「おいおい、何が変わったか知らねえが、調子に乗るなよ? こちとらハッタリでナイフ持ち歩いてんじゃねえんだ。佐々木の腕をへし折ったのがお前だとしても、刃物相手に勝てると思ってんのか!?」
ナイフという絶対的な優位性を得て、上田の口調に狂乱じみた余裕が戻る。だが、ハルマはその刃物を見ても、眉一つ動かさなかった。それどころか、彼の歪んだ唇から漏れたのは、心底狂おしいほどの「歓喜の笑い」だった。
「――銃砲刀剣類所持等取締法第22条違反。および、それを誇示しての脅迫。さらに、刑法第36条における『急迫不正の侵害』が、素手から『凶器を用いた生命の危機』へと格上げされた」
ハルマの脳内で、冷徹な法律の条文が目まぐるしく回転する。だが、その冷徹な計算を、ドス黒い狂暴性が一瞬にして塗りつぶしていく。
(ナイフだ。刃物だ。あいつは俺を殺す気で、あるいは切り刻む気でそれを出した。だったら――俺がこいつの肉体をどれだけバラバラに破壊しても、それは『生命を守るためのやむを得ない防衛行為』として、より広い裁量が認められる……!)
「はは……ははははは! 最高だなぁ、上田!!」
ハルマの口から、怪物じみた笑いが炸裂した。もはや仮面は完全に消滅し、中学時代に数々の不良を地獄へ送った「狂犬」の血が、限界突破して沸騰する。
「死ねやぁッ!!」
上田が鋭い踏み込みとともに、ハルマの腹部を目がけてナイフを突き出した。上田のナイフ捌きは素人ではなかった。手首のスナップを利かせ、フェイントを交えながら最短距離で急所を貫こうとする。
確実に対象を傷つけ慣れている、厄介な動きだった。しかし、ハルマの動体視力と戦闘直感は、それを遥かに凌駕していた。
(遅い。軌道が見え透いている)
ハルマはあえて、自らの左腕の制服の袖を、ナイフの軌道へと滑り込ませた。チリッ、と鋭い痛みが走り、上着の袖が切り裂かれ、ハルマの左前腕の皮膚から赤い血が線となって噴き出す。
「もらったァッ!」
上田が勝利を確信した瞬間、ハルマの目は冷酷に光った。
「わざと当たってやったんだよ。これで『凶器による傷害』の事実が既遂となった」
「なっ――!?」
驚愕する上田の隙を、ハルマは見逃さなかった。切り裂かれた左腕をそのまま上田のナイフを持つ右手首に絡め、強引にその動きをロックする。
そして、空いている右拳を、上田の顔面へ向けて最短距離で突き出した。
ドォン!!!
人間の顔面を拳で殴ったとは思えない、肉と骨が激しく衝突する鈍い音が響く。ハルマの拳は、上田の鼻骨を正確に捉えていた。
「ぶふっ!?」
上田の鼻から鮮血と鼻水が同時に噴き出し、激しい衝撃に脳を揺らされた上田の身体が大きくよろめく。
「カハッ、あ、ガ……ッ!」
「お前の厄介なところは、その小賢しさと、人を傷つけることに躊躇がないところだ。だから、徹底的にその自由を奪ってやる」
ハルマは上田がナイフを手放す前に、その右腕を掴んで壁に押し付けた。そして、自らの肘を、上田の右肘の関節に向けて上から容赦なく叩き落とした。
ベキキッ!!!
「ぎゃあああああああああああッっっっ!???」
踊り場に、佐々木の時以上の凄惨な絶叫が木霊する。上田の右肘は本来曲がってはいけない方向へと強制的に曲げられ、バタフライナイフがカランと音を立てて床に転がった。
しかし、ハルマの猛攻は止まらない。
血管を巡る凶暴性が、「もっと壊せ」とハルマの理性を突き動かしていた。
「おい、上田。美澄を襲った時、お前はその長い足で、彼女の退路を塞いだんだよな? 逃げ惑う彼女を見て、楽しそうに笑っていたよな?」
ハルマは上田の髪を掴み、その顔を覗き込んだ。上田の目は恐怖と激痛で血走り、涙で視界を濡らしている。
「ひ、ひい……た、助けて……大河内、大河内助け……」
「大河内は来ないよ。ここは誰も来ない、君たちが作った最高の無法地帯だからね」
ハルマは冷酷に微笑むと、上田の長い左足を狙い、自らの踵を思い切り踏み下ろした。ターゲットは膝関節だ。
ボキッ、という嫌な音がして、上田の膝が奇妙な形に折れ曲がる。
「あああああああッ!! あ、あ、足が、足がああぁぁッ!!」
上田は床に崩れ落ち、のたうち回った。右腕も左足も破壊され、もはや立ち上がることすらできない。完全に「無力化」された状態だった。ここで止めれば、完璧な正当防衛で終わったかもしれない。
だが、今のハルマの奥底で目覚めた獣は、それでは満足しなかった。
(足りない。美澄の受けた絶望、恐怖、未来を奪われた苦しみに比べれば、こんな肉体の破損くらい、生ぬるすぎる……!)
「ああああ!殺して……やる」
ハルマの目に、狂気の色が濃くなる。彼は床に転がっていた上田のバタフライナイフを拾い上げた。
「ひっ……!? や、やめろ、それだけは、それだけは勘弁してくれ!!」
上田は芋虫のように床を這い、必死にハルマから遠ざかろうとする。その顔は恐怖で完全に引きつり、失禁していた。
ハルマはゆっくりと上田に近づき、その背中にまたがると、ナイフの刃を上田の右手の甲へと突き立てた。
グサッ。
「ぎゃあああああああああッ!!」
「この手で、彼女の服を破いたのか? この手で、彼女の身体を汚したのか?」
ハルマはナイフをグリグリと肉の中で回転させる。上田の絶叫が旧校舎に響き渡るが、鉄筋コンクリートの壁がそれを吸い込み、外には届かない。
(あはははは! 壊れる、壊れるぞ! こいつらの傲慢な面が、絶望に染まっていくのが堪らなく気持ちいい……!)
ハルマの心の中で、復讐の「爽快感」と、抑えきれない「凶暴性の快感」が完全に融合していた。ハルマはさらにナイフを突き刺そうとしたが、その時、脳裏に病院のベッドでガタガタと震えていた美澄の姿が過った。
『比良坂くんは、将来、素敵な社会人になるね』
その幻聴のような声が、ハルマの暴走する右手を、ミリ単位のところでピタリと止めた。
(……いや、待て。ここでこいつを殺せば、あるいは再起不能の廃人にすれば、医学的所見から『防衛行為としての妥当性』を検察に否認される可能性がある。過剰防衛、あるいは復讐目的の傷害罪に問われれば、俺は美澄の側にいられなくなる)
ハルマは荒い息を吐きながら、間一髪のところで理性の手綱を引き戻した。危なかった。凶暴性に呑まれ、せっかくの「知識の武器」を台無しにするところだった。
ハルマは上田の身体からどくと、ナイフを上田の制服の生地で丁寧に拭き、上田のポケットへと戻した。
そして、自分の左腕の傷を確認する。浅い。皮膚と脂肪層までで、大きな動脈は外れている。
これなら「相手がナイフで切りかかってきたため、身を守るために応戦した」というストーリーに何の矛盾も生じない。
「……上田。君の治療費は、君の親が出すことになる。そして、君が持ち込んだナイフから僕の指紋は出ない。手袋は付けていたからな。君が僕を襲い、僕が必死に抵抗した結果、君の関節が『偶発的に』折れてしまった……そういうことになるからね」
ハルマは胸ポケットからメガネを取り出し、再び顔にかけた。何から何まで彼は用意周到なのだ。
レンズの奥の瞳は、またしても「無能なガリ勉」へと擬態を完了していた。
床で血の海に沈み、意識を失いかけている上田を見下ろし、ハルマは静かに吐き捨てた。
「残るは、大河内。お前だけだな」
◇◆◇
翌日。学校は前日以上の大騒ぎになっていた。今度は上田が、旧校舎の階段で「全治数ヶ月の重傷を負った」というニュースが駆け巡ったからだ。
上田の右腕と左足は粉砕骨折しており、精神的にも深いトラウマを負って、まともに会話ができない状態だという。
クラスの誰もが恐怖に怯えていた。二日連続で、クラスの権力者だった不良が凄惨な目に遭っているのだ。
そして、その恐怖を一番生々しく感じていたのは、他ならぬ大河内だった。
「クソが……何が起きてやがる……!」
昼休みの教室。大河内は自分の席で、爪を血が出るほど噛み締めていた。佐々木がやられ、上田までもが壊された。
しかも、上田の現場からは、上田自身のナイフが見つかっている。警察は大河内にも事情聴取をしたが、大河内は何が起きているのか本当に分からなかった。
(まさか……あの陰キャの比良坂がやったのか? いや、あり得ねえ。あんなノートを取るしか能のないゴミに、佐々木や上田がやられるはずがねえ。だが、あいつらが消える直前に関わっていたのは、間違いなく比良坂だ……)
大河内はギロリと、教室の隅で静かに参考書を読んでいるハルマを睨みつけた。ハルマはいつも通り、怯えたように背中を丸め、周囲の騒ぎにビクビクしているように見える。
大河内は立ち上がり、ハルマの机を激しく蹴り飛ばした。
バンッ!!!
「ひっ!? な、何、大河内くん……?」
ハルマがわざとらしく椅子から転げ落ち、メガネをズラしながら大河内を見上げた。
「てめえ……比良坂。お前、何か隠してんだろ? 佐々木がお前に金を取りに行った後、佐々木は消え、更に上田までボコボコにされてた。お前、誰かヤバい奴でも雇ってんのか!?」
大河内がハルマの胸ぐらを掴み、怒鳴り散らす。教室内が静まり返り、全員の視線が集まる。ハルマは涙目を浮かべながら、必死に首を振った。
「し、知らないよ! 僕は、お金を渡そうとしたけど、二人は急に怒り出して……僕は怖くて逃げ出したんだ! 本当だよ、信じて大河内くん!」
その完璧な「弱者の演技」に、大河内は逆に底知れない不気味さを感じた。
こいつは本当にただの陰キャだ。だが、何かがおかしい。背後に誰かプロのバックがついているのか、それとも――。
大河内はハルマを突き放すと、忌々しげに吐き捨てた。
「チッ……もういい。お前がどんな細工をしてようが、関係ねえ。お前がその気なら、こっちにも考えがあるからな」
大河内はスマートフォンを取り出し、ある番号へと発信しながら教室を出て行った。その背中を見送りながら、ハルマは床に落ちたメガネを拾い上げ、ゆっくりと不敵な笑みを浮かべた。
(最後まで泳がせてやるよ、大河内。お前がどんな悪あがきをするか、見ものだな)
しかし、ハルマはこの時、まだ知らなかった。追い詰められた大河内が呼び出そうとしている存在が、「手強き捕食者」であることを。




