第3話 憎悪と快楽の血
「ひっ、あ、あが、やめ……て、くれ……っ!」
夕闇が迫る裏庭。佐々木は不自然に折れ曲がった右腕を抱え、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、地面を這い回っていた。
昼間までハルマを「無能な陰キャ」と呼び、嘲笑っていた男の見る影もない。
ハルマはその姿を、冷徹極まる目で見下ろしていた。ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認する。すでに録音アプリは起動したままだ。
(大河内の指示で恐喝に来たという言質、そして先に殴りかかってきた証拠。すべて音声データとして記録してある。刑法第36条第1項における『急迫不正の侵害』、その侵害を排除するための『やむを得ずにした行為』の立証は完璧だ)
頭の中の法律の計算式は、恐ろしいほど冷えていた。
だが、それと同時に。
拳を握り、骨を砕いたその瞬間から、ハルマの身体の奥底で、ドクドクと熱い「何か」が脈打ち始めていた。
(ああ、これだ。この感触だ……!)
中学時代、周囲を恐怖のどん底に叩き落としていたあの狂暴性が、血管を駆け巡り、脳を歓喜で焦がしていく。高校デビューという生ぬるい仮面の中で眠らせていた獣が、完全に目を覚まそうとしていた。
「おい、佐々木。まだ終わってねえよ」
ハルマは低く笑った。その声には、冷徹な計算だけでなく、明らかな「愉悦」が混じり始めていた。
「ひっ……!」
佐々木が恐怖に目を見開く。
ハルマはゆっくりと近づくと、容赦なく佐々木の左足を踏みつけた。
「が、あ、ああああああっ!」
「お前さ、大河内と上田と一緒に、美澄を物置裏に連れ込んだ時、どんな顔してた? どんな声で笑ってた?」
「お、俺は……俺は見張りをしてただけだ! 直接は、直接は手を出してねえ! 本当だ、信じてくれ!」
命乞いをする佐々木。だが、その言葉はハルマの脳にガソリンを注ぐだけだった。
「見張り、か。……立派な共同正犯だな」
ハルマの目が、ふっと細くなった。
次の瞬間、ハルマは佐々木の襟髪を掴み、無理やりその巨体を引きずり起こした。そして、その丸々と太った腹部へ、一切の躊躇なく、膝蹴りを突き刺した。
ドゴッ!!!
「ぶっ、はぁっ……!?」
佐々木の口から、胃液交じりの唾液が飛び散る。ハルマの攻撃は、中学時代のそれよりも遥かに洗練されていた。どこをどう叩けば、骨が折れ、内臓が破壊され、しかし『死なない』か。
この数ヶ月で叩き込んだ医学や人体の知識が、凶暴性と最悪の形で融合していた。
「あ、が……は、なせ……死ぬ、死んじゃう……っ!」
「死ぬ? 死なせるわけないだろ。法律の枠内で、お前には生涯消えない恐怖を刻み込んでやるんだから」
「情けねえな、お前」
ハルマの顔に、ゾッとするような狂気の笑みが浮かぶ。ハルマは佐々木の顔面を掴み、そのまま校舎のコンクリート壁へと叩きつけた。
ガンッ!!!
激しい衝撃音とともに、佐々木の額から鮮血が吹き出し、壁を赤く染める。
佐々木は白目を剥き、崩れ落ちた。
ハルマは荒い息を吐きながら、自分の拳を見た。返り血で赤く汚れている。
「……はは、はははは!」
ハルマの口から、抑えきれない笑いが漏れた。
(あいつらを、壊せる。美澄を汚したゴミクズを、この手で、しかも『合法』でおもちゃにできる……!)
ゾクゾクとするような快感が背筋を駆け上がる。完全に狂暴性を取り戻したハルマは、地面に転がる佐々木のスマートフォンを拾い上げ、指紋認証でロックを解除した。
そして、メッセージアプリを開き、大河内への連絡履歴を確認する。
『比良坂から金回収したら、いつもの場所(カラオケBOX)に合流するわ』
ハルマは冷酷に微笑み、佐々木のスマートフォンからメッセージを送信した。
『比良坂の奴、ビビって金持ってこねえ。今から探すからちょっと遅れる』
これで、大河内たちに怪しまれるまでの時間を稼いだ。
ハルマは自分の衣服についた汚れを払い、ポケットから予備の黒縁メガネを取り出して、再び顔にかけた。
「やべ、これじゃ佐々木が死んじまう。これくらいにしないと」
背中を丸め、視線を落とす。一瞬にして、また「無能なガリ勉」の姿に戻る。だが、そのメガネの奥の瞳は、爛々と飢えた肉食獣の輝きを放っていた。
「次は……上田。か」
翌日。学校の朝のホームルームは、騒然としていた。佐々木が「昨夜、暴漢に襲われて重傷を負い、救急搬送された」という連絡が学校に入ったのだ。
右腕の複雑骨折、軽度の脳震盪、さらには精神的なショックで錯乱状態にあり、現在は面会謝絶だという。
「おい、聞いたかよ。佐々木の奴、ヤバいらしいぜ……」
クラスの連中がヒソヒソと噂を立てる中、ハルマは席で静かに参考書を開いていた。
だが、クラスの後方に座る大河内と上田の顔色は、明らかに悪かった。大河内は貧乏揺すりをしながら、スマートフォンを何度も確認している。
上田は不気味なニヤニヤ笑いを消し去り、落ち着かない様子で周囲をギロギロと見回していた。
(佐々木が病院に運ばれる直前、警察に『比良坂にやられた』と言わなかったのは、言えなかったからだ。だって、自分が恐喝を仕掛けて先に殴ったんだからな。それに……俺の『あの顔』を見たら、恐怖で名前すら出せなくなる)
ハルマはページをめくった。すべては計算通りだ。昼休み。案の定、上田がハルマの机に近づいてきた。
大河内は席から動かず、鋭い目でこちらを睨みつけている。上田はハルマの肩を強く掴み、低い声で囁いた。
「おい、比良坂。ちょっとツラ貸せ」
ハルマはわざと怯えたように肩を震わせ、メガネの位置を直した。
「あ、上田くん……何、かな……?」
「いいから来いよ、ガリ勉」
連れて行かれたのは、屋上へと続く、普段は使われていない旧校舎の階段の踊り場だった。薄暗く、埃っぽい空間。
上田はハルマを壁に押し付けると、その長い手足でハルマの退路を断った。
「おい、ぶっちゃけろよ。佐々木の件、お前なんか知ってんじゃねえだろうな? あいつ、昨日お前から金回収するって言って、そのまま連絡が途絶えたんだよ」
上田の目が、ハルマの反応を探るように細くなる。大河内グループの中でも、上田は狡猾で疑い深い男だった。佐々木の巨体が、たかが暴漢一人にそこまで無惨にやられるはずがない。何か裏がある、そう踏んでいるのだ。
ハルマは、じっと上田の顔を見つめた。
そして、ゆっくりと、その薄気味悪いほどの静けさで、口を開いた。
「上田くん。君、本当に頭が悪いね」
「……あ?」
上田の顔から、余裕が消えた。
ハルマはかけていたメガネを外し、胸ポケットに差し込んだ。その瞬間、踊り場の空気が、劇的に変貌する。
ハルマの全身から立ち上る、圧倒的な戦闘のプレッシャー。それは、昨日佐々木を恐怖の底に突き落とした、あの本物の「狂犬」のオーラだった。
いや、昨日よりも、その凶暴性はさらに研ぎ澄まされ、獰猛さを増している。
「佐々木がどうなったか、そんなに知りたいか? ……だったら、お前も同じ場所へ送ってやるよ」
「聞かなければ、まだ泳がせたが。残念だな」
ハルマは狂気に満ちた笑みを浮かべ、上田の眼前に一歩、踏み込んだ。




