【限定SS】後日談
三島弁護士side
◇◆◇
あれから、数週間が経った。
東京地方裁判所。比良坂ハルマの刑事処分相当公判──その判決が下された日の夕暮れ。
三島は誰もいなくなった法廷の傍聴席に、再びぽつりと一人で腰掛けていた。
「懲役2年6か月」
少年審判からの逆送、そして地裁での刑事裁判。検察側が少年の凶暴性を声高に叫び、実刑5年以上の長期刑を求刑する中で、三島がもぎ取った判決は、犯した罪の重さを思えば極めて異例とも言える情状酌量──「2年6か月」の実刑だった。
あの大河内らの残虐行為と、蛇谷がもたらした無法の暴力を、ハルマ自身の口から極めて客観的に証言させたこと。そして、ハルマが命がけで奪取したデータが、警察上層部すら動かして巨大組織を根こそぎ瓦解させた事実。
それらすべてを法廷の天秤に叩きつけ、三島は検察の包囲網を完全に切り裂いたのだ。
「……勝ったぞ」
三島は静かに、眼鏡のブリッジを押し上げた。勝訴と言っていい結果だ。だが、その胸に傲慢な達成感はない。あるのは、一人の少年の未来を、奈落の直前でギリギリのところで掴み取ることができたという、静かな、あまりにも静かな安堵だけだった。
ポケットから、ハルマを移送する前に手渡された、一枚のノートの切れ端を取り出す。そこには、ハルマの少し硬い筆跡で、こう書かれていた。
『三島さん。僕は、自分の犯した罪から逃げません。刑務所で、あの日あなたが教えてくれた「泥を啜ってでも光を紡ぐ法律」を、もう一度死ぬ気で勉強し直します。僕を、人間の中に繋ぎ止めてくれて、ありがとうございました』
ノートを持つ三島の指先が、微かに震える。
「……馬鹿を言うな。僕の方こそ、救われたんだ」
あの日、遺書を遺して逝ってしまったあの少年の怯えた瞳が、脳裏をよぎる。長年、三島の魂を縛り付けていた冷たい「呪い」が、ハルマのこの言葉によって、サラサラと音を立てて解けていくような感覚があった。
自分が磨いてきた牙は、無駄ではなかった。法という盾の使い方は、間違っていなかった。
あの日の後悔は消えない。死んだ少年は戻らない。けれど、今日、三島は確かに一人の少年の未来を、その暗闇から引っ張り上げてみせたのだ。
カツ、カツ、と静かな足音が法廷に響き、三島はゆっくりと立ち上がった。胸元にピンと留められた、金色に輝く弁護士バッジ。
かつては重い十字架でしかなかったその天秤のマークが、今はどこか、未来を照らす確かな光を帯びているように見えた。
「さあ、帰ろう。……比良坂くんが2年半後に戻ってきたとき、恥ずかしくない背中を見せられるように、僕もまだ、戦い続けなければならないからね」
夕日に染まる法廷の扉を押し開け、三島弁護士は前を向いて歩き出す。
その足取りは、あの日の新米弁護士の頃とは違う、泥を啜りながらも正義を信じる、冷徹で、そして誰よりも熱い守護者のものだった。
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南雲美澄side
◇◆◇
白いカーテンが夏の風に揺れ、病室の床に柔らかな光の模様を描いている。
南雲 美澄は、ベッドの上で小さなノートを開き、丁寧に、ゆっくりと文字を綴っていた。
リハビリの一環として始めた日記には、少しずつ、自分の心に起流する本当の言葉が残せるようになってきている。
あの日、アクリル板の向こう側で泣いていたハルマの姿が、今も美澄の胸の奥をあたたかく締め付けている。
(ハルマは、自分のことを人殺しの怪物だなんて言っていたけれど……)
美澄はペンを止め、窓の外の青空を見上げた。大河内たちにすべてを壊され、暗黒の深淵に叩き落とされたあの日から、美澄の世界には一切の光がなかった。
ただ怯え、震え、心がバラバラに砕け散る音を聴くだけの日々。そんな暗闇の底に、たった一人で、文字通り命をかけて飛び込んできてくれたのがハルマだった。
本来なら傷つく必要のなかった優等生の彼が、ボロボロになり、泥を啜り、自らの手を血で汚してまで、美澄を脅かす全ての闇をその細い体で薙ぎ払ってくれた。
ハルマが法の外側の一線を越えてしまったのだと聞いたとき、美澄は恐怖ではなく、ただ胸が張り裂けそうなほどの愛おしさと、涙が止まらないほどの救いを感じていた。
彼は、美澄のために悪魔になってくれたのだ。面会室でハルマと再会したあのとき、美澄ははっきりと自分の「心」が変わったことに気がついた。
あの重ねられた、傷だらけのハルマの不器用な手。それを愛おしいと思った瞬間、美澄の心を支配していた恐怖の霧は、完全に消し飛んでいた。
「――私、ハルマのことが、好きなんだ」
ぽつりと病室にこぼれた呟きは、もう震えていなかった。友達としての「好き」ではない。自分の人生のすべてをかけて美澄の尊厳を取り戻してくれた、比良坂ハルマという一人の少年を、一人の男性として、魂の底から愛しているのだという明確な自覚。
その恋心が、冷え切っていた美澄の心臓に、再び強く、確かな命の鼓動を刻み始めていた。
ハルマは今、2年6か月という時間をかけて、自らの過ちと向き合い、贖罪を続けている。
ならば、美澄がここで立ち止まっているわけにはいかない。ハルマが命がけで勝ち取ってくれたこの平穏な時間の中で、今度は美澄が自分を信じ、心を治し、立派な大人の女性へと成長しなければならない。
「待ってるよ、ハルマ」
美澄は日記帳の新しいページに、未来の約束を書き込んだ。
『2年半後、迎えに行くから。今度は私が、ハルマの傷ついた手を引いて、明るい光の中を一緒に歩くんだから』
美澄はペンを置くと、ベッドからゆっくりと立ち上がり、自らの足で一歩、窓辺へと歩み寄った。
「──うん!頑張らなくちゃ」
差し込む夏の太陽が、彼女の白い頬を眩しく照らし出す。その瞳には、もう怯えの影はどこにもない。そこにあるのは、愛する人を待ち続ける、強く、優しく、そして凛とした一人の少女の美しい横顔だった。




