【限定SS】 後日談・心の形
法壇の上から見下ろす世界は、いつだって濁った灰色に染まっていた。裁判長である男にとって、被告人席に座る少年――比良坂ハルマの第一印象は、「完全に黒(悪)」だった。
進学校の優等生という仮面の裏で、緻密な計画を立てて十数人をリンチし、一人の人間を瓦礫の底へと突き落として圧殺した冷酷な怪物。検察側が提出した調書やGPSの移動形跡は、少年の底知れない歪みと異常な攻撃性をこれ以上ないほど雄弁に物語っていた。
(また、これか……)
男は心の内で、冷え切った溜息をついた。
かつて、彼は法廷ではなく、教室という光の当たる場所に立つことを夢見ていた。優秀な教師志望だった彼は、誰よりも生徒たちの「心の形」を見透かすことに優れていた。言葉の裏にある怯え、笑顔の奥に隠されたSOS。
それらを敏感に察知し、導くことのできる理想の教師になるはずだった。しかし、教育実習や周囲の現実を目の当たりにする中で、あまりにも複雑に拗れた少年たちの心の闇と、それを救いきれない教育現場の限界を知り、半ば諦めるようにして教師の道を捨てた。
そして、せめて「正しいルール」で彼らを律するために、法廷へ出ることを選んだのだ。
だが、数々の悪人を裁き、凄惨な事件に触れ続けるうちに、彼の「心の形を見透かす目」は徐々に摩耗し、歪んでいった。
嘘を吐く少年、更生の兆しすら見せない粗暴犯、保身のために被害者を貶める悪人ども。
いつしか彼の脳内には、『この法廷に立たされる人間は、例外なくすべて悪人なのだ』という、あってはならない冷酷な固定概念が分厚く植え付けられていった。
かつて生徒一人ひとりの心に向き合おうとした純粋な情熱は失われ、ただ法条文という機械的な物差しで、悪の点数を数えるだけの存在になり果てていた。
比良坂ハルマの裁判も、そのはずだった。少年の無表情な顔の奥には、救いようのない残虐性が潜んでいるのだと、男は端から決めつけていた。
しかし――その強固な固定概念にヒビを入れたのは、弁護人席に立つ三島という男の「執念」だった。
「法が、君のような少年を救いきれなかったんだ」
法廷に響き渡る三島の言葉には、単なるビジネスとしての弁護を超えた、自らの魂を削り出すような重みがあった。
男は、法壇の上からじっと三島を見つめた。三島という弁護士が、生半可な綺麗事で動く男ではないことは、過去の法廷での戦いぶりからよく知っていた。
数々の修羅場をくぐり抜け、泥を啜ってきたあのベテラン弁護士が、なぜこれほどまでに、一人の「殺人犯の少年」のために全てを賭けて戦っているのか。
男の磨耗していた「心の形を見る目」が、錆びついた歯車を回すように、再び動き始めた。
三島の執念を。そして何より、あの百戦錬磨の弁護士をそこまで突き動かしている、比良坂ハルマという少年の「本質」を、男は凝視した。
証言台に立つハルマの「心の形」は、検察が主張するような、冷酷で歪んだ怪物のそれとは全く異なっていた。
そこに置かれていたのは、ボロボロになるまで読み込まれた六法全書という、あまりにも不器用で、健気な「善」の残骸だった。
愛する友達の尊厳を守るため、正しいルールで悪を裁こうと血を吐くような努力を重ね、それでも最後には無法の暴力に踏みつぶされ、大切な人を守るために自ら地獄へ堕ちることを選んだ少年の、ズタズタに引き裂かれた魂の形。
(私は……この子の何を、見ていたのだ)
ハルマが語る、血と涙に塗れた真実を聴きながら、裁判長は激しい衝撃に打たれていた。
少年は法を裏切ったのではない。法に、そして自分たちのような大人の世界に絶望させられたのだ。
にもかかわらず、ハルマの瞳の奥には、自らが犯した「殺人」という罪に対する、果てしない自己嫌悪と悔恨が満ちていた。
あいつらクズと同類になりたくなかったという、悲痛なまでの人間としての正しさが、そこには確かに息づいていた。
すべてが悪人なのではない。世界を灰色に染めていたのは、他ならぬ自分自身の曇った目だった。
男は、確信した。この少年の根底にある「善」は、本物だ。そして、その善を信じて命がけで盾になろうとする三島という法律家の姿も、また本物だった。
下された「懲役2年6か月」という判決。
それは、裁判長としての男が、固定概念をすべて投げ捨て、ハルマの、そして三島の「心の形」を真っ直ぐに信用したからこそ導き出された、精一杯の「法の正義」だった。
閉廷を告げ、ハルマが手錠をかけられて法廷を去っていく後ろ姿を見つめながら、男は、自分の胸の奥が不思議と温かいもので満たされていることに気がついた。
救われたのは、比良坂ハルマだけではない。すべての人間に悪の烙印を押し、心を閉ざしていた自分自身もまた、あの少年の命がけの告白と、彼を救おうとした弁護士の執念によって、暗闇の深淵から救い出されたのだ。
(まだ……捨てたものではないな、人間の心も、法も)
かつて教師を志した頃の、あの純粋な目の輝きを微かに取り戻しながら、裁判長はゆっくりと席を立った。
窓から差し込む日の光が、彼の歩む灰色の世界を、ほんの少しだけ明るく照らし出していた。




