第11話 泥を啜りて光を紡ぐ
「――美澄、を」
病室の硬質な白壁に、ハルマの掠れた声が吸い込まれていった。喉の奥がカラカラに乾き、一言発するごとに、いまだ癒えぬ内臓の傷がひりひりと痛む。
それでもハルマは、三島の眼鏡の奥にある揺るぎない瞳から目を逸らさなかった。
「美澄を……僕の、たった一人の友達を……あいつらは、壊したんです」
一度決壊した言葉の堰は、もう止まらなかった。ハルマはぽつりぽつりと、しかし確実に、これまでの歩みを告白し始めた。
大河内たちによる陰湿な、そして悪魔的な暴行の数々。法的な網の目を巧妙にくぐり抜け、被害者である美澄を精神的な死へと追いやった非道。そして、それを見過ごした社会の不条理。
「僕は、悔しかった……。高校に入ってから必死で法律を勉強しました。刑法、刑事訴訟法、民法、判例集……全部頭に叩き込んだ。暴力じゃなく、あいつらが逃げ回っている『ルール』そのもので、合法的に、完璧に破滅させてやるって、そう決めていたんです」
ハルマの左手が、病院のシーツを血が滲むほどの力で握りしめる。
「なのに……その後ろにいた蛇谷は違った。あいつには、僕の知識の盾なんて、ただの紙切れだった。僕の家族を、学校を、日常のすべてを『無法』の力で人質に取って、僕が必死に集めた証拠すら、いくらでも偽造できると嘲笑った。法律なんて、まともな世界の中にいる奴にしか通用しないって……!」
ハルマの目から、大粒の涙が溢れ、包帯に染み込んでいく。
「生き残るためには、一線を越えるしかなかった。美澄の仇を討つためには、僕自身が『狂犬』に戻るしかなかったんです。でも……結果はこれだ。僕は、あの男を殺した。自分の意志で、明確な殺意を持って、瓦礫の底に突き落とした……。三島さん、僕は……僕はただの、人殺しの怪物です。あいつらクズと同類、いや、それ以下だ……!」
嗚咽が病室に響く。ハルマは自らの罪の重さに耐えかね、ギプスで固定されていない左腕で顔を覆い、激しく身を震わせた。高潔な復讐者を気取っていた自分が、結局は最も忌むべき「暴力」に手を染め、他人の命を奪ったという絶対的な現実。
それがハルマの理性を、今なお内側からズタズタに引き裂いていた。三島は、ハルマの言葉を途中で遮ることなく、最後まで静かに聴いていた。
ハルマの告白が終わり、ただ機械の規則正しい電子音だけが室内に残されたとき、三島はゆっくりと、ハルマを包み込んでいた手を解き、自らの眼鏡を押し上げた。
「比良坂くん。君は、法を『無傷の正義』だと勘違いしていたんだね」
その言葉は、冷酷な突き放しではなかった。どこか悲しげで、しかし極めて現実的な、ベテラン弁護士としての独白だった。
「法というのはね、天から降ってくる絶対的な光ではない。かつて人間たちが、血で血を洗う過ちを犯し、泥を啜り、無数の命を失った歴史の果てに、ようやく編み出してきた『人類の知恵の結晶』なんだ。つまり、法そのものの根底には、君が今感じているような、泥泥とした人間の業と怨念、そして『これ以上の悲劇を繰り返したくない』という、血塗られた歴史の反省が流れている」
三島は立ち上がり、病室の窓の外を見つめた。遠く、梅雨時のどんよりとした雲の隙間から、かすかな街の灯りが見える。
「君がしたことは、紛れもない殺人であり、法に対する重大な挑戦だ。それは決して許されることではないし、君はこれから、その罪のすべてを背負って生きていかなければならない。……だが、比良坂くん。君が『殺さなければ殺されていた』こと、そして、君が守ろうとした美澄さんの尊厳、それらを全て闇に葬り去ることは、法の本当の敗北を意味する」
三島は再びハルマに向き直り、その胸元に輝く金色の弁護士バッジを指差した。
「蛇谷は言ったそうだね。『法律なんてのは、まともな社会の中にいる奴にしか通用しない』と。……私は、その言葉を全力で否定するために、ここにいる。非合法組織の暴力だろうが、闇の支配者だろうが、彼らがこの日本という国に足をつけて生きている以上、法の支配から逃れることは絶対に許されない。君が法を裏切ったのではない。法が、君のような少年を救いきれなかったんだ。ならば、その歪んだ法の網の目を、今度こそ正しい形に修正し、君を、そして美澄さんを本当の意味で救済するのが、我々法律家の仕事だ」
三島の瞳に、静かな、しかし烈火のような闘志が宿っていた。
「戦おう、比良坂くん。君が泥の中で掴み取った大河内のスマートフォン、そこには大河内たちが美澄さんに対して行った犯行の『決定的な証拠』、そして蛇谷が属していたバックの犯罪組織のネットワークデータが遺されていた。警察はこれを単なる凶悪少年の暴走事件として片付けようとしているが、私たちが法廷で全ての真実をぶち撒ければ、流れは変わる。君を『人殺しの怪物』として終わらせはしない。君の犯した罪を直視した上で、君を地獄へ引きずり下ろした真の闇を、法の光の元に引きずり出すんだ」
ハルマは、覆っていた手をゆっくりと下ろした。涙で霞む視界の中で、三島の姿が、まるで暗闇の深淵に差し込んだ一筋の細い光のように見えた。
「僕に……まだ、できることが、あるんですか……?」
「あるとも」三島は深く頷いた。
「君の口から、法廷で全てを語ることだ。嘘偽りのない、君の血と涙の歴史のすべてをね。……準備はいいかい?」
ハルマは、深く呼吸をした。肺が痛み、鉄の味が喉に広がる。しかし、その瞳には、先ほどまでの絶望だけの虚無ではなく、自らの罪を背負ってでも美澄のために戦い抜くという、かつての「狂犬」とも優等生とも違う、新たな「覚悟」の炎が灯り始めていた。
「はい……。お願いします、三島さん」
◇◆◇
三週間後。ハルマの驚異的な回復力と、医療陣の懸命な治療により、最低限の移動に耐えうる状態まで肉体が回復した。
そして迎えた、第一回少年審判、兼刑事処分相当公判。
事態の社会的影響の大きさと、被害者(蛇谷)の死亡、および多数の重軽傷者を出した凄惨な状況から、事件は家庭裁判所から検察官へ送致(逆送)され、通常の地方裁判所の法廷にて、異例のスピードで刑事裁判として審理されることとなった。
重厚な木製の扉が開かれ、ハルマは手錠をかけられたまま、腰縄を引かれて法廷内へと入った。
廷内は、異様な熱気に包まれていた。傍聴席には、新聞記者や週刊誌のライター、そして「進学校の優等生が引き起こした集団リンチ殺人事件」というセンセーショナルな見出しに群がった野次馬たちが、隙間なく詰めかけている。彼らの視線は一様に冷ややかで、ハルマを「理解不能な狂気の少年」として好奇の目で凝視していた。
「被告人、比良坂ハルマ。前へ」
裁判長の厳格な声が響く。ハルマはゆっくりと証言台の前へと歩を進めた。制服ではなく、地味な灰色のスウェット姿。
右腕はまだだらりとしている、顔中には生々しい傷跡が残っている。メガネは新調されていたが、その奥の瞳は、驚くほど静かに澄んでいた。
検察官が起立し、起訴状を読み上げ始める。
「――被告人は、20XX年X月XX日夜間、大河内蓮のスマートフォンを不正に奪取し、位置情報を利用して地元の不良十数名を廃資材置き場へと誘引。所持していたバールおよびナイフを用い、凶悪かつ計画的な襲撃を敢行。十数名に重軽傷を負わせた。さらに、現場に到着した蛇谷毅に対し、明確な殺意を持って刃物で襲いかかり、最終的に瓦礫の山から突き落とすことで、鉄筋およびコンクリートによる圧殺、すなわち殺害に及んだものである。これは、少年法の精神を著しく逸脱した、極めて残虐かつ計画的な犯行であり――」
検察官の言葉が紡がれるたび、傍聴席から「うわぁ……」「なんて奴だ」という、嫌悪に満ちた囁き声が漏れる。
検察側の主張は完璧だった。提出された証拠、現場の状況、不良たちの証言(彼らは自らの罪を隠すため、ハルマが突然狂ったように襲ってきたと証言していた)。すべてが、ハルマを「冷酷な殺人鬼」として死刑まではいかなくとも、無期懲役の奈落へと押し進めていく。
「被告人、起訴事実について間違いはありませんか?」
裁判長がハルマを見下ろす。ハルマは一瞬、三島が座る弁護人席を見た。三島は、ただ静かに頷いた。
ハルマは前を向き、しっかりと声を張った。
「……間違い、ありません。僕は、蛇谷を殺しました。他の人たちにも、取り返しのつかない大怪我をさせました。その事実について、弁解の余地はありません」
廷内が、ざわついた。あっさりと殺人を認めた少年に、記者たちが一斉にメモを取る。
「ただし」
ハルマの声が、一段と低く、重くなった。
「僕がなぜ、そこへ行かなければならなかったのか。なぜ、彼らを傷つけなければならなかったのか。その『前提』について、お話しさせてください」
「被告人、それは弁護人の尋問の中で――」
「裁判長」三島が鋭く起立した。
「被告人の陳述を許可願います。これは、本事件の『動機』の根幹に関わる重要な証言です。検察側が提示した起訴状には、この事件の引き金となった、大河内らによる極めて悪質な集団準強制性交、および恐喝事件、そして蛇谷が主導していた非合法組織による被害者への脅迫行為が、一切記載されていません」
三島の言葉に、検察官の眉が跳ね上がった。
「弁護人! 本件は比良坂ハルマによる殺人および傷害事件の審理であり、別件の犯罪事実をここで混同させるのは不適切です!」
「不適切ではない!」
三島は一歩も引かなかった。
「法廷とは、単に犯した罪の点数を数える場所ではないはずだ! なぜこの少年が、六法全書をボロボロになるまで読み込み、法を信じていた優等生が、自らの未来を捨ててまで鉄パイプを、刃物を握らねばならなかったのか! その真実から目を背ける裁判に、一体何の意味があるというのか!」
三島の怒号のような正論が、法廷の空気をピりつかせた。傍聴席の記者たちの目が、一変する。単なる「少年の暴走」ではない、裏にある「巨大な闇」の存在を察知したのだ。
裁判長は三人の裁判官で一瞬目配せを交わすと、厳かに告げた。
「……被告人。簡潔に、あなたの動機について述べなさい」
「ありがとうございます」
ハルマは深く一礼し、そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「僕には、南雲美澄という、大切な友人がいます。彼女は、本当に優しくて、真面目で、僕なんかにはもったいないくらい、輝いている人でした。……でも、大河内たちに、その輝きをすべて、暴力で踏みにじられたんです」
ハルマは、大河内たちが美澄に行った行為の残虐さを、感情を押し殺した冷徹な言葉で描写していった。あえて法律の構成要件に合致するよう、極めて正確に、客観的に。
その冷徹さこそが、かえって廷内の人々に、事態の異常性と悍ましさを生々しく伝えた。
「美澄は、警察に行こうとしました。でも、大河内たちは言ったんです。『警察に行ったら、動画をネットに流す。お前の人生も、お前の親の人生も終わりだ』と。美澄は、心を壊されました。今も、精神科の閉鎖病棟で、誰とも喋れず、ただ震えています。……僕は、法を学んでいました。美澄を傷つけた奴らを、正しい法律の力で、合法的に刑務所に送ってやるために、死ぬ気で勉強した。そして、証拠を集め、大河内を追い詰めたんです」
ハルマの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「でも、あいつらの後ろには、蛇谷という『本物の無法者』がいました。蛇谷は、僕がどれだけ法律の知識を掲げても、それを鼻で笑った。僕の目の前で、学校に恐喝の噂を流して社会的に抹殺すると言った。そして、廃倉庫で僕を殴り倒し、折れた肋骨を踏みつけながら言いました。『法律なんてのは、まともな社会の中にいる奴にしか通用しねえんだよ』と」
傍聴席から、息を呑む音が聞こえた。
「その時、僕は理解したんです。僕がどれだけ法律という盾を掲げても、彼らのような本物の怪物は、その盾ごと僕たちを噛み砕く。美澄を守るため、そして僕自身の家族を守るためには……僕自身が、法の外側へ出て、怪物になるしかなかった。……裁判長。僕は人を殺しました。それは絶対に間違っている。でも、あの夜、あの場所で、僕がナイフを握らなければ、僕も、僕の家族も、そして美澄の尊厳も、すべてあの男たちに、無法の闇の中に踏みつぶされていた。それだけは、間違いのない事実です」
ハルマが話し終えたとき、法廷内には、静まり返った沈黙が降りていた。
先ほどまでハルマを「残虐な殺人鬼」として見ていた傍聴人たちの目は、今や、社会の歪みと無法の暴力によって、極限まで追い詰められた一人の少年に対する、強烈な同情と戦慄へと変わっていた。
検察官は苦渋の表情を浮かべ、三島は静かに書類を整理しながら、確信に満ちた目で裁判官を見据えていた。
◇◆◇
公判は数ヶ月に及び、熾烈な法廷闘争へと発展した。三島が提出した、大河内のスマートフォンから復元されたデータは、決定的な爆弾となった。
そこには、美澄に対する犯行の記録だけでなく、蛇谷が関与していた広域指定暴力団傘下の組織による、数々の恐喝、賭博、そして少女たちをターゲットにした組織的な犯罪の証拠が大量に含まれていた。
結果として、ハルマの裁判をきっかけに、警察上層部も動かざるを得なくなり、蛇谷の属していた組織の壊滅作戦が実行され、大河内をはじめとする不良たちも、過去の余罪を含めて芋づる式に逮捕・起訴されることとなった。
そして、判決の日。




