スピンオフ・三島の後悔
金色に輝く弁護士バッジを指先でなぞるたび、三島の胸の奥には、今も消えない冷たい「澱」が蘇る。
それは、ベテランと呼ばれて久しい今でも、決して色褪せることのない、一人の新米弁護士だった頃の記憶だ。
(先生、僕は何も悪いことはしていません。信じてください)
アクリル板の向こう側で、怯えた瞳で自分を見つめていたあの少年の声を、三島は今でも鮮明に思い出すことができる。
当時、まだ事務所に所属したばかりで、少年犯罪の現実すらまともに分かっていなかった三島は、その少年の弁護人に選任された。
少年は、不良グループの身代わりにされ、無実の罪を着せられていた。当時の三島は、正義感だけは人一倍強かった。法廷で真実を明かせば、必ず法は正しい人間を救ってくれると信じていたのだ。
だが、現実は残酷だった。
狡猾な大人たち、保身に走る不良どもの完璧な偽証、そして「少年の非行」という枠組みをただ機械的に処理しようとする司法の冷徹なシステム。新人であった三島には、それらの巨大な壁を打ち破るだけの「力」も「技術」も、何より「覚悟」も足りていなかった。
結果は、凄惨な敗北だった。
少年の訴えは退けられ、少年院送致。それだけでは終わらなかった。社会的な烙印を押され、絶望のどん底に突き落とされた少年は――退所して数ヶ月後、自らの手で命を絶った。
『先生のせいじゃない。ありがとう』
遺書に遺されていた、あまりにも優しすぎるその言葉が、三島の魂を永遠に縛り付ける呪いとなった。
自分が無力だったから、彼の人生を取り戻せなかった。自分が法という盾の「本当の使い方」を知らなかったから、彼の未来を変えられなかった。法律は万能の神ではない。
泥を啜り、血を流してでも勝ち取らなければ、何も守れないただの紙切れなのだと、三島は少年の死をもって骨の髄まで叩き込まれた。
あれから、数年。
三島は少年犯罪を専門に扱い、修羅場をくぐり抜け、泥に塗れながら「勝てる弁護士」としての地位を築き上げてきた。すべては、あの日の後悔を二度と繰り返さないための、贖罪の日々だった。
そして今、三島の前には、あの頃の少年と同じように、社会の歪みと無法の深淵に叩き落とされ、絶望している少年がいた。
「警察や世間はね、君のことを『十数人を返り討ちにし、一人の男を惨殺した冷酷な怪物』だと噂している」
病室のベッドの上、ズタボロになりながらも静かに佇む比良坂ハルマ。彼の部屋にあった、ボロボロの六法全書を見た瞬間、三島の魂が激しく震えた。
(この子は……法を信じて、戦おうとしていたんだ)
かつての自分が守れなかった少年が、絶望の中で法に裏切られ、それでもなお、法の手触りを求めてあがいていた。そんなハルマの姿が、あの自殺した少年の面影と重なり、三島の胸を激しく締め付ける。
確かに、比良坂くんが犯した罪は重い。一線を越えて人を殺したという事実は、決して消えることはない。
だが、彼をここまで追い詰めたのは、まぎれもない「法の敗北」であり、私たち大人の無責任さだ。もしこのまま、彼をただの『狂気の少年殺人鬼』として奈落へ落とせば、三島は再び、あの日の後悔を一生背負って生きることになる。
(二度と、あんな思いはしない。私の目の前で、少年の未来がすり潰されていくのを、ただ見ているだけの手無しの弁護士は……あの日に置いてきた)
三島はハルマの目を真っ直ぐに見つめ、心の中で固く誓った。
あの頃の、無力で無知だった新人弁護士ではない。今の自分には、泥を啜り、闇を暴き、法廷という戦場で悪党どもの首を絞め上げるための、牙と知識がある。
「僕は君の味方だ、比良坂くん。世間の誰もが君を人殺しだと責め立てても、君の弁護士である僕だけは、君を信じる」
ハルマの震える左手を両手で包み込んだとき、その手の冷たさは、あの少年が最期に残した冷たさと酷似していた。だからこそ、今度はその手を絶対に離さないと、三島は魂の底から決意した。
「僕と一緒に、裁判へ行こう。そして、法廷という正しい場所で、君を地獄に突き落とした本当の悪党どもを裁かせるんだ」
君が法を裏切ったのではない。法が、君を救いきれなかった。ならば、この三島が、持てるすべての技術と執念をかけて、歪んだ司法の目を覚まさせてみせる。
かつて変えられなかった過去を、取り戻せなかった少年の命を、この比良坂ハルマという少年の『救済』を成し遂げることで、今度こそ証明してみせる。
眼鏡の奥の瞳に、静かな、しかし烈火のごとき闘志を宿し、ベテラン弁護士はかつての後悔を燃料に変えて、少年の未来を取り戻すための戦場へと、再び足を踏み出した。




