プロローグ1-B「絶望の果て」
怖い。
痛い。
もう、立ち上がれない。
目の前では、化け物が棍棒を振り上げていた。
逃げなきゃいけないのに、体が動かない。助けを呼ぼうとしても、声が出なかった。
私はぎゅっと目を閉じ、体を丸めた。
嫌だ。死にたくない。お父さん……。
そのときだった。
――いつまでたっても、棍棒が振り下ろされなかった。
おかしい。そう思って恐る恐る目を開ける。
すると、頭の上から何かが砕けるような音が聞こえてきた。
バキッ、バキバキッ!、
何の音? 顔を上げた、その瞬間。目の前の化け物が、横へ吹き飛んだ。
大きな体が木々をなぎ倒し、手にしていた棍棒と一緒に森の奥へ消えていく。
何が起きたのか、わからなかった。
ただ、さっきまで私を殺そうとしていた化け物が、あっという間にいなくなっていた。
そして、私の目の前には――黒い鎧を着た人が立っていた。
全身が黒一色で、顔は見えない。
怖い。そう思ったはずなのに、不思議と逃げようとは思わなかった。
その人は、私を見下ろしていた。
「……助けに来たぜ、アリサちゃん」
私の名前を知っている。
(どうして?)
聞きたいことはたくさんあった。でも、声が出なかった。
黒い鎧の人は、そっと私を抱き上げた。
その手は、思っていたよりもずっと優しかった。
鎧には傷がたくさんついていた。ところどころ黒く焦げていて、何度も激しい戦いをくぐり抜けてきたように見える。
その首元には、鮮やかな赤いマフラーが巻かれていた。
私は、ぼんやりとその色を見つめた。
(赤い……)
燃える村の火とは違う、きれいな真紅の赤だった。
「……っ、う……」
安心したせいなのか、急に涙があふれてきた。
止めようとしても、止まらない。
怖かった。痛かった。お父さんと離れたくなかった。
言いたいことはたくさんあるのに、口から出てくるのは嗚咽ばかりだった。
「おっと……」
黒い鎧の人は困ったような声を出した。
それから、私の体についた泥や血を、大きな手でそっと拭ってくれた。
自分の鎧が汚れることなんて、気にしていないみたいだった。
「大丈夫だ。もう大丈夫だからな」
狼の顔を模した兜をかぶっていて、顔は見えない。でも顔が見えなくても、優しい声だった。
その声を聞いた途端、ますます涙が止まらなくなった。
「う、うう……っ!」
「おっと、そんなに泣くなって言いたいところだけど……今は無理だよな」
黒い鎧の人は、そんな私を受け止めて、そっと背中をさすってくれた。
そして、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「大丈夫、大丈夫だ。1人が怖いのは当たり前だ。けど、アリサちゃんはよく頑張った。アリサちゃんには俺がついてるんだ、もう大丈夫」
その言葉を聞いて、私はようやく息を吐いた。
怖くて、ずっと息をするのも忘れていたみたいだった。
この人は、私を助けてくれた。
もう、化け物に追いかけられなくていい。
もう、逃げなくていい。
そう思ったら、体から力が抜けていった。
「……あ」
黒い鎧の人が、目の前で何かを取り出した。
何もないところから、突然現れたように見えた。
手の中にあったのは、青く透き通った小さな瓶だった。
「これ、飲めるか?」
私は小さくうなずいた。
黒い鎧の人は瓶を傾け、私が飲みやすいように手伝ってくれた。
中の液体を飲み込む。
すると、体の奥から温かさが広がっていった。
さっきまであんなに痛かった体が、少しずつ楽になっていく。
傷も、痛みも、まるで嘘だったかのように消えていった。
「おお、ちゃんと効いたな。瀕死の状態からの過剰回復ってところか」
黒い鎧の人は、ひとりで納得したようにつぶやいた。
私には、言葉の意味はよくわからなかった。
でも、もう痛くない。
それだけで十分だった。
そのとき、森の奥から声が聞こえた。
グルルル……、
さっきの化け物と同じような声。
しかも、一匹じゃない。
黒い鎧の人は、すぐに私を抱き直した。
「……おいでなすったか」
その声から、さっきまでの優しさが消えていた。水のように冷たい声。
黒い鎧の人は周囲を確かめると、私をそっと後ろの木の根元へ下ろした。
「ここで大人しく待っててくれるか?」
私は不安になって、その人の鎧の腰布をつかんだ。
また、一人になるの?
そんな気持ちが顔に出ていたのか、黒い鎧の人は少しだけ身をかがめた。
「大丈夫。すぐに終わらせるから」
そう言って、首元の赤いマフラーを外した。
そして、それを私の首に巻き付けてくれた。
「これを巻いてな。少しは安心するだろ?」
赤いマフラーは、冷たいはずなのに、どこか暖かった。
私は、そのマフラーの端をぎゅっと握った。
「……うん」
黒い鎧の人は、安心させるように私の頭を軽くなでた。
それから立ち上がり、近くの地面に突き刺さっていた大きな剣へ手を伸ばした。
剣は、私の体よりもずっと大きかった。
こんなものを、本当に持てるの?
そう思っている間に、黒い鎧の人は片手で剣を引き抜いた。
そして、何でもないことのように肩へ担いだ。
森の奥から、化け物たちが姿を現す。
大きな体。鋭い牙。手にした武器。
その数は、一匹や二匹ではなかった。たくさん集まっている。
けれど、化け物たちはすぐには襲いかかってこなかった。
黒い鎧の人を見て、立ち止まっている。
まるで、《《化け物たち怖がっているみたいだった。》》
黒い鎧の人は、剣を肩に担いだまま、静かに化け物たちを見つめていた。
「……さっさと終わらせて、一緒に帰ろうな」
その背中を見つめていると、不思議と怖くなくなった。
もう、大丈夫。
私は赤いマフラーを握りしめた。
まぶたが重くなっていく。
体はまだ疲れていた。安心したせいか、急に眠くなってきた。
黒い鎧の人の背中が、ぼんやりとかすんでいく。
私はその背中を見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。
これが、私とヴァルツさん――ううん、ヴァルツお兄ちゃんとの出会いだった。




