第二章 3「癒しの祠 中層~ 最下層急行」
隠し通路の終点は、思いのほか近かった。
初めて目にする《セーフティエリア》は、天井の一部から差し込む日差しに照らされていた。わずかな光が届くその空間には、太ももまで浸かるほどの浅い水場が広がっている。
水は川の水よりも驚くほど透明だった。
俺の視界に表示される情報を確認しても、毒性を示す項目はない。それどころか、この水場の識別名は《治癒の泉》。アリサの療養には、うってつけの場所だった。
「せっかくだし、水浴びでもしていくか」
そう勧めると、アリサはこくりと頷いた。
彼女が水浴びをしている間に、先ほど手に入れた遺物を解析しよう。そう考えた俺が少し離れようとしたところ、腰布がくいくいと引っ張られた。
「……ん?」
振り返ると、アリサが俺の服をつまんでいた。
どうやら、離れてほしくないらしい。
年頃の女の子だし、さすがに水浴びの間くらいは一人にしてやったほうがいいだろう。そう思っていたのだが、こちらを見上げる彼女の眼差しは、思いのほか切実だった。
「……わかった、わかった。そばにいるから」
俺が観念して頷くと、アリサはほっとしたように表情を緩めた。
……まあ、今さら気を遣いすぎる必要もないか。
せっかく水場があるのだから、俺も一緒に水浴びをしてしまおう。下のインナーだけになれば、気分はプールに来た兄妹といったところだ。
アリサにはタオルも渡してあるし、問題はないだろう。
俺は村から持ってきた桶で水を掬い、頭からざばりと被った。
「くぅぅぅ……!」
ひんやりとした水が頭から身体へ流れ落ちていく。冷たいのに、身震いするほどではない。むしろ、心地よさが全身に染み渡っていくようだった。
隣では、真似するようにアリサも自分の頭から水を被っていた。
結果、二人そろってびしょ濡れだ。
互いの姿を見て、思わず顔を見合わせる。そして、どちらからともなく笑い声がこぼれた。
「二人そろってずぶ濡れだな!」
「ふふっ……うん!」
こうして水浴びをするのも悪くない。けれど、久しぶりに水に浸かったせいか、別の欲求まで湧いてきた。
「いやぁ、気持ちいいな。こういうのもいいけど、いつか風呂に入りてぇな」
「お風呂?お風呂って、なあに?」
不思議そうに首を傾げるアリサ。
「風呂ってのは、こう……大きな浴槽に湯を沸かして、そこに浸かるんだよ」
「……お湯に、入るの……?」
「ああ。身体を洗うだけじゃなくて、ゆっくり湯に浸かって温まるんだ」
やはり、この世界には風呂に入る習慣がない。
アリサも、普段は水浴びをするか、水で濡らした布で身体を拭く程度なのだという。
……なるほどな。そりゃ、風呂なんて想像もつかないか。
そうなると、目標が一つ増えた。
金を稼いで、いつかアリサに風呂を用意してやろう。いや、せっかくなら自分たちが暮らせる拠点もあったほうがいいかもしれない。
そんなことを考えながら、頭の中のやりたいことリストに新たな項目を加える。
まずは金を稼ぐ。次に拠点を確保する。それから風呂を作る……。
「うーん……」
「お兄ちゃん?」
「いや、なんでもない。ちょっと考え事だ」
俺は一人で唸りながら、水場から上がった。
後を追ってきたアリサにタオルを渡し、自分の身体を拭くように促す。俺も適当に水気を拭き取ると、今度は乾いたタオルで彼女の頭をわしゃわしゃと拭いてやった。
「わわっ……お、お兄ちゃん、くすぐったいよぉ!」
「ははっ、こういうのは子供のうちにやっとくもんだ」
単なる子供向けの戯れだが、もみくちゃにされるアリサは、くすぐったそうに笑っていた。
髪を拭き終えた後は、尻尾にもそっとタオルを当てて水気を取ってやる。さすがに、そこは力加減に気を遣った。
そうして二人で笑いながら過ごしていると、ここがダンジョンの中だということを忘れそうになる。
何しろ、この場所へ通じる道は、俺たちが見つけた隠し通路だけだ。わざわざここまで来る物好きは、そうそういないだろう。
ダンジョンの中で、こんなふうに休めるとは思っていなかった。
そうしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
俺の時計が夕刻を示した頃、俺たちは晩飯を取ることにした。
とはいえ、豪勢な食事があるわけじゃない。あとで屋台で買った肉を、売られていたパンに挟んだだけの簡単なサンドイッチだ。
手の込んだ料理なんて、今の手持ちじゃ作れない。だが、アリサはそんなことなど気にする様子もなく、サンドイッチを頬張っていた。
「美味いか?」
「うん。おいしいよ、お兄ちゃん」
「そりゃよかった」
何気ない会話を交わしながら、俺も自分の分を食べる。
こうしていると、まるでピクニックに来たような気分だ。ダンジョンの中で食べる夕食というのも、考えようによっては外食みたいなものかもしれない。
……まあ、周囲は岩壁だらけなんだけどな。
食事を終えた俺たちは、休息を切り上げて来た道を戻ることにした。
ここは行き止まりであって、目的地の最下層ではない。先へ進むには、結局、元の通路へ戻るしかないのだ。
名残惜しさを感じつつ、俺たちは隠し通路を引き返した。
そして、元の道へ出た瞬間。「うおっ!?」と驚いてしまった。
なにせ目の前ギリギリを、冒険者たちが慌ただしく駆け抜けていった。
危うくぶつかりそうになり、俺は反射的に身を引く。
「おい、危ねえだろ!……って、何があったんだ?」
「あ、すまねえ!最下層の広場に、見たこともねえ豚の魔物が出たんだよ!」
「豚の、魔物……?」
その言葉を聞いた途端、嫌な予感が胸をよぎった。
逃げてきた冒険者はソロらしく、息を切らしながら事情を説明してくれた。
このダンジョンの最下層には、ボスエリアがある。その奥には、ダンジョンの外へ帰還するための簡易転送陣が設置されているらしい。
ところが今、その転送陣を豚の魔物が陣取っているという。
このダンジョンのボスは、新米冒険者でも倒せる程度の相手だと聞いていた。冒険者向けの案内にも、そう記されていたはずだ。
だが、今回は様子が違うらしい。
見慣れない豚の魔物が、ダンジョンに棲息する魔物たちを指揮している。
そのせいで、即席のパーティーを組んでいた新人冒険者たちは、瞬く間に壊滅状態へ追い込まれたのだという。
「───豚の魔物って、もしかして……」
はっとして、俺は隣にいるアリサへ目を向けた。
豚の魔物。つまり、オーク。
それは、彼女にとって忘れられない恐怖の象徴だ。
村を襲い、父親を奪った化け物。もし、あの時のオークがここにいるのなら……。
戦力だけを考えれば、俺が介入すべきなのは間違いない。だが、アリサを連れていくのは危険だ。かといって、ここに一人で置いていくわけにもいかない。
どうするべきか。
俺が判断を迷っていると、アリサが小さく口を開いた。
「お兄ちゃん、私も行く」
「アリサ……。あの時、村から逃げたオークがいるかもしれねえんだぞ。危ないから、ここで隠れて──」
「私は、もう逃げない」
アリサは俺の言葉を遮り、まっすぐにこちらを見上げた。
「今度は、お兄ちゃんと一緒に」
声は震えていた。
握りしめた小さな手も、かすかに震えている。怖くないはずがない。それでも彼女は、逃げずに前を向こうとしていた。
……そっか。なら、俺がこれ以上、止めるわけにもいかないか。
「……わかったよ」
俺は観念して頷くと、腹のあたりにしがみついていたアリサを左腕で支え、そのまま抱き上げた。
「ただし、一つ約束な。絶対に無茶はしないこと。俺の言うことをちゃんと聞くんだぞ」
「うん。言うこと、聞くから」
「よし。……あんたも、外に戻ったらここの状況を知らせてくれ。頼んだぜ」
「あ、ああ!任せろ!」
冒険者は頷き、俺たちが来た道を引き返していった。おそらく、ダンジョンの入り口へ向かうのだろう。
その背中を見送りながら、俺はアリサを抱き直す。
さっきの返事をする時の眼差しは、どこか父親のそれに似ていた。
あの人も、娘を守るために最後まで諦めなかったのだろう。
なら、今度は俺の番だ。
「しっかり捕まってろよ、アリサ」
「うん……!」
俺は床を蹴り、最下層へ向かって走り出した。
階段を一気に跳び越え、着地の勢いを殺さずに通路を駆け抜ける。
途中、何人もの冒険者が倒れているのが目に入った。幸い、どの者もまだ息はあるようだ。だが、戦闘を続けられる状態ではないだろう。
俺は彼らを横目に、さらに速度を上げた。
やがて、通路の先から剣戟が響いてくる。
金属がぶつかる音。魔物の咆哮。冒険者たちの叫び声。
戦闘の音が、すぐそこまで迫っていた。
「───やっぱりか」
広場へ飛び込んだ俺の目に映ったのは、複数の魔物と交戦する新米冒険者たちだった。
そして、その中心にいるのは───やはりオーク。
黒ずんだ肌に、身体を覆う傷跡。村を襲ったボス個体と同じ姿だった。
間違いない。あの時、取り逃がした奴だ。
オークは、このダンジョンのボスであるはずの巨大なキノコの魔物たちを従え、冒険者たちを追い詰めていた。
新人たちも決して無抵抗ではない。互いに声を掛け合い、どうにか陣形を維持している。
だが、状況は明らかに劣勢だった。このままでは、全滅するのも時間の問題だろう。
すぐにでも介入するべきだ。
そう判断しながらも、俺は一瞬だけ隣のアリサを見た。
彼女は俺の腕の中で、オークから目を逸らさずにいた。
怖いのだろう。身体にはまだ力が入っているし、顔色だって決してよくはない。
それでも、彼女は目を背けなかった。
……なら、やることは一つだ。
「ちゃんと捕まってろよ、アリサ!」
「うん……!」
俺は彼女を抱え直し、地面を強く蹴り上げた。
広場まではまだ距離があったが、構わず跳ぶ。落下するように戦場へ飛び込めば、あっという間に距離が縮まった。
そして───着地。
ドォンッ!! 地面を揺らすほどの衝撃音が響き渡る。
つい先ほどまで戦っていた冒険者たちが、一斉にこちらを振り返った。異変を察知した魔物たちも動きを止め、広場に奇妙な静寂が落ちる。
俺という乱入者が現れたことで、戦場の時間がほんの一瞬だけ止まったようだった。
俺はアリサをそっと降ろす。
「アリサ、どこか隠れられる場所を探して、そこで待っててくれ。俺が呼ぶまで出てくるなよ」
「……うん。わかった」
彼女は小さく頷くと、広場の端へ向かって駆けていった。
その後ろ姿を横目で見送りながら、俺はインベントリを開く。
取り出したのは、村で倒したオークが使っていた大剣だ。
粗悪品ではあるが、今はこれで十分。
俺は大剣を握り、目の前にいる巨大なキノコの魔物へ狙いを定めた。
「───そらよっ!」
全身の膂力を込め、剣を投げつける。
大剣は高速回転しながら一直線に飛び、巨大なキノコの胴体を貫いた。
そのまま勢いを失うことなく、魔物の身体ごと背後の壁へ突き刺さる。
巨大なキノコは身体に刺さった大剣を抜こうともがいていた。俺はすぐさま駆け寄り、壁に半ば埋まった剣の柄を膝蹴りで押し込む。
ぐぐぐっ、と鈍い音が響いた。
刃がさらに深く食い込み、キノコの身体が裂けていく。
やがて、その胴体は真っ二つに割れた。
魔物は痙攣するように震えたあと、動かなくなる。足元には、緑色の血溜まりが静かに広がっていった。
「ペッ……。味のねえ野菜ジュースみてえな味だな」
傘から垂れた魔物の血が、兜の隙間を通って俺の口に一滴入ってしまったらしい。
思わず吐き捨てる。
それから大剣を引き抜いたが、当然というべきか、刃はさらに欠けていた。もともと粗悪品だったうえに、あれだけの勢いで投げつけたのだ。刃先は欠け、剣身も歪んでいる。
「って、あ?」
ふと周囲を見渡す。
先ほどまで他の魔物と戦っていた冒険者たちの姿が、どこにも見当たらない。
どうやら、俺が飛び込んできた隙に逃げ出したらしい。
「まぁ、そうなるか」
そりゃそうだ。見知らぬ黒鎧の男が空から飛び込んできたかと思えば、巨大な魔物を一撃で仕留めたのだ。巻き込まれる前に逃げる判断は、むしろ正しい。
……ただし。俺はゆっくりと顔を上げた。
周囲には、残ったキノコの魔物たち。そして、こちらを睨みつけるオーク。
いつの間にか、俺は魔物たちにぐるりと取り囲まれていた。
「……なるほど。こいつは、ちょいと面倒なことになったな」
どうやら、今度は俺がピンチになる番らしい。




