六. 一念発起
当初の予定なら、今頃とうに次なる冒険の地へ赴いているはずだった。散々心配された船や航空機の失踪の件。文字通りの荒波だって、我々が目的とするものを手に入れる為の道のりだって、なんのこれしき! と乗り切ってやる気でいた。決意と熱意で漲っていた頃がやけに懐かしいくらい。
思えば今年、ユキと再会した頃からだ。あまりにも立て続けに変化が訪れたものだから、私の理解もなかなか追い付かなかったのだろう。
ユキだけじゃない、夏呼とも。徐々にならばまだしも、こんな急激に関係が変わるとは思いもしなかった。
私はしばらくの間、自分というものがわからなくなってしまったよ。いいや、正確に言うと未だ答えに辿り着けていないのだが、自分は今まで何を信じてきたのだろうと毎日のように考えた。
好意を示されれば何か事情があるのだと歪んだ方向に解釈して、乙女の恋心でさえ主人に対する哀れみだと見誤った。
よもや私は誰も信じていなかったのではないか? だから真っ直ぐ届くはずのものが届かない。
なんの代償も無しに愛してもらえるなどあり得ないと、いつの間にか思い込んでしまっていたのではないか?
私の容姿や性格は母の求める条件を満たしていた。しかし父と兄の方は満たしていなかった。だから母にだけ愛された。そう思っていたのだけど、あれは単なる偶然だったのか。偶然そのような家庭だったというだけで……?
(ユキも夏呼も愛しているのに)
本音はこうだけど、おそらく言ってはいけないことなのだろう? 言ったら波乱が起きるのだろう。それくらいはわかってきた、けど、何故いけないのかわからない私はやっぱり何かおかしいのだろうな。
と、こんな具合に連日思い悩んでいたのだが、私はやはり難しいことを考え続けるのが得意ではないらしく、考えても考えてもキリがなく、しまいには知恵熱らしき症状にうなされていたのが実際のところだ。
しかしそんな私もついに立ち上がるきっかけを得ることに。
文字通りの年末。昭和五年から六年へと跨いだちょうどその頃、慣れ親しんだ横浜の冬空に除夜の鐘が鳴る。
「幾らかずれちまったけど、何のことはない。そうだろ? 夏南汰」
「うん」
「お前、何を願った?」
「はは、それ言っちゃ駄目でしょ。命さん」
参拝を終えたばかりで早速それか、と少しばかり冷感を交えた流し目で見てやると、ごもっともだなどと呟いて笑う彼。共に厚手の上着と襟巻きに身を包んで新年の港町を歩いて帰る。やっと、やっと、こんなこともできるようになったのだ。
「しかし夏南汰よぉ。さっきからなんだ、その音は。風鈴みたいで寒々しいぞ」
襟巻きに鼻まで埋めるよう首を縮こまらせて眉まで寄せる、命さんの言うことはそれこそ“ごもっとも”かも知れない。
これだけ満天の星空だ。雪など降りそうにはないが、踏みしめる露わな土にはしっかり霜が降りているし、髪で覆ってなお耳がじんじんと痺れる真冬らしい天候には決して相応しいとは言えぬだろう。
それでも天を仰ぐ夏南汰の白い顔には笑みが浮かぶのだ。それでも教えてやりたい、と。
「良い音であろう? 高等学校の頃、同じものをユキにやった」
「ユキ……ああ、春日の坊か」
「お揃いなのだよ」
「まぁ、そうなんだろうな」
ふい、と前に向き直る命さんの表情も声色も特に気にはならなかった。これからはもう離さない。何処までも、何処へ行ってもこれを連れて歩んでいくと、決意が固まった喜びからか。
「大事な親友、なんだな。良かったじゃないか」
「ああ!」
そう、私が今笑顔でいられる理由。私が立ち直るきっかけとなったのがまさにその親友だ!
今となっては前年にあたる十二月二十四日。日付もこれだ。なんという浪漫、なんという奇跡!
「春日家から便りが届きました。結核ではなかったそうです」
「ほんまか!!」
これはきっと白髭の老紳士、かのサンタクロースからの贈り物だったに違いない。
ほんの数秒前までぐったりと床に伏せっていたなど嘘のように身体を起こした夏南汰に、夏呼は相変わらずの静かな口調で告げたのだ。
「診断は肺炎。もとより身体の弱い春日様にとっては危険な状況に変わりはなかったのですが……」
「そう、じゃな。さぞかし苦しいのだろう」
咲いて僅かばかりで萎れゆく。うつむいて見つめた空っぽの足元へ、ユキ……とこぼしていたところへ、夏呼の優しい声色が少しばかり高く。
「それでも不治の病は免れました。容体は緩やかながらも回復に向かっている、と」
「!」
「ですから、ね。顔を上げて下さい、夏南汰様」
「ああ、夏呼!」
振りかぶるようにして上げた顔からは、はらはらと幾つも零れ落ちた。それはまるで恵みの雨。塩気よりもぬくもりを感じる優しげな雫だったことを覚えている。
ユキ。
「はよぉ、会いたいのぅ」
おのずと胸元を握り締めたことを、覚えている。
再び地の感触を確かめる両足は、翌る日にはもう迅さんと命さんの元へと私を誘った。決意は痛みを経て更なる強度を得たと思う。
後悔などもう考えたくはない。それより今から出来ることをしたい。
例え君が私を望まなくたって。元の関係には戻れなくたって。いいや、戻れないであろうからこそ、最後に君を想ってやり遂げたいことがある。
「君の願いは叶えてみせるよ!」
出航の日取りを決めて帰宅した私は、まさに水を得た魚といった具合に勢いよく、旅先の資料を納めた引き出しを開け放った。そのとき。
……りん。
軽やかに鳴いて手前へ転がってくるそれに気付いたが最後、遠い日の記憶までが引き出された。
それは一人立ちを決めた年。ユキの誕生日のことだ。
「ユキの筆箱は壊れかけだったろ」
よく行く雑貨屋で綺麗な藤色のセルロイド筆箱を見つけた。ユキが買い換えを検討していたことを思い出して購入を決めた。しかし。
「ありがとう、秋瀬。だけどなんで鈴まで?」
ふふ、と笑いながらも不思議そうに首を傾げたユキに私は自分の方を突きつけて。
「お揃いじゃ。例え何処に行ったって、君とは」
「秋瀬……?」
「ずっと、ずっと、繋がっとるけんのう!」
今思えばもう、この町を去ると打ち明けているようなものだったと今更ながら可笑しくなる。あの不安げな垂れ目、予感くらいは感じ取ったのかも知れぬな。
そして私に予感が訪れたのも同じ年だ。日を追うごとに確かになった。夏に似合う風鈴のような音色、それなのに。
“しんしん”
なんだかあれに似ている気がした。これでは……いけん。いつしか引き出しの奥深くへ閉じ込めてしまった私はきっと、粉雪を彷彿とさせる鈴の音に母以上の中毒性を感じてしまったんだ。
「なぁ、夏南汰」
「ん?」
「必ず叶えような。俺や……春日のような人間が安らげる世を」
もう目と鼻の先である屋敷では夏呼が甘酒を作って待っている。飲み下すのはもう少し後なのに、目を見張る夏南汰の頰は早くも紅潮していく。たった今受けた感動の為だ。
「凄いな、命さん」
誰とは言っていないのに、誰の為なのか察するなんて。
何が、と問う彼に小さくかぶりを振って夏南汰は先へと走り出す。危うい柱をサクサクと踏み潰す二つの足音は速度を増していく。
「おい、待てよ! 甘酒独り占めする気だろ!?」
「はは、ほんなら追いついてみんさい」
そう、まだ知らぬことが多いであろう私だけど、この自慢の駆け足ばかりは誰にも負けやしない。君の夢にだっていずれ触れてみせるよ。




