五. 多感多愁
神無月も残りわずかとなれば、もう誰もが念仏の如く、年末、年末などと口ずさみ出す。
――せめて年明けまで待ったらどうだ?――
そんな言葉も受けた。呆れたような苦笑を浮かべた命さんの促しだ。自分は構わないがお前はもう何年と家族にさえ顔を合わせていないのだろう、と案じてくれたことを知ったのだが。
「そりゃあたいぎいのう」
悪戯に背を向けて受け流した。想像するだけでも実にたいぎい(面倒くさい)こと。もとより迅さんを供に選んだ時点で耳に入っているのであろうが、あの頑固一徹の兄なんかと顔を合わせた日には……と、気だるいため息をついていた私にはもはや迷いなど無かった、はずなのだ。
しかし、だ。
「夏南汰様……お夕食をお持ちしても?」
「ユキぃ~?」
「夏呼です」
「うぅ……なづごぉ~~」
気付けば師走。音沙汰の無い静寂の冬を共に過ごす彼女はすでに覚えたらしい。陽が落ちる間際で床に着く、睡眠時間が異常に増す。気力を失っているときの私は大概こうなのだと。
「酷いお顔です、夏南汰様。美貌が台無しですよ」
「だって……」
「春日家との文通ならこの夏呼が責任を持って執り行っております。容体は徐々に落ち着いていると」
「結核じゃぞ!? まるであてにならん。もうふた月も経っとるのに、これじゃあ……っ、ユキが死んじまうけんのう!」
寝床の上で背を丸め、枕にいくつもの染みを作っては胸をさすり、ユキ、ユキって性懲りもなく繰り返している私をよそに、夏呼は黙々と暖炉を灯す。まるで見えていないかのよう。そんな風に振る舞うのは彼女の特技なのか。
「……胸の傷が痛むのですね」
「ああ、もうだいぶ薄くなっ」
――えっ!?
本当は見えているのに。
「ご自身で抉っていらっしゃるから、ですね。ふた月もあれば普通は癒えるもの」
「あ……」
思い出す。あれから何度となく迎えた夕暮れ時に自らの爪でなぞった。今では会うことさえ叶わない君の痕が消えてしまう。それが無性に怖かった私は……
――ユキ、ユキ……ぃ……っ――
吐息でやっと名を象り、逆手で枕を握り締めた。しかもそれだけでは終わらなかった。ついには服をはだけて自分を癒す行為に走った。まさか近くに彼女が居たなんて……!
「見ないで、夏呼! よくわからんけど、あれは多分……恥ずかしいことじゃ!」
顔面いっぱいに満ちた熱を振り払おうと激しくかぶりを振ると、反して彼女の方は静かに振る。それから。
「見てはおりません」
「ほ、ほんまに?」
「聞こえたのです」
「いやぁぁぁ!!!」
これまでにない羞恥心に悶える夏南汰はついに枕に向かって一直線に顔を埋めた。
きっと軽蔑されたに違いない。自分でもそう思う。苦しんでいる親友に何もしてやれないどころか、寂しさに負けて未練がましく……そう、私はまたしても自分の欲求を優先したのだ。何と腑抜けたことか。つくづく嫌になる。
主人にこんなことを言う夏呼は、きっともう見捨てる覚悟の元なのだろう、なんてところまで思考が行き着くとじんわり涙さえ浮かんできて。
それなのにどういう訳だろうか。
「夏、呼?」
「夏南汰様」
ふわり、乱れ髪を撫でる感触に顔を上げる。潤んだ目に映ったのは……
「失礼を承知で申し上げます」
あの慈しむ母のような眼差し。柔らかく、それでいて、哀しい色の。
「私は、夏南汰様を愛おしく思います」
その言葉自体に特に驚きはしなかった。目をまぁるく見開いたのは、突然告げられたことに対してだ。
私は薄く口を開いた。それは私もだと返そうとした。しかし彼女はゆっくりとかぶりを振るのだ。まだ声にさえしていないというのに。
「願わくは……貴方様の、妻に」
「え……」
「だけどもうわかっております。だから、言わないで下さい、ね」
儚く美しい微笑に吸い込まれながら、私は一つ、己の間違いに気付くのだ。
「そんな、夏呼、君は」
瞳も唇も声も、真実を知った胸の奥も、私の持つ全てが震え出した。頰を染めてうつむく彼女。その緑の瞳に浮かんだ涙が更なる実感を与えてくる。
「君は……私に仕える立場として、私を慰めてくれていたのでは、なかったのか……?」
合点がいってしまえば早いものだった。彼女は相手に応じた愛情の示し方がよくわかってないのだと思っていた。
だけど違う。これだって冷静に考えればわかることだ。
ここへ来るまで外の世界をよく知らなかった、ということは、影響を与えたのは私だ。わかっていなかったのは私の方なんだ。
愛の告白をされたというのに、夏南汰の顔からは血の気が引いていく。
「夏呼、私は……!」
「夏南汰様」
「私はなんて酷いことを」
「いいのです、夏南汰様。私、後悔してません」
私の両肩をしっかり掴んで懸命に微笑みを見せてくれる彼女。だけどその瞳は更に潤いを増していく。もう既に溢れ出している。
ごめんで済むことじゃない。
むしろ詫びること自体失礼かも知れない。
だって、あんなに温かく包んでくれた。私の為に、あんなに尽くしてくれた彼女の想いを無駄にしたくない。
ましてや割り切ってしたことじゃなかったなんて。
やっぱり駄目だ。
過ちなんかにしては駄目だ!
「夏呼」
私は彼女の腕を強く引いた。彼女が自分の為に泣いていることに耐えられなくて、今度はこちらから与えたいと強く願ったのだ。しかし。
「いけません」
彼女の細い指先が私の唇を制す。それはいつか私がユキにしたのと同じ、甘い香りの吐息を閉じ込めようとするあれだ。
「もう一つばかり失礼を。それが夏南汰様の悪い癖です」
「癖?」
「はい。夏南汰様はよく相手の感情を強く受け取り過ぎて、自分の心に在る真実を見失っているように見えました。想いには多種多様な形が存在するのです。私はこうして共に過ごすうちに貴方様の生き方を守りたいと思うようになりました。あの方は……また違う形のようですけど、ね」
指を唇に充てがわれながら首を傾げてしまう、私はまだわかっていないのか? だけど確かと思えることもまた有る。
私は大きな勘違いをしていた。
ということは、彼の気持ちも正しく理解していなかった。
あの方。それはもちろんユキのことなのだろう。恋敵と共に認め合う仲の二人が見つめる先はきっと同じ。
そうだ、今思えば言うまでもない。今夜夏呼が口にした言葉の数々でより迫ってくる“今更”。
他の誰でもない、実は私に向けられていた想い。
紡がれていく。一本一本ではたやすく千切れそうな絹糸が幾重にも折り重なって確かな強度を得るように。覆い被さろうとする巨大な布地から逃れたくて、見たくなくって、滅茶苦茶に腕を振り回して足掻きたくなってしまう。
だけどあのとき、ユキは。
――嫌いになれたらどんなに楽か……!――
こう言ったんだ。行かないでと引き止めても振り向いてくれなかった。
今更彼の気持ちに気付いたって、きっともう遅い。
「のう、夏呼……」
私はどうしたら良いのか。認め方も向き合い方も、術という術を心得ておらぬ私は……と、もはや泣き縋る寸前だったこちらから指先を離した夏呼が微笑んで。
「ねぇ、抱いて下さい、夏南汰様。意味は……おわかりですね?」
「うん」
多分、だが。
「これで良いか? ぎゅーっ、と」
「ふふ、そうです。ぎゅーと。正解ですよ」
胸の中でくすぐったげに震えている彼女の今の表情が、紛れもない微笑みだと思いたい。やがて小さな声が届いても、なお。
「貴方様はもうお気付きのはずです」
それでもなお私は、術を知らず途方にくれる迷子のように、無力なまま。




