七. 開雲見日
計画というのは一度破綻してしまうと、初めからではなくたってそれなりの行程、時間を要するものだ。気まぐれに向かうことなど出来やしない。至難と言える目的を持つ長旅ともなれば尚更だ。
それでもようやく漕ぎつけた。門出に相応しきはちょっとばかりけぶった春の香り。港を照らす朝の陽射しは先走って初夏のよう。
「やぁ! ハマの破天荒が今度は何処に向かうんだぁ?」
「いつものかわい子ちゃんは来とらんのかね?」
船も私も至って変わらぬ装いだ。それでも何か違うと感じ取ったのだろうか。青年から老人までもが集まり賑わい出す中で、とりわけ男たちの視線がせわしなく向かう先に気が付いた。
「命お姉様……!」
「樹、来てくれたのか」
なるほど、と容易に理解した夏南汰は麗しき二人を見つめて目を細める。あくまでも主張し過ぎぬよう、自然な足取りでそちらへ向かっていく。
「なんだ、お前にしちゃあ珍しい顔だな。いつもの自信はどうした?」
「だってお姉様……」
「樹。言っただろ? 命は“姉さん”じゃない」
「すぐには慣れないよね、樹さん」
努めて逞しげに振る舞う命の隣へ並ぶと、色香漂う美女の珍しい表情とやらへ向かって微笑んだ。夏南汰くん……立体的な紅の唇へ指二本程度を宛てがいながら、細く鳴くように呼ぶ彼女へ告げる。
「すぐには難しいと思う。簡単じゃないのもわかっている、つもりさ。だけど望みを捨てたらそこまでなんだ。いつかこれが自然となる世を……」
君が大きく息を吸える世を。
「叶える為の武器を必ず持ち帰ってくる。きっとあるんだ。この世界は実に広いのだからね」
さぁ、まだ時間はある、と促した。共に何処か幼げなはにかみ笑いで顔を見合わせた兄妹がやがて港から遠ざかっていく。方向からしておそらくは、出航の刻まで公園で語らうつもりなのだろう。
もの言わず人混みから離れた夏南汰は騒めきの最中にぽつんと取り残された※ビットに視線を落とす。おもむろに片足を乗っけて目を細め、鴎の声に耳を傾ける、ちょっと気取った一人遊び。そこへ。
「お友達はまだいらっしゃらないようですね」
「迅さん」
「夏呼殿との文通でも“回復に向かっている”……決まってそればかりが記されていると聞きました」
「ああ、そうだね」
振り向かなくったってしかと伝わる。背後で太眉を寄せる迅さんの表情を感じ取りながら、出来るだけ明朗な声で答えてやった。
「きっと来ないさ」
それでいい。
最後の一言を口にすることはなかった。
旅立ちの都度に見送りに来てくれた夏呼が居ないのだって訳がある。寂しくないと言ったら嘘になるが、あれは彼女なりの覚悟だ。責任は他でもないこの私に。だからこそ一遍の陰も見せまいと微笑みだけを置いてきたのだ。彼女はこのところ体調も優れないようだから尚更大人しくしているのが良いと思う。
そして、ユキ。
彼にだってれっきとした訳がある。結核ではないとは言え、元々病気がちで回復も決して早くはない。無理に動けば今後に差し障るのだから大事を取るのは尤もな判断と言えよう。
そしてきっともう一つある。責任。そう、これもまた逃れようのない、逃れてはならない私の責任なのだ。
「おや、命殿が戻られましたね。坊ちゃん、そろそろ」
「ああ!」
振り向く頃にはすでに大海の如く余裕に満ちた笑みを浮かべている迅さんに、己の持つ精一杯で答えたつもりだ。立ち止まってなどいられない。大きく手を振り駆け寄ってくる命さんにもそれはしっかりと投げた、つもりだ。
「樹が言ってたぞ。カナちゃんも逞しくなったものね、ってな」
船へと歩む途中に肘で小突かれた。しし、と悪戯に笑いながら覗き込んでくる命さんに苦笑する。
「それは光栄だ」
「ありゃ、嫌がるかと思いきや」
まぁるく目を見開いた命さんにまた苦笑する。やはりからかっていたか、期待外れで悪かったね、とちょぴり冷ややかな視線を送った後に。
「この名前のこと、だろう?」
言われる前にと切り出してやる。
「正直気に入っていなかった。母も叔母も樹さんも……あ、命さんもだったね? みんなカナちゃんって呼ぶからさ。なんだか“かなえ”とか“かなこ”のあだ名みたいだなぁって」
「ああ、そうだったな。わりぃ、わりぃ……」
「だけど」
責められてるとでも思ったのか、気まずそうに視線を泳がせる命にかぶりを振った。そんな必要はない、気にすることはない、と口にしなくてもわかったのだろうか。すっと大人しく口を噤んだ彼へ、更に。
「私はよく同じ夢を見るのだよ。優しい声と肌で包んでくれる母によく似た夢だ。だけど最近気付いたんだ。何か違うって」
「違う?」
「そう。母のようで母じゃない。あの声で呼ばれるうちに私は」
――夏南汰――
「この名前を好きになっていったんだ」
我ながら不思議なことを言っていると思った。だって夏呼は私を呼び捨てになどしない。
そしてユキも。今まで一度だって私をそう呼んだことはないのだからな。
度々夢の中で私を安らぎを与えてくれる存在。考えられるとしたらあの二人のどちらかだと思っていたのだが、現実的に考えると当てはまらないのだから本当に、不思議なものだ。
「なぁ、夏南汰」
おのずと歩みを止めてから一体どれくらい経った頃だろうか。低く確かな響きに呼ばれて顔を上げるとすぐ、先程とは一転して真摯な表情をした命さんに目を奪われてしまう。
彼は言う。
「俺は別に構わねぇんだ。人からどう見られようとそんなの気にしねぇ。だけど愛しいハニィが縮こまって生きているのを見ていられなかった、だからここに居る」
うん、と頷いた。そう言ってたねとか、君は優しいねとか、寄り添うような何かを返そうとしたときだ。
「世を変えたいのはハニィの為……いいや、違うさ。ハニィを愛する俺の為だ。だってそうだろ? 人生は他でもない自分のもの。誰だって己が可愛い己か、誰かを愛する己の為に動くもんじゃねぇのか?」
「命……さん?」
「お前が誰の為に動いているかなんて見りゃわかる。だけどよ、何か足りねぇんだ。夏南汰、お前は本当にあいつの為に行くのか?」
言葉を無くして立ちすくむ。鴎の声も、打ち寄せる波の響きも、潮の香りさえも遠く遠く薄れていく中、彼の問いだけが鮮烈に貫く。
「そこにお前の望みは、無いのか?」
「私の、望み……?」
――夏南汰――
母なる海に見守られ、母と似た声に耳をすます。
今更になって思い出す。夢の中でもそうだったと。何か違うと思ったのは、きっと、それこそが……
…………せ……っ。
「秋瀬ッ!!」
私の望みだった、から?
振り絞ったかのような声に驚いて自然と道を開いた人々。左右に割れたその間に彼を見つけた。
遠くたって私にはわかる。こんな初夏みたいな天候だというのに分厚い羽織りなんか着て、汗だくなのに青白い顔をして。
「ユキ……」
確かめたばかりのその姿が滲んでしまう。きっとまだ治ってなどいないのに。
「ユキッ!!」
無茶だなんてよくも言ってくれたな。そっくりそのまま返してあげよう。面白くて、可愛くて……愛おしい。
私の“望み”へ。
※ビット・・・鉄製かつ湾曲した形状。後に『港に佇む男』を彩る小道具にもなっていった、本来の用途は船のロープを留めておく為のものである。




