一. 落月屋梁
歩めばカサカサと乾いた響きを連ねる。潤い満ちた新緑もいずれはこうなるのだ、と実感している夕の帰り道。今まさに落ちようとしている紅を見つめながら、ここまで切ない気持ちになる日が来るだなんて。
年は同じく昭和五年。月日は流れて神無月。
「ただいま……夏呼」
「夏南汰様」
玄関の扉を開くなり嬉しそうに、そして何処か寂しげな微笑みで迎えてくれる彼女に夏南汰も目を細めて応える。彼女がこんな風に見えるようになったのもほんの三ヶ月前程のことだ。
これが今年の春であったなら。
――夏南汰様っ!――
半日以上居なかっただけでも何も悪びれることもなくこの胸に飛び込んできたであろう。私もためらうことなく受け止めていた。だけどこの頃の彼女はそれをしない。思い当たる節として最も大きいとするならば、やはり寝床を分けたことだろうか。
あのときの彼女の瞳。まるで割れる寸前のビー玉みたいな美しい乱反射に釘付けになったことを今でも覚えている。それから素直にはい、と頷いて従った彼女をどれだけ抱き締めてやりたいと思ったことか。
だけどこれで良かったのだ。実際、日を追う毎に確信へ近付いていっている。
変えるよう命じた習慣は見事に変えてみせた。何事も無かったかのように。優しい微笑みの中に凛とした眼差し。私を見る夏呼の目はやはり、主人に対する忠誠心に他ならない。
夏呼はまだ幼い頃に私と出逢い、共に暮らすようになったから、その相手に適した愛情の示し方がわかっていなかったんだ。気付いてやれなかったことを申し訳なく思うよ。
「次の旅の計画も滞りなく?」
「ああ、そのことなんだが、な。後で君に話しておきたいことがあるんだ」
夏呼の為にも、そして彼の為にも、私は変わらなくてはならない。
――貴方と私は恋敵というだけですよ!!――
まさか共に想う相手がいたなんて。
一体、誰なのだろう。
ひとまずは風呂済ませた。この後の食事の際にでもと思っていたのだか、暖炉の前で髪をといてもらっている最中、気がつくとすでに口にしていた。
「次の旅の行き先を変更した。もちろん目的がある」
「それは?」
「きっかけになったのは……ユキだった」
「春日、様」
背を向けたまま強く頷いた。続きを告げる為にはなかなかの覚悟が要る。ゆえの気合いとでも言ったところか。
「夏呼、実はな。ユキは」
「夏南汰……様……っ」
勢い付けて振り向くと不安げに寄せた眉と見開いた瞳がこの目に飛び込む。勘のいい君はすでに何か感じ取っているのだろうか。
話を盗み聞きしたことまで悟られる訳にはいかない。それでは彼女の秘めた恋心まで暴くことになってしまう。
夏呼からもユキからもその手の相談を持ちかけられたことはない。私にくらいは話してほしかった。だけどきっと……言いづらいのだろうな。
しばし思考した私はいよいよ口を開いた。慎重に言葉を選びつつ意を決して。
「ユキは多分、男が好きなのだ!」
発するなりガクッと傾ぐ夏呼にやはりな、と頷いてしまう。そうだろうな、恋敵の仲である君は知っているはずだ。これはきっと世間一般で言うところの公には出来ないこと。それくらいならわかるぞ。いざ言葉にされては恐れ慄いてしまうということも、な。
「夏南汰様、もしかして」
「原因はもしかすると私かも知れないんじゃ。私のせいで、ユキは……っ」
「…………」
「“男”に目覚めてしまったんじゃ! いや、私がこんな姿だからかも知れん。きっとユキは私と再会したことで男しか愛せなくなっ」
ガタンッ
「夏呼!?」
突如、天を仰ぐようにして大きく揺らいだ彼女を、椅子から転げ落ちる寸前で抱き止める。貧血か? いや、その割には意識がしっかりしている。ということはやはり、それ程までに動揺しているということか。何せ君にも関係のあることだからな。
「夏呼……驚かせてすまんのう。しかし私には心当たりがあるんじゃ」
虚ろな目をして心当たり? とおうむ返しする彼女に私は再び頷いてみせる。遠い昔に思いを馳せた。
あれは年齢にして十ほどの頃。家族で新居に越してきたばかりの頃。今考えると異常な状況だった。
広島から遊びにやって来た叔父が、大きくなったのう、などと言いながら私を上から下まで舐めるように眺めていた。やけにねっとりとした視線。やがて叔父はおもむろに私の尻を撫でたりなどした。私はぽかんと見上げていただけ。
数分と経たないうちに顔を猿のように赤くした兄がづかづかと歩み寄り、私の手をひったくるようにして叔父から引き離した。痛がる私を無理矢理引きずり居間を出て、廊下の片隅までやってきたところで阿修羅のような形相の兄が言ったのだ。
――おめぇの女っぽい顔と身体は人の気を狂わせるんじゃ。しゃきっとせぇ! そしてもっと逞しくなりんさい――
「……ってことがあったんじゃよ! 今ならわかる、兄が何故あんなにも怒っていたのか」
言葉も無く悲しそうに眉を寄せた夏呼へずいと身を乗り出した、私もきっと悲しい顔をしていたと思う。
「私は……私の姿は、まるで男らしくないじゃろ? 歳を重ねればそれなりにと期待したが全くそんなことは無かった。むしろどんどん女性じみてくる。それできっと、相手にそういう気を起こさせてしまうんじゃ」
こんな、自身の古傷を抉るようなこと。言葉に出すのは辛かったが、ぐっと堪えて私はもう一つ心当たりを口にする。
「夏呼、磐座樹さんという淑女を覚えとるか?」
磐座様……と、小さく呟きしばし考えていた彼女もやがて合点がいったようだ。
「以前、この屋敷に立ち寄り写真を撮っていかれた女性ですね? 夏南汰のご実家の近所に住んでいらしたという」
「そうじゃ。ユキはな、学生の頃あの樹さんのことを美しいと言っていた。興味の対象は女性じゃった。それが今年再会してから様子が変わって……」
(さすがにキッスをされたかも、とは言えないが)
「打ち明けてもらえないのは寂しい」
(そう、寂しい。そう感じるのは隠されていたからだ。だって私たちは……)
「……親友なのに」
(そうだ、親友であるはずなんだ。そこは絶対、変わらないはずだ)
「…………」
(あんなキッス、なんて、ただ近くに居た私に求めただけだ。寂しさから魔がさしただけだ。だって夏呼が想っているのは私じゃない。ということはユキのしたことだって本気なはずがない)
……そうなんだろ? ユキ。
なんだか言い知れぬ脱力感に支配される頃、腕の中の夏呼が小さなため息をついたように聞こえた。
「夏南汰様、まさかそれ、本気で?」
「あ、ああ。私はそう確信した」
「もはや才能ですね」
「え?」
「いえ、何でも」
体勢を立て直した夏呼は一つ頭を下げると元の席に着く。見つめ返した私の視界は潤み、彼女の姿を滲ませる。
「こういうのを同性愛者というのだよ。世間に知れれば軽蔑されると聞いた。煙たがられると。この私にさえ言えずにいるユキはどれ程肩身の狭い思いをしていることだろう」
「あの、それは少しちが……」
「えーがの! そう思わぬか、夏呼? 私は何も同性に恋することが悪い言うとる訳じゃない。それならそれで自由に想いを伝えたらええと思う。しかし世の中は奇異な目で見るじゃろう。除け者にするじゃろう。罪は無いけど生きにくいのは確かなんじゃよ。私はこんな世の風潮を変えたいんじゃ! 旅の行き先を変更したのも偏見と戦う武器を手にする為。多くの世界を周り、何か良い方法を見つけてみせる、必ず……!」
耐えきれず肩を震わせ嗚咽する。こんなことを私はどれくらい続けていたのだろうか。
「責任があるんじゃ、私には。親友を一人っきりで苦しませた責任が」
夏南汰様、と柔らかい響きで呼ばれるまで。椅子から降りた彼女が私と同じ場所にて留まるまで。
「そちらへ行っても?」
力なく項垂れる夏南汰の頰に、彼女は母の如く優しい動きの指先で触れる。
母の、ような。
「なつ、こ」
ゆっくり顔を上げた夏南汰はすぐに恐れを感じた。すっかり慣れていたはずの彼女から放たれるいつもと違う視線に慄いた。
「夏南汰様、私……私、本当は……」
「なんじゃ?」
「い、いえ」
聞き取りづらくて顔を寄せると、彼女は頰を染めてうつむいた。それからちらりとこちらを伺う。潤んだ熱っぽい瞳で。
いつになく女性らしく見える。母のようだけど全く同じではない。震えるこの胸の奥から手が伸びるような、初めての感覚。
襟足を撫でられる度に身体が熱くなっていく。
「もし、良ければ、今夜は私を頼って下さい。貴方様が壊れてしまいます」
「い、いけん、そがぁなこと、君が傷付いてしまう」
「……いいのです。そうしていらっしゃる方が夏呼は苦しいです」
そっと頭ごと抱きかかえられると彼女のぬくもりと柔らかさに包まれる。傷だらけの喉から絞り出したかのような切ない音色がこの身に降り注ぐ。
「夏南汰様の痛みを私に下さい」
ある種の安堵を覚えた夏南汰は彼女の胸元で大きく肩を震わせた。彼女はこんなに苦しそうなのになんてことだ。
駄目だ、駄目だ。今の私は弱すぎる。きっと何処までも甘えてしまう。
主人になら差し出せるとでも言うのか、夏呼。想う相手が他にいるはずなのに。
私を抱き抱えて離そうとしない彼女の真の思惑もわからないまま、胸の内で葛藤を続けていたのだけど。
「夏呼……私……っ」
そこからはまるで茹でた卵の殻を剥くみたいに、理性を優しく崩されていった。
翌朝、半開きのカーテンから東雲が垣間見える頃。
私は思い出していた。
本当は今年の夏からずっと心細かったことを。
ユキの気持ちがわからず、夏呼にも触れられない。かつては人肌が無ければ眠れないくらいの依存体質だった。それで限界を迎えていたのは自分の方だったことを。
乱れたシーツの上で私たちは手を重ね合わせる。
意識はぼんやりしていたけど、何か一つ、超えてしまったのだとわかった。




