二. 現状打破
やはりとは思ったが、また何事も無かったかのような日常が戻ってきた。夏呼のことを改めて凄いと思った。ごく自然に振る舞い、私の動揺すら落ち着かせてしまったのだから。
彼女と共に過ごしていても次第に違和感を感じなくなっていった。つまりは夏呼のさりげない気遣いのおかげで、以前とほぼ変わらぬ関係を保てているのだ。
あれから数日が経った同月下旬の朝。
呼び鈴の音に夏呼が玄関へと小走りで向かっていく。日雇いのメイドたちまでもが背筋を伸ばすしゃんと張り詰めた空気の中で、さほど緊張感を持たぬのはどうやら私くらいのようだ。
「まぁ、楽にしろって、ユキ」
「で、でも……」
いつもより二段階くらい気合いの入った背広に身を包みながら、もはや台無しというくらい狭く狭く肩を縮こまらせている。ユキは先程からずっとこの有様だ。
やがて私たちの居る応接間に通された客人たちが、談笑など交わしながらみるみるテーブルの隙間を埋めていく。
私は客人たちと同じ側の席に腰を下ろした。皆が静まったところで順番に紹介を始めた。
「まずこちらが柏原 迅さん。元は父の取引先の方で、私も幼少の頃から随分とお世話になった祖父のような人だ」
「めっそうもございません、坊ちゃん。何なら“じいや”と呼んで下さっても?」
「お茶目であろう? いつもこのような調子なのだが、四十年間航海を続けてきた大先輩なのだよ。今回は航海士を務めて頂く」
「おぉ……未だに信じられぬ! 我が目に幾つ入れても痛くない夏南汰坊ちゃんをお連れできるとは、この柏原、生涯の名誉に感じますぞ!!」
「私は一人しか居ないよ、迅さん」
はは、と呑気に笑い合っているように見えるであろう私たちだが、なに、案ずることはない。
還暦間近とは思えぬ程の引き締まった大きな身体、白髪のオールバックが似合う凛々しい顔立ち。豪快かつ聡明な迅さんの佇まいは私の紹介以上の説得力を持つと、夏呼もユキも今にわかってくれることだろう。
そして向かいの二人の視線は慎重にこちらを伺いつつもせわしなく斜めを行ったりきたりしている。無理もなかろうと納得の笑みで頷いた夏南汰は
「気になって仕方がないようだな?」
自身の隣、もう片方の人物の前へと手をかざす。
「この美しい方は」
「磐座命だ! 宜しくな!!」
こうもあっさりと手間を省かれてしまうとは。思わず苦笑する夏南汰の目前で、え、と短く漏らしたユキもまぁるく目を見張って。
「磐座さん……って」
うむ。そうなるであろうな。そして今度こそ私の出番なのであろう。
「そう、ユキも知っている磐座樹さん。この命さんは彼女のお姉さんにあたる方だ」
いや、正確には……と、続きを切り出そうとしていたときだ。
「へぇ~、かぁわいいねぇ。見れば見るほど愛くるしいよ。こんな美少女に身の回りの世話をしてもらってるとは、夏南汰はほんっといい身分だわ」
夏南汰の隣で顎に手を添えた彼女は、長く長く、何処か湿ったような熱っぽいため息を零している。見つめる先は向かい側。
先程から夏呼が愛想笑いさえ忘れ、石像の如く硬直していたのはこの為か。
「夏呼、恐れることは無い。彼女はな」
いや、これを言ったらもっと恐れるか? 出来るだけ言葉を選ばねば、と思考していたところだったのだが。
「はは、ごめんごめん。怖がらせちゃったね、お嬢ちゃん。なぁ、夏南汰。そろそろ言葉を崩してもいいか?」
と、元より砕けた口調の命が言う。どうやらまたしても手間を省いてくれるつもりらしい。そして特に言葉を選ぶつもりもないのだろうと察した夏南汰が笑顔で頷いた。それが合図だった。
――私は……いや、
「俺は」
『!?』
「紛れもない日本男児さ。これでも、中身はね」
きりりと纏めた漆黒の髪。化粧など無くとも十分に映える程の美貌を携えた彼女の不敵な笑みと衝撃の一言に、慣れた空間に慣れた二つの息遣い、全てが時を止めたのは言うまでもないだろう。
テーブル越しのこの状態では伺い知ることの出来ないはずだが、ユキの視線は命さんを足元まで追いかけているように見える。男性仕様の着物の理由に合点がいったというところか。
どうやら自由な妹に感化されたらしい。幼少の頃に見た彼女と今の彼女……いや、“彼”とではよもや別人ではないかというくらいに大きな差があるのだ。
先日久しぶりに顔を合わせてわずか数分後のことだ。
姉妹のうちの誰よりも早くに嫁いだはずの彼は、結局子をもうけることもなく離縁を果たしたのだと言う。その原因となったのがこれという訳だ。
――たった一度きりの人生、俺は俺らしく生きる――
――自らの名に恥じぬよう……!――
確かな芯を感じさせる強い眼差しで宣言した彼の姿は、私が今まで目にしてきた磐座命の姿、そのどれをも遥かに上回る究極の美貌であったのだ。




