其ノ壱〜王子様と恋敵〜
孤児院の年長者たちに手を引かれ、命かながら津波と瓦礫の脅威から逃げた幼少期。私を虐めた子たちも、守ってくれたお姉さんたちも、何人かが命を落とすことになりました。更には密やかなる住処まで滅茶苦茶に。生き残った私たちは多くのものを失ったのです。
この惨たらしい災害は後に『関東大震災』と呼ばれることになりました。
色素の薄い髪色に緑がかった青の目。私の姿は、誰が見ても異人の血を引いているとすぐにわかるそうです。
そんな私へ周囲からの風当たりは一層冷たくなるだろうと懸念されました。住居を失い、家族を失い、神経が逆立っている人ばかり。荒んだ今の世では、下手をすると命さえ危ないからと、新しく建設する予定の修道院へ入り、出来るだけ身を隠して生活するよう孤児院の先生に勧められました。
厳かに佇む慰霊碑、そして未だ震災の爪痕を残したこの横浜の地へ、戻ってくるまである程度の時間を要しました。
それから更に数年を経た昭和三年。新たな始まりは同年の冬の出来事です。
最低限の灯りのみで成り立った礼拝堂の後方から柔らかく差し込む光に振り向いた私は、一面の雪景色以上に目に染みてくる、とても煌びやかな姿を前にしたのです。
大きく澄んだ瞳が特徴の端正な顔立ち、一つに束ねた濡羽色の髪、繊細かつ小柄な体型。声を聞くまでは性別がどちらかもわかりませんでした。だけどどちらであったにしても、心惹かれるのは免れなかったと思うのです。
私は修道女。王子様の訪れを期待するなど、とうにやめていたはずだったのに。
思えばこのときにはすでに何もかも奪われていたのです。修道服を脱ぎ捨て、彼の細い腕に力強く包まれるまでいくらも日数を要しませんでした。
複雑に歪んだ院長の顔が未だこの目に焼き付いております。厳しい姿勢で反対なされたのは、きっと私の恋心に気付いてのことだったのでしょう。
心の痛みを振り払うなど無理なことです。神に支えると誓った立場でありながら現実の男性を選び、育ててもらった恩を踏みにじって院長たちに背を向けた私は、この生涯を全うしてなお主に顔向けなど出来ないでしょう。
それでも私は前を見つめることをやめない。いえ、やめられはしないのです。罪は消えなくとも、ふしだらと呼ばれようとも、後ろばかり向いてはいられない。
守るべき存在が定まったのです。
今では私の主であるその人の名は『秋瀬夏南汰』といいます。美しくて時々可愛らしい。
だけどやはり男の人なのだわ。そう感じたあの夜も、彼は私に言いました。
“えーがの!”
“どちらだってえーがの”
逞しい力で私を引き寄せながら少女のような少年のような笑みをして、主従関係とか恋人とか何らかの形にこじつけようとする私の心を見透かすみたいに度々言ったのです。お互いを大切に思う気持ちがあればそれでいいと。
決して投げやりな意味ではないと私はすぐに知ることができました。
常に新しいものを求めている彼の背中を見つめる度、それこそ始めは恐怖心に駆られたりなどもしました。
新しいとはすなわち、この先幾度も幾度も生まれゆく存在。対して“乙女”などと称される花の命なんて儚いもの。私はいずれ老いていくのです。
それでも妾の一人も連れずに帰ってきて下さる彼は、独りの夜に冷えきった私の身体をその夏の名に相応しき温かさで満たしては“えーがの”と囁くのです。
“周りがどう言おうと私は君が愛おしい。共に在る理由などそれでいいではないか。のう、夏呼? また私の居場所になっておくれ”
さりげなくご自分の願いまで口にしていらっしゃる。計算なんかではないのであろう、こんなあざとささえ私は愛おしく感じました。
なのに人間というのは実に欲深いもので。
「それでも越えられないのですね……夏南汰様」
寝返りをうった彼の背中に額を寄せ、声を殺して泣いたりもしました。
寝床を共にしているだなんてもしも打ち明けたなら、きっと誰もがその先を想像してくれるのでしょう。それはまさに私の願望。ええ、恥ずかしながらも、そうであったらいいのに……と思います。
だけど実際は本当にここまでなのです。親愛の意味を込めた抱擁と頰へ軽やかな接吻を落とすくらいです。それ以上先へ進んだことはまだありません。
大人ならば誰しも容易に思い浮かべられる大人の情事。私たちには程遠いです。身体の距離は近くとも、実際は周囲が思うよりずっとずっとあどけない、寂しさに泣き濡れた子ども同士の戯れのようなのでございます。
夏南汰様は次の旅で南の大陸の奥地に行き、この国には無い昆虫の記録をとり、その次では反して北の大陸にて“オーロラ”なるものを写真におさめてくるとおっしゃっていました。
これ程傍に居ても私の想いは叶わない。そんな貴方様の向かう先は回を追う毎に遥か遠く、彼方まで。
恋人だなんて呼んでもらえなくてもいい。
ただお側に居たい。誰よりも彼の近くに……
きっと私には焦りがあったのです。だからこそついに訪れてしまったあの再会にもここまで心が掻き乱されてしまったのでしょう。
声を荒立てたり噛み付くようなはしたないことは抑えて参りました。夏南汰様が望んでいらっしゃる淑女の振る舞いを守ってみせる為に、私は。
我が恋敵……春日雪之丞!
同じ相手に惹かれていることくらい、その惚けたお顔を見ればわかるのですよ。
そう、貴方が間違いなく私の恋敵であるという確たる証拠を捉えて叩きつけるべく。壁に耳を、障子……などこの屋敷にはございませんが、扉の隙間から、目を!
震える身体にしばし待てと言い聞かせつつ、危うげな二匹の魚の戯れる様を限界まで見届け続けたのでございます。
昭和五年七月八日
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薄暗い自室の天井へとこぼしたため息が登って溶けていく。懐かしい記述は今や記憶の中でのみ。この場では形にすらならないことを幸いとさえ感じています。
「冒険記?」
(往生際の悪い女の戯言じゃない、こんなの……)
羞恥と自嘲がいっしょくたになって込み上げる。この原文のまま世に送り出さなくて本当に良かったと改めて感じて、小さな呻きを漏らしている、今。
トントン、という二回の音に振り向いた。ドアを開いてみるとこれはまた珍しい訪ね人だとわかって、私は目を見張りました。
ちょっといいか、とその人は言う。鋭くも何処か虚ろな目つきを捉えるなり、ある程度を察してしまいました。
「“昔の男”のことなんだけどよ」
切り出された意味深な言葉にやはり、と頷く。これは自身の胸さえ深く抉る、逃げ場の無い一夜となることでしょう。




