第8話 月下の姫君の住む家
体育祭の翌朝、俺はちょっとした有名人になっていた。
いや、「ちょっとした」では済まなかった。
「涼木くん! 陸上部に入らない!?」
「君のあのリレーの走り、見たよ! ぜひ、うちで全国を目指そう!」
「サッカー部も歓迎するぞ! あのスピードなら、即レギュラーだ!」
昇降口で上履きに履き替えた瞬間、三つの運動部の部長に取り囲まれた。
陸上部の部長にいたっては、入部届と、なぜか高級そうなスポーツドリンクの箱まで抱えていた。
「……すみません、帰宅部なんで」
「そこを何とか!」
「火事場の馬鹿力だったんです。もう二度と出ません」
「そんなはずはない! あの最後の直線の加速は、才能だ!」
才能どころか、あれでもかなり手加減していたとは言えない。
俺は曖昧に笑いながら、三人の部長の隙間をすり抜けて、逃げるように教室へ向かった。
……もちろん、普通の速度で。
これ以上、目立つわけにはいかなかった。
「よう、ヒーロー」
教室に入るなり、田淵が手を挙げた。
いつもの、にやにや笑いではなかった。
「……昨日は、ありがとな」
「何が」
「美羽のことだよ」
田淵は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「入場門が倒れたとき、俺、応援席から見てたんだ。美羽があそこにいるのに気づいて、でも、足が動かなくて。……ああ、もう駄目だって思った」
「……」
「そしたら、次の瞬間には、美羽が母さんの腕の中にいた。何が起きたのか、今でも分かんねえ」
田淵は、ふっと笑った。
「でさ、美羽が昨日の夜からずっと言ってんだよ。『ヒーローのお兄ちゃんが助けてくれた』って。金色の風になって、びゅーって来てくれたんだって」
心臓が、どきりと跳ねた。
「……子どもの言うことだろ」
「だよな。俺もそう言ったんだけど、美羽、聞かなくてさ。今朝も『ヒーローのお兄ちゃんにお礼言っといて』って、何度も念押しされた」
田淵は、俺の目をまっすぐに見た。
「だから、お礼。美羽の代わりに」
「俺は何もしてない」
「分かってる。でも、言わせてくれよ。美羽が、そう言ってるんだからさ」
田淵は、それ以上何も訊かなかった。
ただ、いつもの調子に戻って、「さて、今日の賭けの配当はどうなるかな」とスマホを取り出した。
たぶん、こいつなりに気を遣ってくれたのだと思う。
いいやつだ。賭けさえしなければ。
予鈴が鳴る少し前、秋穂が教室に入ってきた。
その半歩後ろには、いつものように凛がいる。
秋穂は、まっすぐに俺の机の前まで来ると、優雅に一礼した。
「おはようございます、颯騨様」
「……おはようございます」
「本日も、お願いに参りました。わたくしを、助けてくださいませんか?」
四日前から、毎朝繰り返されてきたやり取り。
クラスメートたちが、ちらちらとこちらを見ている。田淵が、スマホを構えて固唾を呑んでいる。賭けの結果が気になるのだろう。
昨日の夕焼けの中庭で、俺は答えを出せなかった。
でも、「無理です」という言葉は、やっぱり喉の奥から出てこなかった。
「……紫条通さん」
「はい」
「まだ、はっきり『はい』とは言えません」
秋穂の目が、わずかに揺れた。
「でも、話は聞かせてください。ちゃんと、最初から全部」
俺は、秋穂の目を見て言った。
「俺にできることがあるのかどうか、それを聞いてから考えさせてほしいんです」
一瞬の沈黙。
それから、秋穂の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
いつもの浮世離れした微笑みではなかった。心の底から安堵したような、柔らかい笑顔だった。
「……はい。喜んで」
秋穂の後ろで、凛が小さく息を吐くのが聞こえた。
「では、本日の放課後、わたくしの家へいらしてくださいませ」
「……家?」
「はい。学校では、お話しできないこともありますので」
教室が、どよめいた。
「家!? 紫条通さんの家!?」
「涼木、華族の家に招かれてんぞ!」
「うそ、もうそこまで!?」
「これ、賭けはどうなるんだ!? 『はい』とは言ってないけど、家には行くんだよな!?」
田淵が、頭を抱えていた。
どうやら、賭けの判定が難しくなったらしい。ざまあみろ。
放課後。
秋穂と凛に連れられて向かったのは、学校から歩いて十五分ほどの、古い住宅街だった。
てっきり、黒塗りの高級車で豪邸に連れていかれるのかと思っていたから、少し拍子抜けした。
「紫条通家のお屋敷って、この辺なんですか?」
「いいえ。本邸は、都心のほうにございます」
秋穂は、少しだけ目を伏せた。
「今、わたくしが住んでいるのは、紫条通家の別邸です。祖母が晩年を過ごした家で、長らく空き家になっておりました」
「……どうして、本邸じゃないんですか」
「あのようなことがありましたから」
秋穂は、穏やかに言った。
「本邸には、毎日のように記者の方がいらっしゃいます。親族の方々のお目もございます。わたくしがいると、父や家の者たちに迷惑がかかってしまうのです。ですから、中平高校への転入を機に、こちらへ移りました」
それは、つまり。
家から、追い出されたということではないのか。
俺がそう口にするより先に、凛が低い声で言った。
「お嬢様は、ご自分からそうおっしゃいました。旦那様は、最後までお止めになりました」
「凛」
「事実です、お嬢様。涼木様には、正しくお伝えすべきです」
凛は、前を向いたまま、きっぱりと言った。
秋穂は、困ったように微笑んで、それ以上は何も言わなかった。
別邸は、住宅街の一番奥にあった。
古い木の門をくぐると、苔むした石畳の小道が続いていた。その先に、瓦屋根の平屋の日本家屋が、ひっそりと佇んでいる。
庭には、手入れの行き届いた松と、色づきはじめた紅葉の木。小さな池では、鯉がゆったりと泳いでいた。
都心の豪邸に比べれば、きっと小さいのだろう。
でも、俺の家が丸ごと三つくらい入りそうな広さだった。
「……これが、別邸」
「はい。こぢんまりとした家で、お恥ずかしいのですが」
「こぢんまり……」
華族の「こぢんまり」の基準が、よく分からなかった。
「どうぞ、お上がりくださいませ」
玄関の引き戸を、凛が開けた。
磨き上げられた上がり框。ほのかに漂う、線香と畳の匂い。
俺は、靴を脱いで上がろうとして、そこで凛に呼び止められた。
「涼木様」
「はい」
「靴は、揃えて、爪先を外側へ向けてお置きください」
「あ、はい」
慌てて靴の向きを直す。
「それと、上がるときは、正面を向いたまま上がり、それから体を斜めにして膝をつき、靴を揃えるのが正しい作法です。背を向けて上がるのは、家の方に対して失礼にあたります」
「……今、完全に背を向けて上がりましたけど」
「はい。見ておりました」
「やり直したほうがいいですか」
「……今日のところは、見逃します」
凛は、ため息をついた。
秋穂は、くすくすと笑っていた。
「凛、颯騨様はお客様ですよ」
「お客様だからこそです、お嬢様。お嬢様のお客様が無作法では、紫条通家の品位に関わります」
そうか、俺は紫条通家の品位を下げているのか。
なんだか、申し訳ない気持ちになってきた。
通されたのは、庭に面した八畳の和室だった。
床の間には、山水の掛け軸と、一輪挿しの白い花。障子越しに差し込む西日が、畳の上に柔らかな影を落としている。
静かだった。住宅街の真ん中にいるはずなのに、車の音ひとつ聞こえない。
俺は、座布団の上に正座した。
……三十秒で、足が痺れはじめた。
「颯騨様、どうぞ足をお崩しくださいませ」
「いや、大丈夫です」
「大丈夫ではないお顔をなさっています」
「……すみません、崩します」
あぐらをかくと、凛がちらりとこちらを見たが、何も言わなかった。
どうやら、これも見逃してくれたらしい。
凛が、お茶と和菓子を運んできた。
学校の茶会のような抹茶ではなく、香ばしいほうじ茶だった。和菓子は、栗の形をした可愛らしい練り切り。
「……美味しいです」
「ありがとうございます。栗は、この庭の木で採れたものです」
「え、この練り切り、楯岡さんが作ったんですか」
「士族の嗜みです」
士族の嗜みの範囲が広すぎる。
秋穂は、湯呑みを両手で包み込むように持って、一口お茶を飲んだ。
それから、静かに湯呑みを置くと、背筋を伸ばした。
その瞬間、部屋の空気が変わった。
初めて中庭で話をしたときと同じだ。世間知らずのお嬢様から、神聖な何かへ。
「颯騨様。まずは、お見せしたいものがございます」
「見せたいもの?」
「こちらへ」
秋穂は立ち上がると、和室の奥の襖を開けた。
その先は、小さな板の間になっていた。
正面には、白木の祭壇。榊と、白い紙垂を下げた注連縄。小さな鏡と、鈴。
空気が、ひんやりと澄んでいた。
「……神棚、ですか?」
「祭壇です。紫条通家の巫女が、日々の祈りを捧げる場所です」
秋穂は、祭壇の前に正座すると、深々と二礼し、二度柏手を打ち、もう一度礼をした。
その所作は、流れるように美しかった。教室で自販機にお辞儀していた人と、同じ人だとは思えないほどに。
「紫条通家は、古くから、国の祭祀の一部を司ってまいりました」
秋穂は、祭壇を見つめたまま語りはじめた。
「代々、紫条通家に生まれた娘の中から、巫女の資質を持つ者が選ばれ、国の安寧を祈る祭祀に奉仕します。その祭祀の次第、つまり、いつ、どこで、どのような手順で祈りを捧げるのかを記したものが、祭祀文書です」
「……それが、国家機密なんですか?」
「はい」
秋穂は、頷いた。
「祭祀文書には、国の重要な儀式の日取りや場所、そして、その儀式に誰が関わるのかが記されています。それが悪意ある者の手に渡れば、儀式を妨げたり、儀式に関わる方々を危険にさらしたりすることもできてしまいます」
なるほど、と思った。
占いや祈りといった話には正直ピンとこなかったが、「重要な儀式の日時と場所と参加者」と言われれば、それが警備上の機密になるのは分かる。
「紫条通家では、祭祀文書の原本を、跡取りとなる娘が管理する習わしがございます。姉の冬芽が嫁いでからは、わたくしが跡取りとなり、原本をお預かりしておりました」
「それで、紫条通さんの部屋に」
「はい。本邸のわたくしの部屋に、桐の箱に収めて保管しておりました。その箱には鍵がかかっていて、鍵を持っているのは、わたくしだけでした」
秋穂は、そこで言葉を切った。
「……それが、ある日、消えてしまったのです」
和室に戻ると、凛が新しいお茶を淹れてくれていた。
秋穂は、湯呑みを手に取ったが、口をつけずにじっと見つめていた。
凛が、代わりに話を引き継いだ。
「事件が起きたのは、今年の八月の終わりでした」
凛の声は、硬かった。
「その一週間ほど前から、私は、お嬢様のお側を離れておりました」
「……離れてた?」
「冬芽様、つまりお嬢様の姉君のお屋敷で、大きな園遊会が催されることになり、その手伝いに行くよう命じられたのです」
凛は、膝の上で拳を握りしめた。
「本来、私はお嬢様付きの侍女です。お嬢様のお側を離れることなど、あってはならない。ですが、そのときは、旦那様からの直々のご命令でした」
「……なんで、旦那様、つまり紫条通さんのお父さんは、そんな命令を?」
「春花様が、進言なさったのです」
凛の声が、一段低くなった。
「『冬芽お姉様の園遊会には、華族の皆様が大勢いらっしゃる。紫条通家の恥にならないよう、一番優秀な侍女を送るべきです』と。そして、その『一番優秀な侍女』として、私の名を挙げられた」
「……」
「旦那様は、春花様のお言葉をもっともだと思われたのでしょう。お嬢様も、『冬芽お姉様のためなら』とお許しになりました。……私も、断れませんでした」
凛は、唇を噛んだ。
「その一週間の間に、祭祀文書は、お嬢様のお部屋から消えました」
和室が、しんと静まり返った。
俺は、校門で倒れた男の言葉を思い出していた。
――侍女は、離れてるはずだった。
あのときと、同じだ。
凛を秋穂から引き離し、その隙に何かが起きる。
「紫条通さんの部屋には、鍵がかかってたんですよね。誰が入れたんですか」
「お嬢様のお部屋に自由に出入りできたのは、お嬢様ご自身と、私。そして、お部屋付きの世話係が一人」
凛は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……浮橋志乃という者です」
「浮橋、志乃」
「私と同じ、士族の出です。私より七つ年上で、お嬢様がお小さい頃から、お部屋のお世話をしておりました。優しくて、よく気のつく人で……私も、姉のように慕っておりました」
凛の声が、かすかに震えた。
「私がお嬢様のお側を離れている間、お嬢様のお部屋の管理は、志乃さんに任されていました」
「その人が、文書を?」
「分かりません」
凛は、首を横に振った。
「ですが、祭祀文書が消えたことが分かってから三日後、志乃さんは、『実家の母が倒れたので』と言って、紫条通家に暇を願い出ました。そして、それきり、行方が分からなくなったのです」
「……実家は」
「調べました。ですが、志乃さんのお母様は、倒れてなどおられませんでした。志乃さんが実家に戻った形跡も、ございませんでした」
凛は、膝の上の拳を、さらに強く握りしめた。
白くなった指の関節が、小刻みに震えていた。
「私が、お側を離れなければ。私がいれば、こんなことには……」
「凛」
秋穂が、凛の拳に、そっと手を重ねた。
「凛のせいではありません。何度も、そう言ったでしょう?」
「ですが、お嬢様……!」
「凛は、わたくしの言いつけで冬芽お姉様のところへ行ったのです。凛が責められるのなら、それはわたくしが責められるべきことです」
「お嬢様は、何も悪くありません!」
凛が、声を荒らげた。
初めて聞く、凛の悲鳴のような声だった。
「お嬢様は、何ひとつ悪くない! なのに、どうして、お嬢様ばかりが……!」
凛の目から、涙がこぼれ落ちた。
秋穂は、何も言わずに、凛を抱きしめた。
凛は、秋穂の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
俺は、湯呑みを握ったまま、ただその光景を見ていた。
いつも気丈で、鋭くて、俺に食ってかかってくる凛。
その凛が、ずっと一人でこれを抱えていたのだ。
自分が側を離れたせいで、主が汚名を着せられた。
姉のように慕っていた人が、姿を消した。
どれだけ、自分を責めてきたのだろう。
しばらくして、凛は顔を上げた。
目元は赤く腫れていたが、表情はいつもの凛に戻っていた。
「……お見苦しいところを、お見せしました」
「いや、そんなこと」
「忘れなさい」
「……はい」
凛は、ぷいと顔を背けると、空になった湯呑みを持って台所へ下がっていった。
その背中が、少しだけ小さく見えた。
秋穂は、凛が出ていった襖を見つめていた。
「凛は、ずっと自分を責めているのです」
秋穂は、静かに言った。
「わたくしが婚約を解かれたときも、高峯学園を去るときも、凛は一度も泣きませんでした。わたくしの前では、いつも強くあろうとしてくれました。……今日、初めて泣きました」
「……」
「きっと、颯騨様がいてくださったからです」
秋穂は、俺のほうを向いて、微笑んだ。
「凛は、颯騨様のことを、信じはじめているのだと思います」
俺は、何と答えていいか分からなかった。
障子の向こうで、日が傾きかけていた。
庭の紅葉が、西日を受けて、燃えるように赤く輝いていた。
「……紫条通さん」
「はい」
「一つ、訊いてもいいですか」
「何なりと」
「さっきの話。楯岡さんを遠ざけるように言ったのは、妹さん……春花さんなんですよね」
秋穂の表情が、わずかに翳った。
「週刊誌にも、元婚約者の次の相手が妹さんだって書いてありました。それに、校門の件でも、誰かが紫条通家の人間を装って楯岡さんを呼び出した」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「紫条通さんは、春花さんのこと、どう思ってるんですか」
長い、沈黙があった。
秋穂は、膝の上で両手を重ねた。
コンビニで週刊誌を見たときと、同じ仕草だった。
「……春花は」
秋穂は、ゆっくりと口を開いた。
「わたくしの、可愛い妹です」
その声は、震えてはいなかった。
でも、ひどく、か細かった。
「小さい頃は、いつもわたくしの後をついてきました。『お姉様、お姉様』と。わたくしが巫女の修行で辛いときも、春花だけは、そっと手を握ってくれました」
「……」
「わたくしは、春花を疑いたくないのです」
秋穂は、まっすぐに俺を見た。
その瞳は、潤んでいなかった。ただ、深い、底の見えない色をしていた。
「颯騨様。わたくしは、巫女です。人より少しだけ、見えないものを感じ取ることができます。……ですが、それでも、分からないことがあるのです」
「分からないこと?」
「身内のことは、視えないのです」
秋穂は、自嘲するように、小さく笑った。
「巫女の力は、心が近すぎる相手には、うまく働きません。父のことも、姉のことも、春花のことも、わたくしには視えない。……だからこそ、自分の目で確かめたいのです。春花が、本当に」
秋穂は、そこで言葉を切った。
その先を、口にすることができないようだった。
俺は、何も言えなかった。
可愛い妹を、疑いたくない。
でも、状況は、どう考えても妹を指し示している。
その板挟みの中で、この人はずっと、一人で微笑んできたのだ。
そのとき、玄関のほうで、引き戸が開く音がした。
「お嬢様」
凛が、廊下から顔を出した。
その手には、一通の封書が握られていた。厚手の和紙に、紫色の紐がかけられている。
「本邸から、使いの者が参りました。旦那様からの書状です」
「父から?」
秋穂は、封書を受け取った。
紫の紐を解き、中の書状を広げる。
その目が、文字を追うにつれて、わずかに見開かれていった。
「……お嬢様?」
凛が、不安そうに声をかけた。
秋穂は、しばらく黙って書状を見つめていた。
それから、静かに顔を上げた。
「親族会議が、開かれるそうです」
「親族会議……?」
「はい。紫条通家の跡取りを、わたくしから、春花に改めることについて」
凛が、息を呑んだ。
「そんな……旦那様は、お嬢様の潔白を信じておられるはずでは」
「父は、信じてくれています。書状にも、そう書いてあります」
秋穂は、書状に目を落とした。
「ですが、親族の方々が、それをお許しにならないのでしょう。国家機密漏洩の疑いをかけられた者を、祭祀を司る家の跡取りにしておくわけにはいかない、と」
秋穂の声は、落ち着いていた。
まるで、とうに覚悟していたことのように。
「親族会議は、年の瀬です。それまでに、わたくしの潔白が証明されなければ、紫条通家の跡取りは、正式に春花となります」
年の瀬。
今は、九月の終わり。残された時間は、およそ三か月。
「それと……」
秋穂は、書状の最後の一行を、指でなぞった。
「春花の婿には、稔彦様をお迎えする心づもりである、と」
和室が、凍りついたように静まり返った。
凛の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
俺も、言葉を失っていた。
婚約を破棄した男が、妹と結ばれ、紫条通家の婿になる。
秋穂が失ったものを、何もかも、そのまま手に入れる。
それは、あまりにも。
あまりにも、出来すぎた筋書きだった。
秋穂は、書状を丁寧に畳み直すと、紫の紐を結び、膝の上に置いた。
その手は、もう震えていなかった。
「颯騨様」
秋穂は、俺のほうを向いた。
西日を背にしたその顔は、逆光で、表情がよく見えなかった。
「わたくしの話は、まだ、半分ほどしかお話しできておりません」
「……はい」
「残りのお話を、聞いていただけますか」
障子の向こうで、日が沈もうとしていた。
燃えるような紅葉の赤が、少しずつ、夜の色に溶けていく。
俺は、湯呑みに残っていたほうじ茶を、一息に飲み干した。
すっかり冷めていたけれど、不思議と、苦くはなかった。
「――聞かせてください。最後まで」




