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第7話 金色の風が吹いた日(後編)

 号砲が鳴った。


 第一走者の佐々木さんは、好スタートを切った。

 六クラス中、二位でバトンを渡す。第二走者の三浦は、さすが陸上部の短距離選手だ。ぐんぐんと加速し、トップに躍り出た。


「いいぞ、三浦ー!」

「そのまま行けー!」


 応援席から、割れんばかりの声援が飛ぶ。


 トップのまま、三浦は第三走者の宇佐美にバトンを渡そうとした。

 宇佐美が、走り出しながら後ろ手を伸ばす。


 そのときだった。


 強い風が、グラウンドを吹き抜けた。

 舞い上がった砂埃が、宇佐美の顔を直撃する。


「っ……!」


 宇佐美が、思わず目を閉じた。

 その一瞬の間に、バトンが指先から滑り落ちた。


 からん、と乾いた音が響いた。


 宇佐美は、慌ててバトンを拾おうとして、足をもつれさせた。

 体勢を崩し、そのまま地面に倒れ込む。


「宇佐美!」


 応援席が、悲鳴に包まれた。

 その横を、他のクラスの選手たちが次々と駆け抜けていく。

 一人、二人、三人、四人、五人。

 宇佐美は、倒れたまま動かなかった。

 いや、動こうとしていた。膝から血を流し、右の足首を押さえながら、それでも必死に立ち上がろうとしていた。


「宇佐美、無理すんな!」

「先生、宇佐美が!」


 体育教師が駆け寄ろうとしたが、宇佐美は首を横に振った。

 そして、バトンを拾い上げると、足を引きずりながら走り出した。

 ひどく、遅かった。

 右足を地面につくたびに、顔が苦痛に歪む。それでも、宇佐美は止まらなかった。唇を噛みしめ、目に涙を浮かべながら、一歩ずつ前へ進んでいく。

 最下位だった。

 トップとの差は、もう半周近く開いていた。

 応援席は、静まり返っていた。

 誰も、何も言えなかった。

 宇佐美は、ようやく第四走者の岡野にバトンを渡した。

 その瞬間、膝から崩れ落ちるように座り込んだ。


「……ごめん……ごめん、みんな……」


 宇佐美の声が、かすかに聞こえた。

 泣いていた。あの気の強い宇佐美が、声を上げて泣いていた。

 岡野が、必死に走る。

 だが、開いた差は簡単には縮まらない。最下位のまま、凛にバトンが渡った。

 凛が、走り出した。

 速い。

 五十メートル走のときより、さらに速い。まるで、怒りをそのまま推進力に変えたかのような、凄まじい走りだった。前を行く選手を一人、また一人と抜いていく。

 それでも、トップとの差は、まだ三十メートル以上あった。

 凛が、俺の待つテイクオーバーゾーンへと迫ってくる。

 その顔は、汗と砂埃にまみれていた。

 俺は、後ろ手を伸ばした。

 凛が、バトンを俺の手に叩きつけるように渡した。

 その瞬間、凛の唇が動いた。


「――頼みます」


 命令ではなかった。挑戦でもなかった。

 初めて聞く、凛の「お願い」だった。

 俺は、バトンを握りしめて、走り出した。



 その瞬間。

 ごう、と、これまでで一番強い風が吹いた。

 視界の端で、何かが傾いた。

 入場門だった。

 ベニヤ板の巨大な看板が、突風をまともに受けて、大きく揺らいでいた。脚の部分の土嚢がずるりとずれ、鉄パイプが悲鳴のような音を立てて軋む。

 そして、ゆっくりと、保護者席のほうへ倒れはじめた。


 倒れていく先に、小さな人影があった。


 ツインテールの、小さな女の子。

 田淵の妹の、美羽ちゃんだった。

 リレーをもっと近くで見ようとしたのだろう。保護者席のシートから抜け出して、入場門のすぐ脇まで来てしまっていた。

 美羽ちゃんは、頭上に迫る巨大な影に気づいて、その場で立ちすくんでいた。

 誰かが、悲鳴を上げかけていた。

 田淵のお母さんが、シートから立ち上がろうとしていた。田淵が、応援席から身を乗り出そうとしていた。

 全部、遅い。

 間に合わない。


 ――俺以外は。


 思考より先に、体が動いていた。

 踏み込んだ。

 音が、消えた。

 世界が、止まった。

 グラウンドに舞う砂埃の一粒一粒が、空中に静止して見える。はためく万国旗が、布の皺ひとつまで凍りついている。倒れかけた入場門が、斜めに傾いたまま、まるで絵画のように空中に貼りついていた。

 リレーのトラックから、入場門までは、およそ八十メートル。

 普段の俺なら、それでも余裕だった。

 だが、今は違う。

 全校生徒と、何百人もの保護者が見ている。これだけの人の目の前で全力を出せば、今度こそ誤魔化しようがない。


 ――知ったことか。


 目の前で、小さな子どもが潰されそうになっているんだ。

 秘密だの、平凡だの、そんなものを天秤にかける余地なんて、最初からなかった。

 俺は、全力で走った。

 ここ何年も出したことのない、本当の全力だった。

 体が、風になった。

 いや、風よりも速かった。地面を蹴るたびに、世界がさらに遅くなっていく。止まっていたはずの砂埃が、俺の後ろで渦を巻いて弾け飛んでいくのが見えた。

 一瞬で、美羽ちゃんの前に立っていた。

 頭上には、傾いた入場門。鉄パイプとベニヤ板の塊が、美羽ちゃんの頭上、ほんの二メートルのところまで迫っていた。

 俺は、美羽ちゃんを片腕で抱き上げた。

 そっと、壊れ物を扱うように。この速度で乱暴に扱えば、それだけで怪我をさせてしまう。

 それから、倒れてくる入場門の鉄パイプを、もう片方の手で下から押し上げた。

 止めるのではなく、向きを変える。人のいない、グラウンド側の空いたスペースへと。

 入場門が、ゆっくりと、俺の手の中で進路を変えていく。

 美羽ちゃんを抱えたまま、保護者席のシートまで一足で戻った。

 田淵のお母さんの腕の中に、美羽ちゃんをそっと下ろす。

 そして、トラックへ。

 バトンを握ったまま、さっき走り出したばかりの位置へ。

 全部で、一秒にも満たなかった。

 俺は、速度を落とした。

 世界に、音が戻ってきた。

 ずしん、と地響きがした。

 入場門が、誰もいないグラウンドの芝生の上に倒れ込んでいた。

 ベニヤ板の看板が真っ二つに割れ、鉄パイプが派手な音を立てて転がる。

 一拍遅れて、悲鳴が上がった。


「入場門が!」

「倒れたぞ!」

「誰か、下敷きになってないか!?」


 グラウンド中が、騒然となった。

 教師たちが、慌てて倒れた入場門へと駆け寄っていく。


「美羽! 美羽っ!」


 田淵のお母さんの叫び声が聞こえた。

 それから、すぐに、安堵の混じった泣き声に変わった。


「……あれ? 美羽、あんた、いつの間に……」

「ママ、あのね、いま、金色の風がね、びゅーってね」


 美羽ちゃんは、何が起きたのか分からないという顔で、きょとんとお母さんを見上げていた。

 怪我ひとつなかった。

 応援席から、田淵が転がるように保護者席へ駆け込んでいくのが見えた。

 妹を抱きしめて、何度も何度も頭を撫でている。

 よかった。

 本当に、よかった。

 俺は、止めていた息をようやく吐き出した。

 それから、自分が今、リレーの途中だということを思い出した。



 グラウンドは、まだざわめいていた。

 入場門が倒れた衝撃で、リレーの選手たちも一斉に足を止めていた。

 だが、怪我人がいないと分かると、放送席からアナウンスが流れた。


『……皆様、ご安心ください。入場門の倒壊による怪我人はおりません。リレーは、このまま続行いたします』


 選手たちが、再び走り出す。

 俺は、トラックの上に立ち尽くしたまま、前を見た。

 トップとの差は、三十メートル以上。

 一位のランナーは、すでにコーナーを回り、最後の直線に差しかかろうとしていた。

 ちらりと、第三走者のテイクオーバーゾーンのほうを見た。

 宇佐美が、救護の先生に肩を借りながら、トラックの脇に座り込んでいた。

 足首に氷嚢を当て、泣き腫らした目で、こちらを見ていた。

 凛も、見ていた。

 息を切らしながら、まっすぐに、俺だけを見ていた。

 応援席の秋穂は、「必勝」の扇子を胸に抱きしめて、立ち上がっていた。


 ――信じているだけです。


 ……全力は、出せない。

 さっきの一瞬で、もう十分すぎるほどの危険を冒した。これ以上は、本当に取り返しがつかなくなる。


 でも。


 宇佐美は、足を挫いても走った。

 凛は、俺に「頼みます」と言った。

 だったら、せめて。


 人間が出せる限界ぎりぎりのところまでは、走ってもいいんじゃないか。


 俺は、バトンを握り直した。

 そして、走った。

 五十メートル走のときとは、まるで違う走りだった。

 手加減はしている。それでも、もう「中の上」のふりはしなかった。人間の、それも鍛え抜かれたトップアスリートが出せる、ぎりぎりの速さ。

 前を走る六位の選手を、あっという間に抜き去った。

 応援席が、どよめいた。

 五位。四位。

 一人抜くたびに、どよめきが大きくなっていく。


「涼木、はやっ!」

「うそ、なにあれ!?」

「抜いてる! 抜いてるぞ!」

「行けえええ、涼木ー!」


 三位を抜いた。二位を抜いた。

 最後の直線で、一位の背中が見えた。陸上部のエースだという、三年生の選手だった。

 ゴールまで、あと二十メートル。

 差は、あと三メートル。

 一位の選手が、ちらりと振り返り、目を見開いた。

 必死に腕を振り、最後の力を振り絞って加速する。

 俺は、ほんの少しだけ、足に力を込めた。

 あと一メートル。

 あと五十センチ。

 並んだ。

 ゴールテープが、胸に触れた。

 一瞬の静寂の後。


「――一着、二年三組!」


 グラウンドが、爆発した。



 気がつけば、俺はクラスメートたちに揉みくちゃにされていた。


「涼木ー! お前、マジかよ!」

「どこにそんな力隠してたんだよ!」

「七秒〇って嘘だろ! 絶対嘘だろ!」

「ヒーロー! ヒーロー!」


 背中を叩かれ、頭を撫で回され、誰かに担ぎ上げられそうになった。

 俺は必死に抵抗しながら、「火事場の馬鹿力だ」「たまたまだって」と繰り返したが、誰も聞いていなかった。

 人の輪の隙間から、救護テントの前に座っている宇佐美の姿が見えた。

 宇佐美は、泣いていた。

 さっきとは違う涙だった。顔をくしゃくしゃにして、でも、笑っていた。

 俺は、クラスメートたちの輪を抜け出して、宇佐美のところへ歩いていった。


「……足、大丈夫か」

「……大丈夫なわけないでしょ。めちゃくちゃ痛い」


 宇佐美は、鼻をすすりながら言った。


「捻挫だって。一週間くらい、まともに歩けないって」

「そっか。無理して走るからだろ」

「うるさい」


 宇佐美は、顔を背けた。

 それから、しばらく黙っていた。


「……涼木」

「ん」

「……ありがと」


 小さな声だった。


「私のせいで負けるとこだった。あんたが走ってくれなかったら、私、明日からクラスにいられなかった」

「別に、宇佐美のために走ったわけじゃないよ」

「分かってる。でも、ありがと」


 宇佐美は、顔を背けたまま、ぎゅっと膝を抱えた。


「……それと。紫条通さんに、言っといて」

「何を」

「この前のこと。……言い過ぎた、って」


 宇佐美の耳が、真っ赤になっていた。

「週刊誌で読んだだけで、あんなこと言って。……ごめんって」

「自分で言えばいいのに」

「言えるわけないでしょ! あんなこと言っといて、今さら……」

「言えますよ」


 後ろから、柔らかい声がした。

 振り返ると、秋穂が立っていた。

 その手には、濡らしたタオルが握られていた。


「宇佐美様。お怪我は、大丈夫ですか?」

「し、紫条通さん……」


 宇佐美が、目に見えて狼狽えた。

 秋穂は、宇佐美の前にそっとしゃがみ込むと、濡れたタオルで、宇佐美の膝の擦り傷の周りの砂を、丁寧に拭いはじめた。


「な、なにして……」

「砂が入ったままでは、傷が膿んでしまいます。少し、しみますよ」

「っ……」


 宇佐美は、何か言おうとして、言葉にならずに口をつぐんだ。

 秋穂は、黙々と傷を拭い続けた。


「宇佐美様は、とても勇敢でした」


 秋穂が、ぽつりと言った。


「足を痛めても、最後まで走って、バトンを繋がれました。わたくしには、きっとできません。……とても、格好よかったです」


 宇佐美の目から、また涙がこぼれた。


「……ごめん」


 宇佐美は、ようやく、自分の口でそう言った。


「この前、ひどいこと言って。ごめんなさい」

「はい」


 秋穂は、にっこりと微笑んだ。


「もう、気にしておりません」


 宇佐美は、声を上げて泣き出した。

 秋穂は、その背中を、優しく撫で続けていた。

 俺は、そっとその場を離れた。

 ここから先は、俺がいる場所じゃない。



 体育祭が終わり、グラウンドが夕焼けに染まる頃。

 後片付けを抜け出して、俺は校舎裏の古い中庭のベンチに座っていた。

 秋穂を初めて連れてきた、あの場所だ。

 全身が、だるかった。

 全力で走ったのは、本当に何年ぶりだろう。筋肉がどうこうというより、頭の芯が痺れるような疲労感があった。


「――ここに、いらっしゃいましたか」


 声に振り向くと、凛が立っていた。

 体操服のまま、腕を組んで、じっと俺を見下ろしていた。


「……楯岡さん」

「お嬢様は、宇佐美様を保健室へ送っていかれました。すぐに、こちらへいらっしゃいます」


 凛は、そう言うと、俺の隣に腰を下ろした。

 ベンチの端と端。微妙な距離を空けて。


 しばらく、沈黙が続いた。


「……リレー、お見事でした」


 凛が、先に口を開いた。


「どうも」

「少しは、本気を出しましたね」

「火事場の馬鹿力です」

「嘘です」


 凛は、前を向いたまま言った。


「ですが、今日はそのことを咎めに来たのではありません」

「……じゃあ、何を」

「入場門が倒れたとき、私は、テイクオーバーゾーンのすぐ近くにいました」


 心臓が、どくんと鳴った。


「あなたにバトンを渡した直後でした。私は、あなたの背中を見ていました。……いえ、見ていたはずでした」


 凛の声が、わずかに低くなった。


「瞬きひとつの間でした。あなたの背中が消えて、次の瞬間には、あなたはまた同じ場所に立っていた。その間に、入場門は誰もいない場所に倒れ、門の下にいたはずの小さな女の子は、母親の腕の中にいた」

「……」

「何も、見えませんでした。校門のときと、同じです」


 凛は、ゆっくりと俺のほうを向いた。


「でも、今度は分かりました。あの子を助けたのは、あなたですね」


 俺は、答えなかった。

 否定もしなかった。

 それが、たぶん答えだった。


「あなたは、自分の速さを必死に隠している。五十メートル走でも、リレーでも、ずっと周りの目を気にしていた。それほどまでに、知られたくないことなのでしょう」

「……まあ、いろいろあって」

「それなのに、あなたは迷わなかった」


 凛の声が、わずかに揺れた。


「何百人もの目がある、あの場所で。見知らぬ子どもを救うために、あなたは、あなたが守ってきたものを、ためらいなく投げ出した」

「……見知らぬ子じゃないです。田淵の妹なんで」

「同じことです」


 凛は、ふっと息を吐いた。

 それから、少しだけ、口元を緩めた。


「……少しだけ、分かった気がします」

「何がですか」

「お嬢様が、あなたを信じる理由が」


 凛は立ち上がると、俺の前に立ち、姿勢を正した。

 そして、深々と頭を下げた。


 校門のときと同じ、きっちり九十度の礼だった。

 でも、あのときとは、何かが違っていた。


「涼木颯騨。……いえ、涼木様」

「え」

「今日のあなたを、私は忘れません」


 凛は顔を上げると、いつもの鋭い目で俺を見た。

 けれど、その奥には、もう敵意はなかった。


「ただし、お嬢様をお守りするのは、あくまで私の役目です。それは変わりません。お忘れなきよう」

「……はい」

「それと」


 凛は、ぷいと顔を背けた。


「リレーのときの『頼みます』は、聞かなかったことにしなさい」

「え、なんでですか」

「士族が、平民に頼みごとをするなど、あってはならないことです」

「でも、言いましたよね」

「言っておりません」

「言いました」

「……聞かなかったことに、しなさい」


 凛の耳は、夕焼けよりも赤く染まっていた。

 凛は、そのまま踵を返し、足早に中庭を出ていった。

 すれ違いざまに、中庭に入ってきた人影に、小さく会釈をして。



「颯騨様」


 秋穂だった。

 秋穂は、俺の隣に座った。

 凛が座っていたのより、ずっと近い距離に。


「宇佐美様は、保健室で手当てを受けておられます。捻挫ですが、骨には異常がないそうです」

「そうですか。よかった」

「はい」


 秋穂は、夕焼けの空を見上げた。

 長い黒髪が、風にさらさらと揺れていた。


「……また、視えました」

「何がですか」

「金色の風です」


 秋穂は、俺のほうを向いて、微笑んだ。


「入場門が倒れかけたとき、グラウンドの上を、金色の風が吹き抜けていきました。それは、小さな女の子を包み込んで、そっと、お母様のもとへ運んでいきました」

「……」

「美羽様も、同じことをおっしゃっていました。金色の風が、助けてくれたのだと」


 秋穂の瞳は、夕焼けを映して、深い琥珀色に輝いていた。


「颯騨様は、やはり、わたくしのヒーローです」


 俺は、自分の手のひらを見下ろした。

 さっき、入場門の鉄パイプを押し上げた手。

 美羽ちゃんを抱き上げた手。


「……ヒーローなんかじゃないですよ」


 気がつけば、口から言葉がこぼれていた。


「俺は、ただ、目の前で誰かが傷つくのを見てるのが嫌なだけです。それだけなんです。正義感とか、そういう立派なものじゃない」


 小学生の頃、運動会で本気を出して大騒ぎになったとき。

 周りの大人たちの目が、一瞬で変わったのを覚えている。化け物を見るような目。珍しい動物を見るような目。

 それが怖くて、ずっと隠してきた。

 平凡に、目立たず。そうすれば、誰も俺を変な目で見ない。


 でも、今日。


 入場門が傾いた瞬間、そんなことは全部、頭から吹き飛んでいた。


「……それを」


 秋穂が、そっと、俺の手に自分の手を重ねた。

 ひんやりとした、細い指だった。初めて会った日、教室で俺の手を包み込んだのと、同じ指だった。


「それを、ヒーローと呼ぶのです。颯騨様」


 夕焼けの中庭に、秋の風が吹き抜けていった。

 俺は、何も言えなかった。

 ただ、重ねられた手の温度だけを、ずっと感じていた。

 この人は、婚約を破棄され、国家機密漏洩の汚名を着せられ、昨日まで一緒にいた人たちに裏切られた。

 それでも、自販機のお茶ひとつで笑い、自分を傷つけた相手の傷を、黙って拭ってやれる人だ。

 そんな人が、「助けてください」と言ったのだ。

 ほかの誰でもなく、俺に。


「……紫条通さん」

「はい」

「明日の朝も、来るんですか。『お願いに参りました』って」


 秋穂は、少しだけ目を丸くした。

 それから、ふわりと微笑んだ。


「はい。颯騨様が、頷いてくださるまで」

「……そうですか」


 俺は、夕焼けの空を見上げた。


 明日の朝、この人はまた、俺の机の前に立つだろう。

 そして、いつものように、あの言葉を口にするだろう。


 そのとき、俺は――。


 答えは、まだ出ていなかった。

 でも、今日だけは、「無理です」という言葉が、どうしても喉の奥から出てこない気がした。

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