第7話 金色の風が吹いた日(前編)
体育祭の朝は、嫌になるくらいの快晴だった。
グラウンドには、色とりどりの万国旗が張り巡らされている。正面には、ベニヤ板と鉄パイプで組まれた大きな入場門。「第四十二回 県立中平高校体育祭」の文字が、秋の陽射しに白く光っていた。
保護者席には、朝早くからシートを広げた家族連れがずらりと並んでいる。
俺は、クラスの応援席の隅で、膝を抱えていた。
「……帰りたい」
「おいおい、ヒーローがそんな弱気でどうすんだよ」
隣に座った田淵が、にやにやしながら俺の肩を叩いた。
「今日のメインイベントは、男女混合リレーのアンカー・涼木颯騨だぞ。クラスの期待を一身に背負ってるんだからさ」
「背負わせたのはお前らだろ」
「いやあ、楽しみだなあ。あ、そうだ。今日、妹が見に来てるんだよ。美羽っていうんだけど、小一でさ。『ヒーローのお兄ちゃん見たい!』って朝からうるさくて」
「なんで小学生にまで話が広まってるんだ」
「俺が話した」
「お前か」
田淵は、悪びれもせずに笑った。
保護者席のほうを指さすと、田淵のお母さんらしき人の隣で、ツインテールの小さな女の子がこちらに向かってぶんぶんと手を振っていた。
俺は、力なく手を振り返した。
小学一年生の期待まで背負わされるとは思わなかった。
「颯騨様、おはようございます」
振り返ると、秋穂が立っていた。
体操服の上に、クラスTシャツ。長い黒髪は、後ろで一つに結われている。
いつもの制服姿とはまるで違う、活動的な格好だった。……なのに、どういうわけか、神秘的な雰囲気はまったく損なわれていない。この人は、たぶん何を着ていても神社の境内から抜け出してきたように見えるのだと思う。
その手には、なぜか扇子が握られていた。
「本日も、お願いに――」
「今日はそれ、なしでお願いします」
「まあ。では、本日は応援に参りました」
秋穂は、ぱっと扇子を開いた。
金地に、朱で大きく「必勝」と書かれていた。
「……それ、どこで」
「凛が、昨夜のうちに用意してくれました」
「楯岡さん、書道もできるんですか」
「士族の嗜みです」
秋穂の後ろから、凛が現れた。
体操服姿で、両手に巨大な風呂敷包みを提げている。
「お嬢様、こちらを応援席に。本日の皆様の昼餉です」
「皆様?」
「クラス全員分の重箱を用意いたしました。三十二人分です」
「三十二人分!?」
凛が風呂敷を解くと、漆塗りの重箱が、塔のように積み上がっていた。
周りのクラスメートたちが、どよめいた。
「え、マジで? 楯岡さんが作ったの?」
「うそ、全員分?」
「昨日、お嬢様が『皆様と一緒にお昼をいただきたい』とおっしゃいましたので」
凛は、当然のことのように言った。
目の下に、うっすらとクマができている。たぶん、徹夜だ。
「お嬢様のお言葉とあらば、この程度のことは」
「楯岡さん、寝てないでしょう」
「……士族は、三日くらい寝なくても平気です」
絶対に平気じゃないと思う。
秋穂が、凛の手をそっと取った。
「凛、ありがとうございます。でも、無理はしないでくださいね。凛が倒れてしまったら、わたくし、とても悲しいです」
「お、お嬢様……」
凛の目が、うるっと潤んだ。
この主従は、朝からなんだか忙しい。
体育祭は、滞りなく進んでいった。
玉入れ。綱引き。大縄跳び。
秋穂は、どの競技にも一生懸命参加した。そして、どの競技でも、見事なまでに役に立たなかった。
玉入れでは、玉を一つずつ丁寧に両手で持ち、籠に向かって「どうぞ」と優しく投げていた。当然、一つも入らなかった。
綱引きでは、綱を握った瞬間に「まあ、ざらざらしています」と手を離した。
大縄跳びでは、縄が回ってくるたびに「今です!」と言いながら、一度も跳べなかった。
それでも、秋穂はずっと楽しそうだった。
失敗するたびに、クラスメートたちが笑い、秋穂も一緒になって笑った。
「紫条通さん、ドンマイ!」
「次、次!」
「かわいいから許す!」
一週間前、宇佐美に「迷惑なんだけど」と言われていたのが嘘のように、秋穂はクラスの輪の中にいた。
その宇佐美は、応援席の端で、腕を組んで黙ってグラウンドを見ていた。
あの茶会の一件以来、宇佐美が秋穂に何かを言うことはなくなっていた。ただ、時々、何か言いたそうに秋穂のほうを見ているのを、俺は何度か目にしていた。
昼前の最後の種目は、借り物競走だった。
「紫条通さん、次、借り物競走だよ!」
「はい、行ってまいります」
秋穂は、スタートラインに立った。
号砲が鳴り、選手たちが一斉に走り出す。秋穂は、優雅な足取りで、とことこと走っていった。明らかに一人だけ、走るというより散歩に近い速度だった。
コースの途中に置かれた封筒を拾い、中のカードを取り出す。
秋穂は、カードを見つめて、ぱっと顔を輝かせた。
そして、まっすぐに、クラスの応援席へと向かってきた。
……嫌な予感がした。
「颯騨様!」
「……はい」
「一緒に来てくださいませ!」
秋穂は、俺の手を取った。
クラスメートたちが、一斉に歓声を上げる。
「ちょ、カードになんて書いてあったんですか」
「はい、こちらです」
秋穂が、カードを見せてくれた。
丸っこい字で、こう書かれていた。
『あなたのヒーロー』
「……誰だ、これ書いたの」
「体育祭実行委員の方々が、面白いお題を考えてくださったそうです」
実行委員、絶対にわざとだ。
応援席を振り返ると、田淵が腹を抱えて笑っていた。あいつ、確か実行委員だった気がする。
「さあ、参りましょう、颯騨様!」
秋穂に手を引かれて、俺はグラウンドを走った。
秋穂の速度に合わせて、ゆっくりと。
保護者席からも、生徒席からも、笑い声と拍手が降り注いでくる。「ヒーロー!」「お幸せにー!」という冷やかしの声まで聞こえた。
顔から火が出そうだった。
ゴール地点で、審判の生徒がカードを確認した。
「お題は……『あなたのヒーロー』。えーと、本当にヒーローですか?」
「はい」
秋穂は、迷いなく頷いた。
握ったままの俺の手を、ぎゅっと握り直して。
「わたくしを、助けてくださった方です」
その声は、冷やかしの喧騒の中でも、不思議とよく通った。
審判の生徒は、少し照れたように笑って、「合格です!」と旗を上げた。
順位は、最下位だった。それでも、秋穂は誇らしげに胸を張っていた。
応援席に戻ると、凛が腕を組んで待ち構えていた。
その目は、俺と秋穂の繋がれたままの手に、じっと注がれていた。
「……涼木颯騨」
「はい」
「その手は、いつまで繋いでいるおつもりですか」
「あ」
俺は、慌てて手を離した。
秋穂が、少しだけ残念そうな顔をした気がした。
昼休みの凛の重箱は、クラス全員が絶賛した。
出汁巻き卵、唐揚げ、煮物、俵おにぎり。どれも料亭の味で、あっという間に空になっていく。
普段は秋穂と距離を置いていた男子たちまで、「楯岡さん、神」「紫条通さん、ありがとう」と口々に礼を言った。
宇佐美も、取り巻きと一緒に、黙って重箱の唐揚げをつまんでいた。
一口食べて、少しだけ目を見開き、それから誰にも見られないように、もう一つ取っていた。
俺は、それを見なかったことにした。
午後。
体育祭は終盤に差しかかり、いよいよ最終種目の時間が近づいていた。
クラス対抗、男女混合リレー。各クラスの代表六人が、それぞれ百メートルずつ走る、体育祭の花形競技だ。
空の様子が、少し変わっていた。
朝は穏やかだった風が、午後になって急に強くなってきている。万国旗が、ばたばたと音を立ててはためいていた。
「風、強くなってきたな」
「リレー、大丈夫かな」
クラスメートたちが、空を見上げて呟く。
俺は、入場門のほうに目をやった。
ベニヤ板の大きな看板が、風を受けてぎしぎしと軋んでいた。鉄パイプの脚の部分には、重しの土嚢が置かれているが、どうにも心許ない。
「……颯騨様」
隣にいた秋穂が、ふと顔を曇らせた。
「どうしました」
「いえ……なんだか、胸騒ぎがするのです」
秋穂は、入場門のほうをじっと見つめていた。
その横顔は、いつもの浮世離れした微笑みではなく、巫女としての、何かを感じ取ろうとする真剣な表情だった。
「気のせいだと、よいのですが」
「男女混合リレーに出場する選手は、入場門に集合してください」
放送が流れ、俺は立ち上がった。
「颯騨様、ご武運を」
秋穂が、「必勝」の扇子を広げて、俺を見上げた。
「ご武運って、戦に行くわけじゃないんですけど」
「颯騨様なら、必ず勝てます。わたくしには、分かります」
「……だから、プレッシャーかけないでください」
秋穂は、くすりと笑った。
「プレッシャーではありません。信じているだけです」
その言葉が、なぜか胸の奥にすとんと落ちた。
入場門の前には、各クラスのリレー選手が集まっていた。
うちのクラスは、第一走者が佐々木さん、第二走者が陸上部の三浦、第三走者が宇佐美、第四走者がサッカー部の岡野、第五走者が凛。そして、アンカーが俺だ。
「涼木颯騨」
凛が、隣に立った。
「覚悟は、よろしいですね」
「……よろしくないです」
「本日こそ、あなたの本気を見せていただきます」
「だから、俺には事情が」
「事情は存じません。ですが、あなたの前には、クラスの皆様の期待があります。お嬢様の信頼もあります」
凛は、前を向いたまま言った。
「それでもなお手を抜くというのであれば、私は、あなたを見損ないます」
反論できなかった。




