第9話 観月の宴、婚約破棄の夜
「涼木様。夕餉をご用意いたしました」
秋穂が「残りのお話を」と言ってから、ほんの五分後のことだった。
襖が開いて、凛が次々と膳を運び込んできた。
漆塗りの膳の上に、小鉢がいくつも並んでいる。胡麻豆腐、焼き茄子、秋刀魚の塩焼き、松茸の土瓶蒸し。炊きたての栗ご飯から、ほかほかと湯気が立ちのぼっていた。
「……え、いや、そこまでしてもらうわけには」
「お嬢様のお話は長くなります。空腹では、集中してお聞きいただけないでしょう」
「それは、そうかもしれないですけど」
「それに、すでに作ってしまいました。食べていただかないと、無駄になります」
凛は、有無を言わせぬ口調で膳を俺の前に置いた。
たぶん、さっき台所に下がっていたのは、泣き腫らした顔を冷やすためだけではなかったのだろう。
「……じゃあ、いただきます。あ、でもその前に、家に連絡だけ」
俺はスマホを取り出して、母さんに電話をかけた。
三コールで繋がる。
『はーい、颯騨? どうしたの、遅いじゃない』
「ごめん、今日、友達の家で飯食ってくから」
『友達? 田淵くん?』
「いや、違う」
『じゃあ誰よ』
「……クラスの、転入生」
電話の向こうで、一瞬、沈黙があった。
『……ねえ颯騨。その転入生って、もしかして女の子?』
「……」
『ちょっと、お父さーん! 颯騨が女の子の家でご飯食べてくるってー!』
「言わなくていいから!」
『あらあら、まあまあ。颯騨にもついに春が来たのね。ちゃんとご両親にご挨拶するのよ。失礼のないようにね。あ、手土産は? 何も持ってってないでしょ、あんた』
「切るぞ」
『あ、ちょっと、どこのお宅――』
通話を切った。
顔を上げると、秋穂がきらきらした目でこちらを見ていた。
「颯騨様のお母様は、とても楽しそうな方ですね」
「……聞こえてました?」
「はい。春が来た、とおっしゃっていました。今は秋ですのに」
「その意味の春じゃないです」
凛が、膳の向こうで、ものすごく冷たい目をしていた。
「……涼木様。ご家族に、何と説明なさるおつもりですか」
「普通に、クラスメートの家で飯食ったって言います」
「伯爵家の別邸で、とはおっしゃらないでください。騒ぎになります」
「言いませんよ。言っても信じないと思いますし」
俺は、ため息をついて箸を取った。
秋刀魚の塩焼きを一口食べて、思わず目を見開いた。
「……うまっ」
「当然です」
凛は、澄ました顔でそう言ったが、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
夕餉を終え、凛がほうじ茶を淹れ直してくれた頃には、障子の外はすっかり暗くなっていた。
庭の石灯籠に、明かりが灯されている。
その向こうの夜空に、少し欠けた月が浮かんでいた。
秋穂は、湯呑みを両手で包み込み、しばらく月を見上げていた。
「……あの夜も、月が出ておりました」
ぽつりと、秋穂が呟いた。
「颯騨様。わたくしが、婚約を解かれた夜のことを、お話しします」
◆ ◆ ◆
九月の半ば。中秋の名月の夜。
私立高峯学園高等部では、毎年、観月の宴が催される。
学園の奥にある池のほとりに、大きな野点の席が設けられる。池に映る満月を愛でながら、生徒たちは雅楽の調べに耳を傾け、茶を喫し、和歌を詠む。
華族の子女にとって、それは一年でも指折りの、華やかな社交の場だった。
わたくしは、その夜、薄紫の振袖を着ていた。
母の形見の、桔梗の柄。凛が、何日もかけて手入れをしてくれたものだった。
「お嬢様、とてもお美しゅうございます」
「ありがとう、凛」
凛は、わたくしの帯の結び目を直しながら、いつになく硬い顔をしていた。
「……本当に、ご出席なさるのですか」
「ええ。欠席すれば、やましいことがあると思われてしまいますもの」
祭祀文書が消えてから、半月が経っていた。
その写しが反政府系のネットメディアに載り、世間が騒ぎはじめてから、十日。取り調べを受け、証拠不十分として罪に問われないと決まったのは、ほんの三日前のことだった。
罪には問われなかった。
けれど、疑いが晴れたわけではなかった。
学園の中でも、わたくしを見る目は、すっかり変わっていた。
廊下を歩けば、囁き声が聞こえる。教室に入れば、会話が途切れる。昨日まで親しく話しかけてくれていた友人たちが、目を合わせてくれなくなった。
それでも、わたくしは、観月の宴に出ると決めた。
紫条通家の娘として、背筋を伸ばして、月を見上げようと。
それに。
稔彦様が、宴でお話ししたいことがあると、伝言をくださっていたから。
池のほとりは、灯籠の明かりに照らされて、幻想的な光景だった。
水面に、大きな満月が映っている。
雅楽の笙の音が、夜風に乗って、柔らかく響いていた。
わたくしが姿を見せると、野点の席のざわめきが、すっと静まった。
いくつもの視線が、わたくしに集まる。好奇の目。軽蔑の目。憐れみの目。
わたくしは、そのすべてを受け止めて、微笑んだ。
そして、宴の中心にいる方のもとへ、ゆっくりと歩いていった。
「稔彦様。ご機嫌よう」
鷲羽司稔彦様。
鷲羽司侯爵家の三男で、高峯学園の三年生。わたくしの、婚約者。
整ったお顔立ちに、細い銀縁の眼鏡。いつも少しだけ神経質そうに眉を寄せていらっしゃる方で、わたくしは、その眉間の皺を見るたびに、この方はきっと何かに苦しんでおられるのだろうと思っていた。
稔彦様は、わたくしを見ると、わずかに目を細めた。
「……来たのか、秋穂」
「はい。お話があると、伺いましたので」
「そうだったな」
稔彦様は、手にしていた盃を置くと、ゆっくりと立ち上がった。
そして、宴の席の中央へと進み出た。
その隣に、寄り添うように立つ人影があった。
わたくしは、目を見開いた。
「……春花?」
妹の、春花だった。
明るい茶色に染めた髪を、華やかに結い上げている。紅梅色の振袖に、金糸の帯。わたくしとは正反対の、大輪の花のような装い。
春花は、稔彦様の腕に、そっと自分の腕を絡めていた。
宴の席が、ざわめいた。
「皆、少し聞いてほしい」
稔彦様が、よく通る声で言った。
雅楽の音が、止まった。
「今宵、この観月の宴の場を借りて、皆に伝えたいことがある」
稔彦様は、わたくしを見た。
その目には、何の感情も浮かんでいなかった。
「紫条通秋穂。私は、君との婚約を破棄する」
夜風が、池の水面を揺らした。
水に映った月が、ゆらゆらと、形を崩した。
「理由は、言うまでもないだろう。君は、紫条通家が預かる国の祭祀文書を、反政府の輩に流した疑いをかけられている」
「……わたくしは、そのようなことはしておりません」
「証拠不十分で罪に問われなかっただけだ。疑いが晴れたわけではない」
稔彦様の声は、冷たかった。
「鷲羽司家は、代々、国家に忠誠を尽くしてきた家だ。国家機密を漏洩した疑いのある者を、我が家に連なる者として迎えるわけにはいかない。……これは、鷲羽司侯爵家の総意だ」
宴の席の誰もが、息を呑んで、わたくしを見ていた。
わたくしは、稔彦様の目を見つめた。
その奥に、何かを探そうとした。怒りでも、悲しみでも、憐れみでもいい。何か、この方の本当のお気持ちを。
けれど、そこには、何もなかった。
いいえ。
ほんの一瞬だけ、何かが見えた気がした。
安堵、だった。
重い荷物を、ようやく下ろすことができた人のような。
そんな、ほっとしたような色が、稔彦様の瞳の奥を、かすめていった。
「……かしこまりました」
わたくしは、静かに頭を下げた。
「稔彦様のご決断、謹んでお受けいたします」
宴の席が、どよめいた。
きっと皆、わたくしが泣き崩れるか、取り乱すかすると思っていたのだろう。
けれど、わたくしは泣かなかった。
泣くわけにはいかなかった。紫条通家の娘として。巫女として。何より、わたくし自身の誇りのために。
「お姉様……!」
春花が、稔彦様の腕を離れて、わたくしのほうへ駆け寄ってきた。
その大きな瞳に、涙がいっぱいに溜まっていた。
「ごめんなさい、お姉様……! わたし、わたし、こんなことになるなんて……!」
「春花」
「稔彦様は、ずっと悩んでいらしたの。お姉様のことを、どうすればいいのかって。わたし、稔彦様のお話を聞いているうちに、お力になりたいって、そう思って……!」
春花は、わたくしの手を握りしめて、ぽろぽろと涙をこぼした。
「お姉様が、そんなことをするはずないって、わたしは信じてる。でも、でも……世間の皆様は、そうは思ってくださらないの。紫条通家を守るためには、こうするしか……!」
宴の席のあちこちから、同情の囁きが聞こえた。
「春花様、お優しい……」
「お姉様を庇おうとなさって」
「なんて健気な」
わたくしは、春花の涙に濡れた顔を見下ろした。
巫女の力は、身内には働かない。
春花の心は、わたくしには視えない。
だから、わたくしは、この目で見るしかなかった。
普通の人と同じように、ただの目で。
春花は、泣いていた。
大きな瞳から、次々と涙がこぼれ落ちていた。
けれど。
わたくしの手を握りしめる、その指先には、少しも力がこもっていなかった。
そして、うつむいたその唇の端が。
ほんのわずかに。
月明かりの下で、確かに。
――笑っていた。
……いいえ。
きっと、見間違いだ。
灯籠の明かりが揺れて、そう見えただけ。
春花が、わたくしの可愛い春花が、こんなときに笑うはずがない。
「……いいのよ、春花」
わたくしは、春花の手を、そっと握り返した。
「あなたは、何も悪くないわ」
春花が、はっと顔を上げた。
一瞬だけ、その瞳に、何か別の色がよぎった。驚きのような。戸惑いのような。
けれど、すぐに、春花はまた涙を浮かべて、わたくしの胸に顔を埋めた。
「お姉様……! ありがとう、お姉様……!」
わたくしは、春花の背中を撫でながら、夜空を見上げた。
満月が、何事もなかったかのように、煌々と輝いていた。
宴の席を辞したとき、わたくしの周りには、もう誰もいなかった。
友人だと思っていた方々は、目を伏せて、わたくしを避けた。
わたくしを慕ってくれていると思っていた後輩たちは、春花の周りに集まっていた。
池のほとりの小道を、一人で歩いた。
振袖の裾が、夜露に濡れて重かった。
「お嬢様」
背後から、声がした。
凛だった。
侍女の控えの間から、わたくしを追ってきてくれたのだ。
凛は、何も言わずに、わたくしの隣に並んだ。
そして、半歩後ろに下がって、いつものように、わたくしの後をついてきた。
「……凛」
「はい、お嬢様」
「わたくし、ちゃんと、紫条通家の娘らしく振る舞えていたかしら」
「はい」
凛の声は、震えていた。
「どなたよりも、ご立派でした。あの場にいた、どの華族の方よりも」
「……そう」
わたくしは、立ち止まった。
池の水面に、満月が映っていた。
さっき夜風に揺れて崩れた月は、いつの間にか、元の丸い形に戻っていた。
それを見た瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
頬を、何かが伝った。
拭っても、拭っても、止まらなかった。
「……ごめんなさい、凛。少しだけ、少しだけだから」
「はい」
凛は、何も言わずに、わたくしを抱きしめてくれた。
わたくしは、凛の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
月だけが、それを見ていた。
◆ ◆ ◆
話を終えた秋穂は、湯呑みの中のほうじ茶を、じっと見つめていた。
俺は、何も言えなかった。
膝の上で握りしめた拳が、痛いくらいに強張っていた。
「……それからのことは、颯騨様もご存じの通りです」
秋穂は、穏やかに言った。
「翌日には、婚約破棄のことが世間に知れ渡りました。わたくしは高峯学園を去り、この別邸に移り、中平高校へ参りました」
「……紫条通さん」
「はい」
「その、稔彦ってやつは」
声が、自分でも驚くほど低くなっていた。
「どういうやつなんですか。紫条通さんから見て」
秋穂は、少し考え込むように首をかしげた。
「稔彦様は……とても、優秀な方です。学業でも、剣道でも、いつも学年で指折りの成績を収めておられました」
「……」
「けれど、鷲羽司家では三男でいらっしゃいます。お兄様方は、どちらもさらに優秀で、侯爵家を継ぐのは長兄の方と決まっておりました。稔彦様は、紫条通家に婿入りすることで、ご自分の居場所を得ようとしておられたのだと思います」
秋穂は、少しだけ目を伏せた。
「わたくしと一緒にいるとき、稔彦様は、いつも苦しそうでした」
「苦しそう?」
「はい。わたくしが試験で良い成績を取ると、稔彦様は眉を寄せて黙り込まれました。巫女として祭祀に奉仕し、宮中の方々からお褒めの言葉をいただいたときも、稔彦様は、目を逸らしておられました」
「……それって」
「きっと、わたくしが至らなかったのです」
秋穂は、自嘲するように微笑んだ。
「婿入りしてくださる方の誇りを、わたくしは、知らず知らずのうちに傷つけていたのでしょう。もっと、稔彦様を立てて差し上げるべきでした。そうすれば、稔彦様も、あのように――」
「違うでしょう、それは」
気がつけば、声を荒らげていた。
秋穂が、驚いたように顔を上げた。
廊下に控えていた凛も、襖の隙間から、目を丸くしてこちらを見ていた。
「紫条通さんが頑張って、いい成績取って、巫女の仕事で褒められて。それのどこが『至らない』んですか」
「颯騨様……」
「そいつが勝手に劣等感持って、勝手に苦しんでただけでしょう。それを紫条通さんのせいにして、一番弱ってるときに、大勢の前で恥かかせて。……しかも、紫条通さんの妹と一緒になって」
俺は、拳を握りしめた。
「そんなやつのために、紫条通さんが我慢したり、自分を責めたりする必要なんて、これっぽっちもないですよ」
和室が、しんと静まり返った。
言い過ぎた、と思った。
華族の婚約だの、家同士の事情だの、平民の俺が口を出していい話じゃないのかもしれない。
でも、黙っていられなかった。
月明かりの池のほとりで、一人で泣いていた秋穂の姿が、頭から離れなかった。
みんなの前では泣かなかった。紫条通家の娘として、最後まで背筋を伸ばしていた。そして、誰もいなくなってから、凛の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。
そんな人に、「わたくしが至らなかった」なんて言わせたくなかった。
「……すみません。言い過ぎました」
「いいえ」
秋穂は、首を横に振った。
その瞳が、灯籠の明かりを映して、揺れていた。
潤んでいるように、見えた。
「いいえ、颯騨様。……ありがとうございます」
秋穂は、湯呑みを膝の上に置いて、両手でそっと包み込んだ。
「そのように言ってくださった方は、凛のほかには、颯騨様が初めてです」
廊下のほうで、凛が小さく鼻をすする音がした。
聞こえなかったふりをした。
「颯騨様」
しばらくして、秋穂が静かに言った。
「わたくしが、なぜ中平高校へ参ったのか。そのお話も、しておかなければなりません」
「……占いで、って言ってましたよね」
「はい」
秋穂は、和室の奥の、祭壇のある板の間のほうを見た。
「婚約を解かれた翌日から、わたくしは、毎晩、あの祭壇の前で祈りを捧げました。この苦境を打ち破るには、どうすればよいのか。何を、誰を、頼ればよいのか」
「……」
「七日目の夜のことでした」
秋穂は、目を閉じた。
「祈りの最中に、ひとつの光景が視えたのです。暗い夜の中を、金色の風が吹き抜けていく光景でした。その風は、とても速く、とても温かくて……わたくしのほうへ、まっすぐに吹いてきました」
金色の風。
体育祭の日、美羽ちゃんも、秋穂も、同じ言葉を口にしていた。
「そして、その風の向こうに、ひとつの名前が浮かびました。『中平』と」
「……それで、中平高校に」
「はい。父には、ずいぶん反対されました。華族の娘が、平民の公立高校へ通うなど前例がない、と。けれど、わたくしは、あの風を信じたかったのです」
秋穂は、目を開けて、俺を見た。
「そして、転入した日の朝。教室であなたを見た瞬間に、分かりました。あの夜、わたくしのほうへ吹いてきた金色の風は、あなただったのだと」
秋穂の瞳は、まっすぐだった。
迷いも、疑いも、そこには少しもなかった。
俺は、目を逸らしたくなった。
でも、逸らせなかった。
「……俺は、そんな大層なもんじゃないですよ」
「いいえ」
秋穂は、柔らかく微笑んだ。
「あなたは、校門でわたくしを助けてくださいました。コンビニで、週刊誌を裏返してくださいました。教室で、宇佐美様の前で、わたくしを庇ってくださいました。体育祭で、小さな女の子を救ってくださいました」
秋穂は、一つ一つ、指を折って数えた。
「そして今、わたくしのために、怒ってくださいました」
「……」
「それだけで、十分です。颯騨様は、わたくしが信じた通りの方でした」
帰り際、凛が門まで送ってくれた。
石畳の小道を、二人で歩く。
庭の虫の音が、秋の夜の静けさの中に、ころころと響いていた。
「涼木様」
門の前で、凛が立ち止まった。
「本日は、お時間をいただき、ありがとうございました」
「いや、俺のほうこそ。飯、ごちそうさまでした。めちゃくちゃ美味かったです」
「……当然です」
凛は、澄ました顔でそう言った。
それから、少しだけ、言葉を探すように黙り込んだ。
「……先ほどは」
「はい」
「お嬢様のために、怒ってくださって、ありがとうございました」
凛は、深々と頭を下げた。
「私は、ずっと、ああ言って差し上げたかった。ですが、私は士族です。主家の方々のご判断に、口を挟むことはできません。稔彦様のことも、春花様のことも……私には、何も言えなかった」
「……楯岡さん」
「ですから、涼木様が言ってくださって、少し、胸がすきました」
凛は、顔を上げた。
その目は、門灯の明かりを映して、わずかに潤んでいた。
「私は、志乃さんを見つけ出したい」
凛は、はっきりと言った。
「志乃さんが本当に祭祀文書を持ち出したのか。持ち出したのなら、なぜなのか。誰に頼まれたのか。……私は、それを知りたいのです。志乃さんの口から、直接」
「……」
「そして、お嬢様の潔白を証明したい。お嬢様が、あの観月の夜に失ったものを、ひとつでも多く、取り戻して差し上げたい」
凛は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「ですが、私一人の力では、どうにもならないのです。ですから、涼木様。どうか、お嬢様を――」
凛は、そこで言葉を切った。
その先を言えば、それは「お願い」になる。
士族が、平民に頼みごとをするなど、あってはならない。凛自身が、体育祭の後にそう言っていた。
凛は、唇を噛んで、黙り込んだ。
俺は、しばらく凛の顔を見ていた。
それから、門の外の夜道に目をやった。
「……楯岡さん」
「……はい」
「明日の朝、返事します」
凛が、はっと顔を上げた。
「紫条通さんに、ちゃんと。いつもの、あの『お願い』に」
「……涼木様」
「だから、今日はこれで。おやすみなさい」
俺は、門をくぐって、夜道を歩き出した。
背中に、凛の視線を感じた。
しばらくして、背後から、小さな声が聞こえた。
「……おやすみなさいませ、涼木様」
振り返らなかった。
たぶん、振り返ったら、凛はまた「忘れなさい」と言うだろうから。
◆ ◆ ◆
颯騨様がお帰りになった後、わたくしは、祭壇の前に座っていた。
灯明の小さな炎が、ゆらゆらと揺れている。
静かな夜だった。庭の虫の音と、遠くを走る電車の音だけが、かすかに聞こえていた。
颯騨様は、怒ってくださった。
わたくしのために。
あの観月の夜から、ずっと胸の奥に凍りついていた何かが、少しだけ、溶けたような気がした。
わたくしは、二礼二拍手一礼をして、目を閉じた。
心を、静める。
呼吸を、整える。
灯明の炎の揺らぎが、瞼の裏に、淡い光となって映る。
その光の向こうに、意識を、そっと委ねていく。
――金色の風が、視えた。
あの夜と同じ、温かくて、速い風。
颯騨様の風だ。
けれど、今夜は、それだけではなかった。
金色の風の、すぐそばに。
もうひとつ、何かがあった。
花、だった。
紫色の花。
幾重にも重なった、華やかな花びら。凛とした佇まいの中に、どこか秘めやかな気配を宿した花。
――蘭、だろうか。
紫色の蘭の花が、金色の風に寄り添うように、静かに咲いていた。
その花は、とても近くにあった。
颯騨様の、すぐそばに。手を伸ばせば届くほど、近くに。
けれど、その花は、顔を隠していた。
花びらの影に、本当の姿を、そっと隠しているようだった。
わたくしは、ゆっくりと目を開けた。
灯明の炎が、小さく揺れていた。
「……もう一人」
思わず、声に出していた。
金色の風の、すぐそばで咲く、紫の蘭。
顔を隠した、秘めやかな花。
それが誰なのか、わたくしにはまだ分からなかった。
けれど、ひとつだけ、確かなことがあった。
その花もまた、わたくしを救う鍵なのだと。
窓の外に、少し欠けた月が浮かんでいた。
あの観月の夜の満月とは違う、不完全な月。
けれど、今夜の月は、あの夜よりも、ずっと優しく見えた。




