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第10話 「はい」と答えた朝

 その夜は、ほとんど眠れなかった。

 ベッドに横になって天井を見上げていると、観月の宴の話が、何度も頭の中で繰り返された。

 月明かりの池のほとりで、一人で泣いていた秋穂。

「わたくしが至らなかったのです」と、自分を責めて微笑んだ秋穂。

 そして、門の前で「どうか、お嬢様を」と言いかけて、唇を噛んだ凛。

 寝返りを打つ。

 枕元のスマホを見ると、午前二時を過ぎていた。

 俺は、天井に向かって、手のひらをかざした。


 この手で、何ができるのだろう。


 俺にあるのは、速さだけだ。

 頭がいいわけでも、華族の事情に詳しいわけでも、特別なコネがあるわけでもない。国家機密だの、侯爵家の陰謀だの、そんなものを相手に、足が速いだけの高校生に何ができる。


 ……でも。


 校門で、秋穂を連れ去ろうとした男たちを止めたのは、この速さだった。

 体育祭で、美羽ちゃんを救ったのも、この速さだった。

 ずっと、隠さなきゃいけないものだと思っていた。

 化け物を見るような目で見られないように。平凡に、目立たず、誰にも気づかれないように。

 でも、秋穂は、この速さを「金色の風」と呼んだ。

 怖がるでも、珍しがるでもなく、ただまっすぐに、温かいものとして。


 ――それを、ヒーローと呼ぶのです。


 俺は、かざしていた手を、ぎゅっと握りしめた。

 答えは、とっくに出ていたのかもしれない。

 ただ、それを口に出す勇気が、なかっただけで。



 翌朝、俺はいつもより二十分早く家を出た。

 もちろん、普通の速度で。

 今日だけは、ちゃんと自分の足で、一歩ずつ歩いて学校に行きたかった。

 教室に入ると、まだ半分くらいの席しか埋まっていなかった。

 田淵は、珍しく先に来ていて、スマホで何かを熱心に見ていた。


「よう、颯騨。早いな」

「まあな」

「……なんか、顔つき違くね?」

「そうか?」

「うん。なんていうか、腹括ったみたいな顔してる」


 田淵は、じっと俺の顔を見た。

 それから、にやりと笑った。


「……今日、なんかあるな?」

「さあな」

「おいおい、教えろよ。賭けの配当がかかってんだよ」

「お前、まだ賭けてんのかよ」

「当たり前だろ。俺、今週中に一票入れてんだから。今日は金曜だぞ。今日落ちてくれないと、俺の昼メシ一週間分がパーなんだよ」

「知るか」


 俺は、自分の席に座った。

 心臓が、少しだけ速く脈打っていた。



 予鈴が鳴る五分前。

 教室の前の扉が開いて、秋穂が入ってきた。

 その半歩後ろには、凛。

 凛は、教室に入るなり、俺のほうをちらりと見た。

 その目には、昨夜の門の前で見せた、あの揺れる光が、まだ残っていた。

 秋穂は、いつものように、まっすぐに俺の机の前まで歩いてきた。

 そして、優雅に一礼した。


「おはようございます、颯騨様」

「おはようございます」


 教室のざわめきが、すっと小さくなった。

 クラス中の視線が、俺たちに集まっているのが分かる。田淵が、スマホを握りしめて身を乗り出している。

 秋穂は、顔を上げた。

 いつもと同じ、穏やかな微笑み。けれど、その瞳の奥に、ほんの少しだけ、不安の色が揺れていた。

 昨日、俺は「明日の朝、返事します」と凛に言った。

 たぶん、凛はそれを秋穂に伝えている。

 だから、秋穂も分かっているのだ。

 今日の返事は、これまでとは違うということを。


「本日も、お願いに参りました」


 秋穂の声は、いつもより、ほんの少しだけ震えていた。


「わたくしを、助けてくださいませんか?」


 教室が、しんと静まり返った。


 俺は、立ち上がった。

 秋穂の目を、まっすぐに見た。

 深い色の瞳。初めて会った日、俺の手を包み込んで「あなたが、わたくしの救い主です」と言った、あの瞳。


「……紫条通さん」

「はい」

「俺は、頭がいいわけでも、華族の事情に詳しいわけでもないです。国家機密とか、侯爵家とか、正直、どうすればいいのか全然分からない」

「……はい」

「できることなんて、たぶん、ほとんどない。紫条通さんが思ってるような、すごい男じゃないです」


 秋穂の瞳が、わずかに揺れた。

 俺は、一度、息を吸った。


「でも」


 握りしめた拳に、力を込める。


「俺にできることがあるなら、全部やります。俺にしかできないことがあるなら、それも全部」


 秋穂の目が、大きく見開かれた。


「だから――」


 言葉にするのは、思っていたより、ずっと簡単だった。


「――助けます。あなたのことを」


 一瞬の、完全な静寂。


 それから。


 秋穂の顔に、ゆっくりと、笑みが広がっていった。


 いつもの浮世離れした微笑みではなかった。

 自販機のお茶を頬に当てたときの、子どもみたいな笑顔とも違った。

 それは、長い、長い夜の果てに、ようやく夜明けを見た人のような。

 泣き出しそうで、でも、それ以上に嬉しくてたまらないような、そんな笑顔だった。


「……はい」


 秋穂の目から、ひとすじ、涙がこぼれた。


「ありがとうございます、颯騨様。……ありがとう、ございます」


 秋穂は、両手で顔を覆った。

 その肩が、小さく震えていた。

 凛が、すっと秋穂の隣に寄り添った。

 その凛の目も、真っ赤になっていた。

 そして。


「――っしゃああああああああ!!」


 教室が、爆発した。


「言ったああああ! 涼木が言ったぞ!」

「助けますって! 助けますって言った!」

「え、泣いてる!? 紫条通さん泣いてる!?」

「ヒーロー涼木、ついに陥落ー!」

「いや、陥落って何だよ!」


 クラスメートたちが、一斉に歓声を上げた。

 拍手をする者、机を叩く者、スマホで写真を撮る者。まるで、優勝でもしたかのような騒ぎだった。

 その中で、ひときわ大きな声が響いた。


「よっしゃああああ! 金曜日! 今週中! 俺の勝ちだああああ!」


 田淵だった。

 スマホを天に掲げて、雄叫びを上げている。


「田淵、お前……!」

「悪いな颯騨! お前のおかげで、俺の昼メシ一週間分が三週間分になった!」

「知るか!」


 窓際の後ろの席では、宇佐美が、松葉杖をついたまま、呆れたような、でもどこか嬉しそうな顔で拍手していた。

 俺と目が合うと、ふいっと顔を背けたが、その口元は笑っていた。

 俺は、クラスメートたちに揉みくちゃにされながら、秋穂を見た。

 秋穂は、まだ顔を覆っていた。

 でも、その指の隙間から、ちらりと、こちらを見ていた。

 目が合った。

 秋穂は、涙に濡れた顔のまま、ふわりと笑った。

 たぶん、俺は、この笑顔を一生忘れないと思う。



 本鈴が鳴り、柏木先生が教室に入ってきて、ようやく騒ぎが収まった。

 先生は、異様な熱気に包まれた教室を見回して、「……何かあったのか?」と首をかしげていた。

 誰も、何も答えなかった。

 ただ、全員がにやにやしながら、俺と秋穂を交互に見ていた。

 一時間目の授業中、机の中でスマホが震えた。

 見ると、田淵からのメッセージだった。


『おめでとう、ヒーロー』

『あと、お前らのツーショット、クラスのグループに流れてるぞ』


 俺は、机に突っ伏した。

 平凡に、目立たず。そのモットーは墓標となって、今日、完全に埋め立てられたらしい。



 放課後。

 俺と秋穂と凛は、校舎裏の古い中庭のベンチに座っていた。

 秋穂を初めて連れてきて、凛の重箱の卵焼きを食べた、あの場所だ。

 まだ少し目元の赤い秋穂は、朝の涙が嘘のように、いつもの穏やかな微笑みに戻っていた。

 凛は、いつものように、ベンチを三回拭いてから秋穂を座らせ、その隣に控えている。


「……それで、ですね」


 俺は、ベンチに座ったまま、二人に向き直った。


「協力するって決めた以上、ちゃんと話しておきたいことがあるんです」

「話しておきたいこと、ですか?」

「俺の、速さのことです」


 秋穂と凛が、顔を見合わせた。


「颯騨様、それは、無理にお話しくださらなくても」

「いえ。話させてください」


 俺は、首を横に振った。


「一緒に何かをやるなら、隠し事はしたくないんです。それに、二人とも、もうほとんど気づいてるでしょう」


 凛が、小さく頷いた。


「校門のときも、体育祭のときも。私には、何ひとつ見えませんでした」

「……ですよね」


 俺は、空を見上げた。

 秋の、高く澄んだ空だった。


「俺、昔から足が速いんです。速いって言っても、普通の速さじゃない。たぶん、人間の限界とか、そういうのを全部無視した速さです。しかも、どれだけ速く走っても、体が壊れない」

「……」

「理由は、分かりません。物心ついたときには、もうこうでした」


 小学二年生の運動会のことを、話した。

 かけっこで、初めて本気を出した。

 スタートの笛が鳴った瞬間、ゴールテープを切っていた。

 グラウンドが、静まり返った。

 保護者席の大人たちの顔から、表情が消えていくのを、はっきりと覚えている。

 それから、テレビ局の人が家に来た。大学の先生だという人が来た。

 両親は全部断ってくれたけれど、近所の人たちの目は、少しずつ変わっていった。


 化け物を見るような目。

 珍しい動物を見るような目。


 友達だと思っていたやつらが、俺を避けるようになった。

「涼木くんと遊んじゃいけないって、ママが言ってた」と、面と向かって言われたこともあった。


「……それから、隠すようになりました」


 俺は、自分の手のひらを見下ろした。


「わざと遅く走って、普通のふりをして。そうしたら、そのうちみんな忘れてくれた。引っ越しもして、中学からは、誰も俺の昔のことを知らない場所で、平凡に過ごしてきたんです」


 平凡に、目立たず。

 それは、あの運動会の日から、ずっと俺を守ってきた言葉だった。


「だから、正直、怖いです。この力のことが知られて、また、ああいう目で見られるのは」

「……颯騨様」

「でも」


 俺は、顔を上げて、秋穂を見た。


「紫条通さんは、この速さを『金色の風』って呼んでくれた。怖がりもしないし、珍しがりもしない。ただ、温かいものだって」


 秋穂の目が、わずかに見開かれた。


「それが、なんていうか。……嬉しかったんです。ずっと隠してきたものを、そんなふうに言ってもらえたのが」


 中庭を、秋風が吹き抜けていった。

 色づきはじめた木々の葉が、さらさらと音を立てた。


「だから、この速さを、紫条通さんのために使いたい。それが、俺の答えです」


 秋穂は、しばらく何も言わなかった。

 ただ、じっと、俺の目を見つめていた。

 それから、そっと、俺の手に自分の手を重ねた。


「颯騨様の速さは、化け物の力などではありません」


 秋穂は、静かに言った。


「あれは、とても尊いものです。わたくしには分かります。颯騨様の背にいらっしゃる神様は、決して、恐ろしい方ではありません。とても速くて、温かくて……誰かを守るために走る、優しい神様です」

「……」

「颯騨様は、その神様に、選ばれた方なのだと思います」


 秋穂は、ふわりと微笑んだ。


「ですから、どうか、ご自分を化け物などと思わないでくださいませ。颯騨様は、わたくしのヒーローです。それ以外の、何者でもありません」


 胸の奥で、何かが、ほどけていくような気がした。

 ずっと、固く結ばれていた何か。

 あの運動会の日から、ずっと。


「……涼木様」


 凛が、口を開いた。


「ひとつだけ、お願いがあります」


「お願い?」

「……いえ、お願いではありません。士族が平民にお願いなど、いたしません。これは、確認です」


 凛は、ぷいと顔を背けた。

 それから、少しだけ声を落とした。


「一度だけ、その速さを、この目で見せていただけませんか」

「……え」

「校門のときも、体育祭のときも、私には何も見えませんでした。見えないまま、あなたにお嬢様をお任せするのは、侍女として、どうしても納得がいかないのです」


 凛は、真剣な目で俺を見た。


「見えなくても構いません。ただ、あなたが本当に、何をしているのか。それを、確かめたいのです」


 俺は、少し考えた。

 それから、中庭の隅に立つ、一本の木を見た。

 楓の木だった。

 葉の半分ほどが、赤く色づいている。風が吹くたびに、何枚かの葉が、ひらひらと枝を離れて舞い落ちていた。


「……じゃあ、あれで」


 俺は立ち上がり、楓の木の下まで歩いていった。

 ちょうど、風が吹いた。

 枝が揺れて、赤い葉が、十枚、二十枚と、一斉に舞い上がった。


 踏み込んだ。


 音が、消えた。


 世界が、止まった。


 宙を舞う楓の葉が、一枚一枚、空中に静止して見える。赤いのも、黄色いのも、まだ半分緑のものも。葉脈の一本一本まで、くっきりと見えた。

 俺は、その中を歩いた。

 一枚、また一枚と、止まった葉を指先でつまんでいく。

 赤い葉だけを選んで、丁寧に、形の綺麗なものだけを。

 三十枚ほど集めたところで、俺は秋穂の前に戻った。

 ベンチに座ったまま、止まった時間の中で、秋穂は楓の木を見つめていた。その膝の上に、集めた葉を、そっと重ねて置いた。

 それから、凛の差し出された手のひらの上にも、一枚だけ。一番赤くて、一番形の綺麗な葉を。

 元の場所、楓の木の下に戻る。

 速度を、落とした。

 世界に、音が戻ってきた。

 舞い上がっていたはずの楓の葉は、赤い葉だけが、一枚残らず消えていた。

 残った黄色や緑の葉だけが、ひらひらと、地面に落ちていった。


「……え」


 凛が、自分の手のひらを見下ろした。


 そこには、真っ赤な楓の葉が、一枚、載っていた。


「い、いつの間に……」

「まあ……」


 秋穂が、膝の上を見下ろした。

 そこには、色鮮やかな赤い楓の葉が、小さな山のように重なっていた。

 秋穂は、その中の一枚を、そっと指先でつまみ上げた。

 夕日に透かすと、葉脈が、金色に光って見えた。


「……とても、綺麗です」


 秋穂は、うっとりと呟いた。


「金色の風が、秋を運んできてくださいました」


 凛は、手のひらの葉を見つめたまま、しばらく固まっていた。

 それから、ゆっくりと顔を上げ、楓の木の下に立つ俺を見た。


「……やはり、何も見えませんでした」

「すみません」

「謝らないでください」


 凛は、手のひらの楓の葉を、大切そうに両手で包み込んだ。


「見えなくても、分かりました。あなたが、何をしたのか」


 凛は、ベンチから立ち上がると、俺の前まで歩いてきた。

 そして、深々と頭を下げた。


「涼木様。……お嬢様を、どうか、よろしくお願いいたします」

「……え」


 今、確かに「お願いいたします」と言った。


「楯岡さん、今の、お願い――」

「確認です」

「いや、今のは完全に」

「確認です」


 凛は、顔を上げた。

 その顔は、夕日よりも赤く染まっていた。


「それと、お嬢様をお守りするのは、あくまで私の役目です。あなたは、私の補佐です。お忘れなきよう」

「……はい、分かりました」


 凛は、ぷいと顔を背けて、秋穂の隣に戻っていった。

 その手には、赤い楓の葉が、大切そうに握られていた。



 夕日が傾きはじめた中庭で、三人でこれからのことを話し合った。


「まず、分かっていることを整理しましょう」


 凛が、例の手帳を取り出した。

 コンビニで「自動扉:見張りあり」と書いていた、あの手帳だ。


「祭祀文書が消えたのは、八月の終わり。私がお嬢様のお側を離れていた一週間の間です。お嬢様のお部屋に出入りできたのは、お嬢様と、私と、志乃さんだけ。志乃さんは、事件の三日後に姿を消しました」

「それから、文書の写しが反政府系のネットメディアに流れた」

「はい。そして、お嬢様は婚約を解かれ、その後、校門でお嬢様を攫おうとする者たちが現れました。その者たちは、私がお嬢様のお側を離れることを、事前に知っていました」


 凛は、手帳にペンを走らせた。


「……どう考えても、繋がっています」

「ですね」


 俺は、頷いた。


「問題は、証拠がないことです。楯岡さんが遠ざけられたのも、志乃さんが消えたのも、状況だけ見れば怪しい。でも、それだけじゃ誰も動かせない」

「はい。親族会議までに、確かな証拠を掴まなければなりません」


 年の瀬まで、あと三か月。

 長いようで、たぶん、あっという間だ。


「何から手をつけるべきでしょう」


 秋穂が、首をかしげた。


「……志乃さんを見つけるのが、一番の近道だと思います」


 俺は、少し考えてから言った。


「志乃さんが本当に文書を持ち出したのなら、誰に頼まれたのかを知ってるはずです。証言が取れれば、それが一番強い」

「ですが、志乃さんの行方は、紫条通家でも掴めておりません」


 凛が、悔しそうに唇を噛んだ。


「実家にも戻っていない。携帯電話も解約されている。まるで、煙のように消えてしまったのです」

「それから、文書の写しがどうやってネットメディアに流れたのかも、調べたいですね。どこかに、痕跡が残ってるかもしれない」

「……それは、私どもには難しいかと。ネットのことは、あまり詳しくありませんので」


 凛は、申し訳なさそうに目を伏せた。

 そういえば、この主従は、自販機の使い方すら怪しいのだった。

 俺も、ネットに詳しいとは言えない。ゲームはやるが、それだけだ。

 ハッキングだの、情報の追跡だの、そういうことができる知り合いなんて――

 そこまで考えて、ふと、一人の顔が、いや、一つの名前が浮かんだ。


 カトレア。


 ネットの中だけの友人。

 俺のチート疑惑を調べ上げ、教えたはずのない俺の学校を知っていて、週刊誌の情報の出どころを「調べてみる」と言っていた、あいつ。


「……情報に強い知り合いなら、心当たりがなくもないです」

「まあ、本当ですか?」

「ネットの友達なんですけど。そういうのを調べるのが、たぶん、すごく得意なやつで」


 俺がそう言うと、秋穂が、ふと動きを止めた。


 その瞳が、すっと遠くなった。

 巫女の顔だった。何かを感じ取ろうとするときの、あの表情。


「……颯騨様」

「はい」

「昨夜、颯騨様がお帰りになった後、わたくし、祭壇の前で祈りを捧げました」


 秋穂は、ゆっくりと言った。


「そのとき、視えたのです。金色の風の、すぐそばに、もうひとつ」

「もうひとつ?」

「花です」


 秋穂は、目を閉じた。


「紫色の、蘭の花でした。幾重にも花びらが重なった、華やかで、でもどこか秘めやかな花。その花は、颯騨様のすぐそばに咲いていました。手を伸ばせば、届くほど近くに」


「……」

「けれど、その花は、顔を隠していました。花びらの影に、本当の姿を隠しているようでした」


 秋穂は、目を開けて、俺を見た。


「もう一人、鍵になる方がいます。颯騨様の、すぐ近くに」


 中庭を、夕暮れの風が吹き抜けていった。


 紫色の、蘭の花。

 顔を隠した、秘めやかな花。


 俺は、その言葉を、頭の中で繰り返した。

 何かが、引っかかっていた。喉に刺さった小骨のように。


「……紫の、蘭」

「はい。お心当たりが?」

「いや……」


 俺は、首を横に振った。


「分かりません。でも、覚えておきます」



 その夜。

 俺は、自室のパソコンの前に座っていた。

 ヘッドセットをつけ、『フラッシュソルジャー』にログインする。

 対戦をする気分ではなかった。

 ロビー画面のまま、フレンドリストを開く。

 一番上に、その名前があった。


「カトレア」。


 オンライン中を示す、緑色のランプが点いていた。

 俺は、チャット欄を開いた。

 何と書けばいいのか、少し迷った。


【カトクシン】起きてる?


 返事は、すぐに来た。


【カトレア】起きてるわよ。珍しいわね、あなたから話しかけてくるなんて

【カトレア】ちょうど、こっちからも連絡しようと思ってたところ

【カトクシン】なんで

【カトレア】この前言ってた、週刊誌の情報の出どころ

【カトレア】少しだけ、分かったことがあるの


 心臓が、どくんと跳ねた。


【カトクシン】教えてくれ

【カトレア】あら、どうしたの? この前は「俺には関係ない」って言ってたじゃない

【カトクシン】事情が変わった


 送信してから、少しだけ、画面を見つめた。


【カトクシン】紫条通秋穂を、助けることにした


 しばらく、返事が来なかった。

 入力中を示すマークが、点いたり消えたりを繰り返していた。

 やがて、短いメッセージが届いた。


【カトレア】そう

【カトレア】やっと、ヒーローになる気になったのね


 その文字を見て、なぜか、カトレアが画面の向こうで笑っている気がした。


【カトレア】いいわ。協力してあげる

【カトレア】でも、チャットで話すには、ちょっと込み入った話なの

【カトレア】近いうちに、直接会って話せないかしら

【カトクシン】直接?

【カトレア】ええ。あなたの学校の近くなら、すぐに行けるから


 俺は、キーボードの上で指を止めた。

 あなたの学校の近くなら、すぐに行ける。

 そういえば、カトレアは、俺の学校を知っていた。

 校門前の事件のことも、秋穂が俺を「ヒーロー」と呼んでいることも、やけに詳しかった。


 ――颯騨様の、すぐそばに咲いていました。手を伸ばせば、届くほど近くに。


 秋穂の言葉が、頭の中によみがえった。

 俺は、画面の「カトレア」という文字を、じっと見つめた。

 カトレア。

 花の名前だ。どこかで聞いたことがある。確か、洋蘭の一種で――

 手が、勝手に動いていた。

 ブラウザを開き、検索窓に、その名前を打ち込む。

 画面に、花の写真が表示された。

 幾重にも重なった、華やかな花びら。

 凛とした佇まいの中に、どこか秘めやかな気配を宿した、その花。

 色は、鮮やかな、紫だった。


『カトレア――ラン科の植物。「洋蘭の女王」とも呼ばれる』


「……紫の、蘭」


 口の中で、呟いていた。

 顔を隠した、秘めやかな花。

 颯騨様の、すぐそばに。

 俺は、ゆっくりと、ゲームの画面に視線を戻した。

 チャット欄では、カトレアのメッセージが、俺の返事を待っていた。


【カトレア】どうしたの? 急に黙って

【カトレア】もしかして、私に会うのが怖い?


 俺は、深く息を吸った。

 それから、キーボードに指を置いた。


【カトクシン】いや

【カトクシン】会おう。近いうちに


 送信ボタンを押す。


 画面の向こうの、顔も知らない友人。

 ネットの中だけの付き合いだと、ずっと思っていた。

 でも、もしかしたら。

 その「紫の蘭」は、俺が思っているより、ずっと近くに咲いているのかもしれなかった。

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