第11話 紫の蘭、咲く
日曜日の午後一時。
待ち合わせ場所に指定されたのは、学校から二駅離れた街の、古い喫茶店だった。
『ロータス』という名前の、レンガ造りの小さな店。
看板には蔦が絡み、窓際には年季の入ったコーヒーミルが並んでいる。ネットの地図で調べたときは、こんな渋い店を選ぶのか、と少し意外に思った。
カトレアなら、もっと洒落たカフェを選びそうなものだと、勝手に思っていた。
「……颯騨様。わたくし、緊張しております」
店の前で、秋穂が胸に手を当てて呟いた。
「なんで紫条通さんが緊張するんですか」
「颯騨様のお友達にお会いするのですもの。失礼があってはいけません」
秋穂は、今日は制服ではなかった。
落ち着いた藤色のワンピースに、白いカーディガン。髪は緩く編み込まれて、片側に流されている。
……正直、心臓に悪いくらい似合っていた。
その隣で、凛が腕を組んで店を睨んでいた。
凛も私服で、紺のブラウスにシンプルなストレートパンツ。足が長く見える。姿勢の良さが際立っている。女子に対する誉め言葉になるのかどうかわからないが、総じて格好がよかった。
「涼木様。念のため、確認いたします」
「はい」
「そのカトレアなる人物、素性はご存じなのですか」
「……知りません」
「本名は」
「知りません」
「年齢は」
「知りません」
「顔は」
「知りません」
「…………」
凛が、額に手を当てた。
「素性も本名も年齢も顔も存じ上げない相手に、お嬢様をお会わせしろと?」
「いや、俺一人で来るつもりだったんですけど。ついてくるって言ったの、そっちですよね」
「当然です。お嬢様をお一人にするわけにはまいりません」
「だったら紫条通さんも家にいればよかったんじゃ」
「わたくしも、その方にお会いしたいのです」
秋穂が、きっぱりと言った。
「紫の蘭の花は、わたくしを救う鍵です。ご挨拶を申し上げねばなりません」
この三人で来ることになった経緯が、これだった。
金曜の夜にカトレアと会う約束をして、土曜日にそれを報告したら、当然のように二人がついてくることになったのだ。
凛は、まだ納得していないようだった。
「よろしいですか。もし相手が不審な動きを見せたら、私が合図をします。そのときは、迷わずお嬢様を連れて店をお出になってください」
「合図って、どんな」
「咳払いを二度です」
「……それ、普通に咳き込んだときと区別つきます?」
「私は、無闇に咳き込んだりいたしません」
凛はそう言い切ると、先に立って店の扉を開けた。
からん、と古びたドアベルが鳴った。
店内は、思ったよりずっと静かだった。
窓から差し込む午後の光。焙煎された豆の香り。控えめに流れるジャズピアノ。
客は数えるほどしかいない。奥のカウンターでは、白髪のマスターが黙々とネルドリップでコーヒーを淹れていた。
俺は、店内を見回した。
カトレアは、待ち合わせについて、ひとつだけ条件を出していた。
【カトレア】私を見つけられたら、それでいいわ
【カトレア】見つけられなかったら、今日は帰って
ゲームみたいな真似を、と思った。
でも、それがいかにもカトレアらしいとも思った。
窓際の席に、若いカップル。
奥のテーブルに、新聞を広げた初老の男性。
カウンターの端に、ノートパソコンを広げた女性が一人。
……女性は、その一人だけだった。
地味、という言葉がそのまま服を着ているような人だった。
飾り気のない黒縁の眼鏡。肩より下まで伸びた黒髪は、手入れはされているが、ただ下ろしているだけ。化粧をしている様子もない。服装は、無地のグレーのパーカーにジーンズ。
年齢は、俺とそう変わらないように見えた。
高校生か、大学生か。
画面を見つめるその目つきだけが、妙に鋭かった。
俺が一歩踏み出そうとしたとき。
「……颯騨様」
秋穂が、俺の袖をそっと引いた。
振り向くと、秋穂は店の奥を見つめていた。
その瞳が、すっと遠くなっている。巫女の顔だった。
「視えます」
「え」
「紫の蘭が、咲いております」
秋穂は、迷いのない足取りで歩き出した。
カウンターの端。
ノートパソコンを広げた地味な女性の、すぐ後ろで立ち止まる。
女性は、画面に集中していて、気づいていない。
秋穂は、その背中に向かって、丁寧に一礼した。
「はじめまして。紫条通秋穂と申します」
女性の肩が、びくりと跳ねた。
ものすごい勢いで、ノートパソコンの画面が閉じられた。
振り返った女性の顔は、はっきりと引きつっていた。
「……な、なんで」
女性は、秋穂と、その後ろに立つ俺と凛を、順番に見た。
そして、俺の顔で、視線が止まった。
長い、長い沈黙があった。
やがて、女性はがっくりと肩を落とし、両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏した。
「……ありえない」
くぐもった声が聞こえた。
「三十分も前から来て、一番目立たない席を取って、入り口に背を向けて、パソコン開いて、完璧に『無関係な客』の空気出してたのに」
「……あの」
「なんで一直線に来るのよ。私、一言も喋ってないわよね? 顔も見せてないわよね?」
女性は、顔を上げた。
黒縁眼鏡の奥の目が、恨めしそうに秋穂を睨んでいる。
「あなた、どうやって私を見つけたの」
「紫の蘭の花が、咲いておりましたので」
「……は?」
「あなた様の周りに。とても美しい、紫色の蘭が」
秋穂は、心底嬉しそうに微笑んだ。
「祭壇の前で祈りを捧げたときに視えたのです。金色の風のすぐそばに咲く、顔を隠した紫の蘭。……あなた様のことですね」
女性は、ぽかんと口を開けた。
それから、ゆっくりと、俺のほうを見た。
「……ねえ、カトクシン」
心臓が、どくんと跳ねた。
その呼び名を知っているのは、ゲームの中の友人だけだ。
「この子、なに?」
「……えっと」
「私の正体、透視で当てられたんだけど。どういうこと?」
「俺に訊かれても困ります」
「困ってるのはこっちよ!!」
女性は、頭を抱えた。
それから、大きなため息をついて、椅子に座り直した。
眼鏡を外し、レンズを拭いて、かけ直す。その仕草で、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。
「……まあ、いいわ。どうせ、今日は正体を明かすつもりで来たんだし」
女性は、背筋を伸ばして、俺を見上げた。
「はじめまして、カトクシン。……いいえ、涼木颯騨くん」
柔らかい、でもどこか皮肉っぽい響きのある声だった。
チャットの文字から想像していた声と、驚くほど似ていた。
「私が、カトレアよ」
「まあ、『はじめまして』じゃないんだけどね」
女性はそう付け足して、肩をすくめた。
「……どういう意味ですか」
「座ったら? 立ち話もなんでしょ」
俺たちは、カウンターから奥のテーブル席に移った。
四人掛けのテーブル。俺と秋穂が並んで座り、向かいに女性、その隣に凛が座った。
凛は、座るなり、女性をじっと観察しはじめた。
視線が、服装、手元、荷物、店の出入り口との位置関係を、順番に確認していく。完全に護衛の目だった。
「……あの、そこの彼女。さっきからすごい目で見られてるんだけど」
「楯岡凛と申します。紫条通伯爵家にお仕えする、秋穂お嬢様の侍女です」
凛は、名乗ってから、まっすぐに女性を見た。
「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか。ハンドルネームではなく、本名を」
「……いきなり本題ね」
女性は、苦笑した。
「まあ、そうよね。名乗らないと、話にならないか」
女性は、少し迷うようにテーブルの上で指を組んだ。
それから、諦めたように息を吐いた。
「佐生蘭花」
「……さぶ、らんか」
「そう。中平高校三年A組。あなたの、一学年上の先輩よ」
時間が、止まった気がした。
いや、本当に一瞬、世界が止まって見えた。今度は、俺のせいではなかった。
「……えっ?」
「だから、『はじめまして』じゃないって言ったでしょ」
蘭花先輩は、にやりと笑った。
「去年の文化祭、あんた、体育館の前でクラスの出し物のビラ配ってたわよね。私、一枚もらったわよ。焼きそば屋だったっけ」
「……覚えてないです」
「そりゃそうでしょ。私、印象に残るタイプじゃないもの」
蘭花先輩は、自分の顔を指さして、自嘲するように言った。
「地味で、目立たなくて、教室の隅で本読んでるような女。誰も覚えてないわよ。それが狙いだし」
「狙い……?」
「ええ」
蘭花先輩は、閉じたノートパソコンに手を置いた。
「バレたくなかったのよ。私が、誰なのか」
そのとき、マスターがコーヒーを運んできた。
四つのカップが、静かにテーブルに並べられる。蘭花先輩が「いつものをお願いします」と頼んだ豆らしかった。
秋穂が、カップを両手で持ち上げ、ひとくち飲んで、目を丸くした。
「まあ……とても、深い味わいです」
「でしょ。ここのマスター、腕はいいのよ。客が少ないのが難点だけど」
蘭花先輩は、そう言って自分のカップを傾けた。
ブラックのまま、砂糖もミルクも入れずに。
「それで」
カップを置いて、蘭花先輩は言った。
「どこから話そうかしら。……そうね、まず、これから」
蘭花先輩は、ノートパソコンを開いた。
キーボードを何度か叩き、画面をこちらに向ける。
見慣れたロゴが、そこにあった。
『FLASH SOLDIER』
「……フラッシュソルジャー?」
「そう。あなたと私が出会った、あのゲーム」
蘭花先輩は、画面をスクロールさせた。
タイトル画面から、スタッフクレジットへ。
長いリストの、一番上。
『Original Design & Lead Developer』の欄に、ひとつの名前があった。
『R.SABU』
「……え」
俺は、その文字を何度も読み返した。
「それって」
「私よ」
蘭花先輩は、あっさりと言った。
「フラッシュソルジャーを作ったのは、私。中学三年の夏休みに原型を一人で書き上げて、リリースしたの」
言葉が出なかった。
フラッシュソルジャー。
国内登録者数五百万人。今、日本で一番勢いのあるオンラインアクションゲーム。
それを作ったのが、目の前にいる、地味なパーカー姿の女子高生。
「……嘘だろ」
「嘘じゃないわよ。証明しましょうか?」
蘭花先輩は、キーボードを叩いた。
画面に、開発者専用の管理画面らしきものが表示される。見たこともない、無数の数字とログが並んでいた。
「ほら。運営の管理コンソール。ここから、全プレイヤーのデータが見られる」
蘭花先輩は、検索窓に「カトクシン」と打ち込んだ。
俺のプレイヤーデータが、ずらりと表示された。
総プレイ時間。勝率。使用武器の統計。そして――
「登録メールアドレス、課金履歴、ログインIPの履歴」
蘭花先輩は、画面の一箇所を指さした。
「IPから、おおよその地域が分かる。あとは、ログイン時間帯のパターンを見れば、学生かどうかも分かる。平日の夕方から深夜にかけて集中してて、テスト期間らしき時期にぱったり止まる。……これで、近所の高校に通ってる男子高校生だって、当たりはついたわ」
「……」
「そのあと、ちょっとだけ調べさせてもらった。これは悪かったと思ってる。ごめんなさい」
蘭花先輩は、素直に頭を下げた。
「調べたって、どこまで」
「あなたが中平高校の二年生で、名前が涼木颯騨だってところまで」
「めちゃくちゃ調べてるじゃないですか!!」
「だって、気になったんだもの」
蘭花先輩は、悪びれもせずに言った。
「チート疑惑の調査、覚えてる?」
もちろん、覚えていた。俺とカトレアが知り合ったきっかけだ。
半年前。俺は、フラッシュソルジャーの最難関ステージを、公式が想定した最速タイムを大きく上回る記録でクリアした。
その直後、運営から調査が入った。チートを使っている疑いがある、と。
「あのとき、私は本気であなたを疑ってた」
蘭花先輩は、静かに言った。
「あのステージのクリアタイムは、理論上の限界値を下回ってたの。人間の反応速度じゃ、絶対に不可能な数字だった」
「……」
「だから、徹底的に調べた。クライアントの改造、メモリの書き換え、通信の遅延操作。考えられる手法を全部検証して、あなたのログと照合した」
蘭花先輩は、そこで一度、言葉を切った。
「――何も、出なかった」
店内に、ジャズピアノの音が流れていた。
「クライアントは無改造。通信も正常。入力デバイスも、市販のごく普通のもの。全部、完全にクリーンだった」
蘭花先輩は、眼鏡の奥の目で、じっと俺を見た。
「つまり、あなたは、正真正銘の生身の反応速度で、人間には不可能なはずの記録を叩き出したってことになる」
背筋に、冷たいものが走った。
「……それで、俺のことを調べたんですか」
「そう。気になって仕方がなかった。何者なのか、どうしてそんなことができるのか」
「…………」
「で、調べて分かったのは、『ごく普通の高校生』ってことだけ。運動部でもない。何かの選手でもない。体育の成績も平凡」
蘭花先輩は、両手を広げた。
「意味が分からなかったわ。だから、友達になったの」
「……友達に?」
「ええ。近くで観察するには、それが一番手っ取り早いでしょ」
あまりにも身も蓋もない理由だった。
「……ひどい動機ですね」
「最初はね」
蘭花先輩は、ふっと笑った。
「でも、途中からは、普通に楽しかったわよ。あなたとゲームの話をするの」
その言葉には、嘘の匂いがしなかった。
俺も、正直、そうだったから。
「……お待ちください」
それまで黙って話を聞いていた凛が、口を開いた。
「佐生、と、おっしゃいましたね」
「ええ」
「まさか、佐生家の」
蘭花先輩の表情が、わずかに動いた。
「あら。士族の方には、通じるのね」
「……佐生家は、代々、椎名子爵家にお仕えしてきた士族の家です」
凛の声が、硬くなった。
「ですが、十数年前、当主の佐生憲一様が、士族の地位を返上なさった。IT企業を創業するために、主家との縁を断ち、平民となられた」
「よくご存じで」
「……士族の間では、有名な話です」
凛は、膝の上で拳を握った。
「主家を捨てた家、として」
テーブルの空気が、ぴんと張り詰めた。
蘭花先輩は、コーヒーカップを置いた。
その目から、さっきまでの軽さが消えていた。
「……そう。今でも、そういう言われ方をしてるのね」
「事実でしょう」
「事実よ。父は、士族の地位を返上した。それは間違いない」
蘭花先輩は、静かに言った。
「でも、『捨てた』っていうのは、少し違うわ」
「何が違うのですか」
「椎名子爵家は、あのとき、傾いてたのよ」
凛の眉が、わずかに動いた。
「バブルが弾けた後の負債を抱えて、家産を切り崩して、使用人の給金も払えなくなってた。父は、主家を立て直すための事業計画を何度も提案した。でも、当時のご当主は、『士族風情が商売のことに口を出すな』とおっしゃった」
蘭花先輩は、カップの縁を指でなぞった。
「父は、士族の地位を返上して、自分で会社を興した。そして、最初の五年で得た利益のほとんどを、匿名で椎名家に送り続けた」
「……匿名で?」
「ええ。名乗れば、受け取ってもらえないから」
凛が、息を呑んだ。
「椎名家は、今も続いてるわ。決して裕福ではないけど、家名は残ってる。……父が何をしたのか、あちらはたぶん、今も知らない」
蘭花先輩は、そこで小さく笑った。
「まあ、信じるかどうかは、あなた次第だけど」
凛は、何も言わなかった。
ただ、握りしめていた拳が、ゆっくりと開かれていくのが見えた。
「……失礼を、申し上げました」
凛は、頭を下げた。
「知りもしないことを、噂のままに口にいたしました。お許しください」
「別に、いいわよ」
蘭花先輩は、肩をすくめた。
「私だって、士族のことをよく知らないまま、『時代錯誤な人たち』くらいに思ってたし。お互い様でしょ」
「…………」
「でも、あなたの主に対する忠義は、本物みたいね」
蘭花先輩は、凛の目を見て言った。
「それは、素直に立派だと思う」
凛の耳が、かすかに赤くなった。
「さて」
蘭花先輩は、両手を組んで、テーブルの上に置いた。
「そろそろ、本題に入りましょうか。紫条通秋穂さん」
「はい」
秋穂が、背筋を伸ばした。
「まず、確認したいことがあるの。あなたは、祭祀文書を持ち出していない。そうよね?」
「はい。誓って、しておりません」
「分かった。信じる」
あまりにあっさりした返事に、秋穂が目を瞬かせた。
「……信じて、くださるのですか」
「ええ」
「なぜ、でしょう。世間の方々は、皆、信じてくださいませんのに」
「私は、世間じゃないもの」
蘭花先輩は、ノートパソコンを開き直した。
「それに、データがそう言ってるからよ」
画面が、こちらに向けられた。
そこに表示されていたのは、あるネットメディアのページだった。
『真実報道ネットワーク』という名前の、俺でも名前を聞いたことのある、反政府色の強いニュースサイト。
そのページの一番上に、あの記事があった。
『【独占】国家祭祀の闇――華族が隠す"祈りの書"の全容』
記事には、変色した和紙に墨で書かれた文書の画像が、何枚も貼られていた。
「……これが、祭祀文書の写しです」
秋穂が、小さく呟いた。
その声は、かすかに震えていた。
「ええ。私も、これを何十回も見返したわ」
蘭花先輩は、画像の一枚を拡大した。
「で、気づいたの。これ、おかしいのよ」
「おかしい?」
「写真の撮られ方が」
蘭花先輩は、画像の端を指さした。
「普通、盗み出した文書を撮るなら、どうする? 急いで撮るでしょ。ブレてもいい、斜めでもいい、とにかく早く撮って、元に戻す。時間が勝負なんだから」
「……そうですね」
「でも、これを見て」
画面の中の写真は、確かに、妙に整っていた。
文書は、平らな台の上に、丁寧に広げられている。
照明が、真上から均等に当たっている。影がほとんどない。ピントは完璧で、墨の掠れの一本一本まで鮮明に写っていた。
「照明機材を使ってる。しかも、複数。台も水平に調整されてる。これ、撮影に最低でも三十分はかけてるわ」
蘭花先輩は、画面を指で叩いた。
「盗んだものを慌てて撮った写真じゃない。落ち着いて、時間をかけて、丁寧に『作品』として撮ってる」
俺は、息を呑んだ。
「つまり……」
「持ち出した人間は、誰にも邪魔されない安全な場所に、この文書を持ち込んでる。そして、そこでじっくり撮影した」
蘭花先輩は、静かに言った。
「短時間で盗み見て撮ったものじゃない。原本を、完全に手中に収めた上で撮った写真よ」
テーブルが、静まり返った。
「それと、もうひとつ」
蘭花先輩は、画像を切り替えた。
「この記事、掲載されたのが八月三十一日。でも、画像ファイルのメタデータを見ると――」
画面に、細かい文字の羅列が表示された。
「撮影日時が、八月二十三日になってる」
凛が、はっと顔を上げた。
「八月二十三日……」
「心当たりが?」
「私が、冬芽様のお屋敷へ参っていた期間です。……ちょうど、その真ん中あたりの日付になります」
凛の声が、震えていた。
「つまり」
俺は、頭の中を整理しながら言った。
「文書が持ち出されたのは、少なくとも八月二十三日より前。そして、その日にはもう、安全な場所でじっくり撮影できる状態にあった」
「そういうこと」
蘭花先輩は、頷いた。
「で、記事が出たのは、その八日後。……なんで、八日も待ったんだと思う?」
誰も、答えられなかった。
「私の推測だけどね」
蘭花先輩は、コーヒーを一口飲んだ。
「待ってたのよ。一番効果的なタイミングを」
「効果的な、タイミング……」
「八月三十一日。夏休みの最終日。翌日から、華族の学校も新学期が始まる。……秋穂さん、その日、何か予定はあった?」
秋穂が、はっと目を見開いた。
「……九月一日に、宮中で、秋の祭祀のお打ち合わせがございました。わたくしも、巫女として参列する予定でした」
「ほらね」
蘭花先輩は、にやりと笑った。
笑ってはいたが、その目は少しも笑っていなかった。
「その前日に記事を出せば、あなたは祭祀に参列できなくなる。巫女としての立場を、最も効果的に潰せる」
蘭花先輩は、ノートパソコンを閉じた。
「これは、思いつきの犯行じゃない。周到に計画されてる。誰が、いつ、何をするのか。全部、計算されてるのよ」
その言葉が、テーブルの上に重く落ちた。
――計算されている。
凛を遠ざけたことも。文書を持ち出したことも。記事を出したタイミングも。
そして、校門で秋穂を攫おうとしたことも。
「……佐生様」
秋穂が、静かに口を開いた。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なに?」
「なぜ、そこまで調べてくださったのですか」
秋穂は、まっすぐに蘭花先輩を見た。
「佐生様は、わたくしとは何の関わりもない方です。それなのに、どうして」
蘭花先輩は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いて、窓の外に目をやった。
「……面白くなかったのよ」
「面白くない?」
「私は、士族の家に生まれた。父が地位を返上したから、今は平民だけど」
蘭花先輩は、窓の外を見たまま言った。
「そのせいで、いろんなことを言われてきた。『主家を捨てた家の娘』『成り上がり』『金で地位を買った一族』。……事実なんて、誰も調べない。みんな、噂を信じたいように信じる」
「…………」
「今回のあなたの話を最初に聞いたとき、正直、他人事だと思えなかったのよ」
蘭花先輩は、こちらに向き直った。
その目には、静かな怒りのようなものが宿っていた。
「証拠もないのに、噂だけで、一人の女の子の人生が潰されていく。しかも、その裏で誰かが得をしてる。……それが、どうしようもなく気に入らなかった」
蘭花先輩は、そこで少しだけ照れくさそうに眼鏡を押し上げた。
「まあ、それだけよ。立派な理由じゃないわ」
秋穂は、静かに立ち上がった。
そして、テーブルの脇まで歩いていくと、蘭花先輩に向かって、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ちょ、ちょっと」
蘭花先輩が、慌てた。
「やめてよ。伯爵令嬢に頭下げられるとか、心臓に悪いんだけど」
「いいえ。どうしても、お礼を申し上げたかったのです」
秋穂は、顔を上げた。
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「わたくしの言葉を、疑わずに信じてくださった方は、凛と、颯騨様と、佐生様だけです」
「…………」
「本当に、ありがとうございます」
蘭花先輩は、困ったように頭を掻いた。
それから、ぼそりと言った。
「……蘭花でいいわよ」
「えっ?」
「佐生様なんて呼ばれると、背中がむずむずする。蘭花って呼んで」
秋穂の顔が、ぱっと輝いた。
「では、蘭花様と」
「様もいらない」
「蘭花さん」
「……まあ、それでいいわ」
蘭花先輩は、ぷいと顔を背けた。
その仕草が、誰かによく似ていた。
俺は、隣で同じように顔を背けている凛を見て、思わず吹き出しそうになった。
「涼木様。何を笑っておられるのですか」
「いえ、何も」
「笑っておられました」
「気のせいです」
会計を済ませて店を出ると、日が少し傾きはじめていた。
「それで、これからどうするの」
蘭花先輩は、ノートパソコンの入ったバッグを肩にかけながら訊いた。
「志乃さんを探します」
俺は答えた。
「浮橋志乃さん。秋穂さんの部屋付きだった世話係で、事件の三日後に失踪した人です。文書を持ち出せた可能性がある、数少ない一人で」
「なるほどね。そこが一番の近道か」
「でも、手がかりが何もないんです。実家にも戻ってない、携帯も解約されてる」
「……ふうん」
蘭花先輩は、顎に手を当てて、少し考えた。
「携帯が解約されてても、その人が『生きてる』限り、絶対にどこかに痕跡は残るのよ」
「痕跡?」
「人は、お金を使わないと生きられないでしょ。家賃、電気代、食費。……身を隠してるなら、身分証を使わない生活をしてるはず。でも、完全に何も使わないのは、まず無理」
蘭花先輩は、にやりと笑った。
「その人のフルネームと、年齢と、顔写真があれば、私のほうでいくつか当たってみるわ」
「そんなこと、できるんですか?」
「できるとは言ってない。『当たってみる』って言ったの」
蘭花先輩は、そう言って歩き出した。
それから、数歩進んだところで、ふと足を止めた。
「そうだ。ひとつ、言い忘れてた」
「なんですか」
蘭花先輩は、振り返った。
その顔から、笑みが消えていた。
「気をつけたほうがいいわよ」
「……何にですか」
「私があの記事のメタデータを調べたのは、三日前。その翌日から、うちのサーバーに妙なアクセスが増えてるの」
背筋が、ひやりとした。
「妙なアクセス?」
「素人じゃないわ。かなり腕のいい相手。……まあ、私のほうが上だから、今のところ何も抜かれてはいないけど」
蘭花先輩は、眼鏡の位置を直した。
「つまり、向こうも見てるってことよ。誰かが自分たちを調べはじめたって、もう気づいてる」
秋の風が、通りを吹き抜けていった。
「今日から、私たちは『向こう』の視界に入ってる。……それだけは、忘れないで」
蘭花先輩は、そう言い残して、駅のほうへ歩き去っていった。
その背中を見送りながら、俺は拳を握りしめた。
顔も名前も分からない誰かが、こちらを見ている。
その視線を感じた気がして、俺は思わず通りの向こうに目をやった。
行き交う人々の中に、不審な影はなかったけれど。
隣に立つ秋穂が、そっと俺の袖を掴んでいた。
その指先が、少しだけ、冷たくなっていた。




