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第11話 紫の蘭、咲く

 日曜日の午後一時。

 待ち合わせ場所に指定されたのは、学校から二駅離れた街の、古い喫茶店だった。

『ロータス』という名前の、レンガ造りの小さな店。

 看板には蔦が絡み、窓際には年季の入ったコーヒーミルが並んでいる。ネットの地図で調べたときは、こんな渋い店を選ぶのか、と少し意外に思った。

 カトレアなら、もっと洒落たカフェを選びそうなものだと、勝手に思っていた。


「……颯騨様。わたくし、緊張しております」


 店の前で、秋穂が胸に手を当てて呟いた。


「なんで紫条通さんが緊張するんですか」

「颯騨様のお友達にお会いするのですもの。失礼があってはいけません」


 秋穂は、今日は制服ではなかった。

 落ち着いた藤色のワンピースに、白いカーディガン。髪は緩く編み込まれて、片側に流されている。

 ……正直、心臓に悪いくらい似合っていた。


 その隣で、凛が腕を組んで店を睨んでいた。

 凛も私服で、紺のブラウスにシンプルなストレートパンツ。足が長く見える。姿勢の良さが際立っている。女子に対する誉め言葉になるのかどうかわからないが、総じて格好がよかった。


「涼木様。念のため、確認いたします」

「はい」

「そのカトレアなる人物、素性はご存じなのですか」

「……知りません」

「本名は」

「知りません」

「年齢は」

「知りません」

「顔は」

「知りません」

「…………」


 凛が、額に手を当てた。


「素性も本名も年齢も顔も存じ上げない相手に、お嬢様をお会わせしろと?」

「いや、俺一人で来るつもりだったんですけど。ついてくるって言ったの、そっちですよね」

「当然です。お嬢様をお一人にするわけにはまいりません」

「だったら紫条通さんも家にいればよかったんじゃ」

「わたくしも、その方にお会いしたいのです」


 秋穂が、きっぱりと言った。


「紫の蘭の花は、わたくしを救う鍵です。ご挨拶を申し上げねばなりません」


 この三人で来ることになった経緯が、これだった。

 金曜の夜にカトレアと会う約束をして、土曜日にそれを報告したら、当然のように二人がついてくることになったのだ。

 凛は、まだ納得していないようだった。


「よろしいですか。もし相手が不審な動きを見せたら、私が合図をします。そのときは、迷わずお嬢様を連れて店をお出になってください」

「合図って、どんな」

「咳払いを二度です」

「……それ、普通に咳き込んだときと区別つきます?」

「私は、無闇に咳き込んだりいたしません」


 凛はそう言い切ると、先に立って店の扉を開けた。

 からん、と古びたドアベルが鳴った。



 店内は、思ったよりずっと静かだった。

 窓から差し込む午後の光。焙煎された豆の香り。控えめに流れるジャズピアノ。

 客は数えるほどしかいない。奥のカウンターでは、白髪のマスターが黙々とネルドリップでコーヒーを淹れていた。

 俺は、店内を見回した。

 カトレアは、待ち合わせについて、ひとつだけ条件を出していた。


【カトレア】私を見つけられたら、それでいいわ

【カトレア】見つけられなかったら、今日は帰って


 ゲームみたいな真似を、と思った。

 でも、それがいかにもカトレアらしいとも思った。

 窓際の席に、若いカップル。

 奥のテーブルに、新聞を広げた初老の男性。

 カウンターの端に、ノートパソコンを広げた女性が一人。


 ……女性は、その一人だけだった。


 地味、という言葉がそのまま服を着ているような人だった。

 飾り気のない黒縁の眼鏡。肩より下まで伸びた黒髪は、手入れはされているが、ただ下ろしているだけ。化粧をしている様子もない。服装は、無地のグレーのパーカーにジーンズ。

 年齢は、俺とそう変わらないように見えた。

 高校生か、大学生か。

 画面を見つめるその目つきだけが、妙に鋭かった。

 俺が一歩踏み出そうとしたとき。


「……颯騨様」


 秋穂が、俺の袖をそっと引いた。

 振り向くと、秋穂は店の奥を見つめていた。

 その瞳が、すっと遠くなっている。巫女の顔だった。


「視えます」

「え」

「紫の蘭が、咲いております」


 秋穂は、迷いのない足取りで歩き出した。

 カウンターの端。

 ノートパソコンを広げた地味な女性の、すぐ後ろで立ち止まる。

 女性は、画面に集中していて、気づいていない。

 秋穂は、その背中に向かって、丁寧に一礼した。


「はじめまして。紫条通秋穂と申します」


 女性の肩が、びくりと跳ねた。

 ものすごい勢いで、ノートパソコンの画面が閉じられた。

 振り返った女性の顔は、はっきりと引きつっていた。


「……な、なんで」


 女性は、秋穂と、その後ろに立つ俺と凛を、順番に見た。

 そして、俺の顔で、視線が止まった。

 長い、長い沈黙があった。

 やがて、女性はがっくりと肩を落とし、両手で顔を覆ってテーブルに突っ伏した。


「……ありえない」


 くぐもった声が聞こえた。


「三十分も前から来て、一番目立たない席を取って、入り口に背を向けて、パソコン開いて、完璧に『無関係な客』の空気出してたのに」

「……あの」

「なんで一直線に来るのよ。私、一言も喋ってないわよね? 顔も見せてないわよね?」


 女性は、顔を上げた。

 黒縁眼鏡の奥の目が、恨めしそうに秋穂を睨んでいる。


「あなた、どうやって私を見つけたの」

「紫の蘭の花が、咲いておりましたので」

「……は?」

「あなた様の周りに。とても美しい、紫色の蘭が」


 秋穂は、心底嬉しそうに微笑んだ。


「祭壇の前で祈りを捧げたときに視えたのです。金色の風のすぐそばに咲く、顔を隠した紫の蘭。……あなた様のことですね」


 女性は、ぽかんと口を開けた。

 それから、ゆっくりと、俺のほうを見た。


「……ねえ、カトクシン」


 心臓が、どくんと跳ねた。

 その呼び名を知っているのは、ゲームの中の友人だけだ。


「この子、なに?」

「……えっと」

「私の正体、透視で当てられたんだけど。どういうこと?」

「俺に訊かれても困ります」

「困ってるのはこっちよ!!」


 女性は、頭を抱えた。

 それから、大きなため息をついて、椅子に座り直した。

 眼鏡を外し、レンズを拭いて、かけ直す。その仕草で、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。


「……まあ、いいわ。どうせ、今日は正体を明かすつもりで来たんだし」


 女性は、背筋を伸ばして、俺を見上げた。


「はじめまして、カトクシン。……いいえ、涼木颯騨くん」


 柔らかい、でもどこか皮肉っぽい響きのある声だった。

 チャットの文字から想像していた声と、驚くほど似ていた。


「私が、カトレアよ」



「まあ、『はじめまして』じゃないんだけどね」


 女性はそう付け足して、肩をすくめた。


「……どういう意味ですか」

「座ったら? 立ち話もなんでしょ」


 俺たちは、カウンターから奥のテーブル席に移った。

 四人掛けのテーブル。俺と秋穂が並んで座り、向かいに女性、その隣に凛が座った。

 凛は、座るなり、女性をじっと観察しはじめた。

 視線が、服装、手元、荷物、店の出入り口との位置関係を、順番に確認していく。完全に護衛の目だった。


「……あの、そこの彼女。さっきからすごい目で見られてるんだけど」

「楯岡凛と申します。紫条通伯爵家にお仕えする、秋穂お嬢様の侍女です」


 凛は、名乗ってから、まっすぐに女性を見た。


「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか。ハンドルネームではなく、本名を」

「……いきなり本題ね」


 女性は、苦笑した。


「まあ、そうよね。名乗らないと、話にならないか」


 女性は、少し迷うようにテーブルの上で指を組んだ。

 それから、諦めたように息を吐いた。


「佐生蘭花」

「……さぶ、らんか」

「そう。中平高校三年A組。あなたの、一学年上の先輩よ」


 時間が、止まった気がした。

 いや、本当に一瞬、世界が止まって見えた。今度は、俺のせいではなかった。


「……えっ?」

「だから、『はじめまして』じゃないって言ったでしょ」


 蘭花先輩は、にやりと笑った。


「去年の文化祭、あんた、体育館の前でクラスの出し物のビラ配ってたわよね。私、一枚もらったわよ。焼きそば屋だったっけ」

「……覚えてないです」

「そりゃそうでしょ。私、印象に残るタイプじゃないもの」


 蘭花先輩は、自分の顔を指さして、自嘲するように言った。


「地味で、目立たなくて、教室の隅で本読んでるような女。誰も覚えてないわよ。それが狙いだし」

「狙い……?」

「ええ」


 蘭花先輩は、閉じたノートパソコンに手を置いた。


「バレたくなかったのよ。私が、誰なのか」


 そのとき、マスターがコーヒーを運んできた。

 四つのカップが、静かにテーブルに並べられる。蘭花先輩が「いつものをお願いします」と頼んだ豆らしかった。

 秋穂が、カップを両手で持ち上げ、ひとくち飲んで、目を丸くした。


「まあ……とても、深い味わいです」

「でしょ。ここのマスター、腕はいいのよ。客が少ないのが難点だけど」


 蘭花先輩は、そう言って自分のカップを傾けた。

 ブラックのまま、砂糖もミルクも入れずに。


「それで」


 カップを置いて、蘭花先輩は言った。


「どこから話そうかしら。……そうね、まず、これから」


 蘭花先輩は、ノートパソコンを開いた。

 キーボードを何度か叩き、画面をこちらに向ける。

 見慣れたロゴが、そこにあった。


『FLASH SOLDIER』


「……フラッシュソルジャー?」

「そう。あなたと私が出会った、あのゲーム」


 蘭花先輩は、画面をスクロールさせた。

 タイトル画面から、スタッフクレジットへ。

 長いリストの、一番上。

『Original Design & Lead Developer』の欄に、ひとつの名前があった。


『R.SABU』


「……え」


 俺は、その文字を何度も読み返した。


「それって」

「私よ」


 蘭花先輩は、あっさりと言った。


「フラッシュソルジャーを作ったのは、私。中学三年の夏休みに原型を一人で書き上げて、リリースしたの」


 言葉が出なかった。


 フラッシュソルジャー。

 国内登録者数五百万人。今、日本で一番勢いのあるオンラインアクションゲーム。

 それを作ったのが、目の前にいる、地味なパーカー姿の女子高生。


「……嘘だろ」

「嘘じゃないわよ。証明しましょうか?」


 蘭花先輩は、キーボードを叩いた。

 画面に、開発者専用の管理画面らしきものが表示される。見たこともない、無数の数字とログが並んでいた。


「ほら。運営の管理コンソール。ここから、全プレイヤーのデータが見られる」


 蘭花先輩は、検索窓に「カトクシン」と打ち込んだ。

 俺のプレイヤーデータが、ずらりと表示された。

 総プレイ時間。勝率。使用武器の統計。そして――


「登録メールアドレス、課金履歴、ログインIPの履歴」


 蘭花先輩は、画面の一箇所を指さした。


「IPから、おおよその地域が分かる。あとは、ログイン時間帯のパターンを見れば、学生かどうかも分かる。平日の夕方から深夜にかけて集中してて、テスト期間らしき時期にぱったり止まる。……これで、近所の高校に通ってる男子高校生だって、当たりはついたわ」

「……」

「そのあと、ちょっとだけ調べさせてもらった。これは悪かったと思ってる。ごめんなさい」


 蘭花先輩は、素直に頭を下げた。


「調べたって、どこまで」

「あなたが中平高校の二年生で、名前が涼木颯騨だってところまで」

「めちゃくちゃ調べてるじゃないですか!!」

「だって、気になったんだもの」


 蘭花先輩は、悪びれもせずに言った。


「チート疑惑の調査、覚えてる?」


 もちろん、覚えていた。俺とカトレアが知り合ったきっかけだ。

 半年前。俺は、フラッシュソルジャーの最難関ステージを、公式が想定した最速タイムを大きく上回る記録でクリアした。

 その直後、運営から調査が入った。チートを使っている疑いがある、と。


「あのとき、私は本気であなたを疑ってた」


 蘭花先輩は、静かに言った。


「あのステージのクリアタイムは、理論上の限界値を下回ってたの。人間の反応速度じゃ、絶対に不可能な数字だった」

「……」

「だから、徹底的に調べた。クライアントの改造、メモリの書き換え、通信の遅延操作。考えられる手法を全部検証して、あなたのログと照合した」


 蘭花先輩は、そこで一度、言葉を切った。


「――何も、出なかった」


 店内に、ジャズピアノの音が流れていた。


「クライアントは無改造。通信も正常。入力デバイスも、市販のごく普通のもの。全部、完全にクリーンだった」


 蘭花先輩は、眼鏡の奥の目で、じっと俺を見た。


「つまり、あなたは、正真正銘の生身の反応速度で、人間には不可能なはずの記録を叩き出したってことになる」


 背筋に、冷たいものが走った。


「……それで、俺のことを調べたんですか」

「そう。気になって仕方がなかった。何者なのか、どうしてそんなことができるのか」

「…………」

「で、調べて分かったのは、『ごく普通の高校生』ってことだけ。運動部でもない。何かの選手でもない。体育の成績も平凡」


 蘭花先輩は、両手を広げた。


「意味が分からなかったわ。だから、友達になったの」

「……友達に?」

「ええ。近くで観察するには、それが一番手っ取り早いでしょ」


 あまりにも身も蓋もない理由だった。


「……ひどい動機ですね」

「最初はね」


 蘭花先輩は、ふっと笑った。


「でも、途中からは、普通に楽しかったわよ。あなたとゲームの話をするの」


 その言葉には、嘘の匂いがしなかった。

 俺も、正直、そうだったから。



「……お待ちください」


 それまで黙って話を聞いていた凛が、口を開いた。


「佐生、と、おっしゃいましたね」

「ええ」

「まさか、佐生家の」


 蘭花先輩の表情が、わずかに動いた。


「あら。士族の方には、通じるのね」

「……佐生家は、代々、椎名子爵家にお仕えしてきた士族の家です」


 凛の声が、硬くなった。


「ですが、十数年前、当主の佐生憲一様が、士族の地位を返上なさった。IT企業を創業するために、主家との縁を断ち、平民となられた」

「よくご存じで」

「……士族の間では、有名な話です」


 凛は、膝の上で拳を握った。


「主家を捨てた家、として」


 テーブルの空気が、ぴんと張り詰めた。

 蘭花先輩は、コーヒーカップを置いた。

 その目から、さっきまでの軽さが消えていた。


「……そう。今でも、そういう言われ方をしてるのね」

「事実でしょう」

「事実よ。父は、士族の地位を返上した。それは間違いない」


 蘭花先輩は、静かに言った。


「でも、『捨てた』っていうのは、少し違うわ」

「何が違うのですか」

「椎名子爵家は、あのとき、傾いてたのよ」


 凛の眉が、わずかに動いた。


「バブルが弾けた後の負債を抱えて、家産を切り崩して、使用人の給金も払えなくなってた。父は、主家を立て直すための事業計画を何度も提案した。でも、当時のご当主は、『士族風情が商売のことに口を出すな』とおっしゃった」


 蘭花先輩は、カップの縁を指でなぞった。


「父は、士族の地位を返上して、自分で会社を興した。そして、最初の五年で得た利益のほとんどを、匿名で椎名家に送り続けた」

「……匿名で?」

「ええ。名乗れば、受け取ってもらえないから」


 凛が、息を呑んだ。


「椎名家は、今も続いてるわ。決して裕福ではないけど、家名は残ってる。……父が何をしたのか、あちらはたぶん、今も知らない」


 蘭花先輩は、そこで小さく笑った。


「まあ、信じるかどうかは、あなた次第だけど」


 凛は、何も言わなかった。

 ただ、握りしめていた拳が、ゆっくりと開かれていくのが見えた。


「……失礼を、申し上げました」


 凛は、頭を下げた。


「知りもしないことを、噂のままに口にいたしました。お許しください」

「別に、いいわよ」


 蘭花先輩は、肩をすくめた。


「私だって、士族のことをよく知らないまま、『時代錯誤な人たち』くらいに思ってたし。お互い様でしょ」

「…………」


「でも、あなたの主に対する忠義は、本物みたいね」


 蘭花先輩は、凛の目を見て言った。


「それは、素直に立派だと思う」


 凛の耳が、かすかに赤くなった。



「さて」


 蘭花先輩は、両手を組んで、テーブルの上に置いた。


「そろそろ、本題に入りましょうか。紫条通秋穂さん」

「はい」


 秋穂が、背筋を伸ばした。


「まず、確認したいことがあるの。あなたは、祭祀文書を持ち出していない。そうよね?」

「はい。誓って、しておりません」

「分かった。信じる」


 あまりにあっさりした返事に、秋穂が目を瞬かせた。


「……信じて、くださるのですか」

「ええ」

「なぜ、でしょう。世間の方々は、皆、信じてくださいませんのに」

「私は、世間じゃないもの」


 蘭花先輩は、ノートパソコンを開き直した。


「それに、データがそう言ってるからよ」


 画面が、こちらに向けられた。


 そこに表示されていたのは、あるネットメディアのページだった。

『真実報道ネットワーク』という名前の、俺でも名前を聞いたことのある、反政府色の強いニュースサイト。

 そのページの一番上に、あの記事があった。


『【独占】国家祭祀の闇――華族が隠す"祈りの書"の全容』


 記事には、変色した和紙に墨で書かれた文書の画像が、何枚も貼られていた。


「……これが、祭祀文書の写しです」


 秋穂が、小さく呟いた。

 その声は、かすかに震えていた。


「ええ。私も、これを何十回も見返したわ」


 蘭花先輩は、画像の一枚を拡大した。


「で、気づいたの。これ、おかしいのよ」

「おかしい?」

「写真の撮られ方が」


 蘭花先輩は、画像の端を指さした。


「普通、盗み出した文書を撮るなら、どうする? 急いで撮るでしょ。ブレてもいい、斜めでもいい、とにかく早く撮って、元に戻す。時間が勝負なんだから」

「……そうですね」

「でも、これを見て」


 画面の中の写真は、確かに、妙に整っていた。

 文書は、平らな台の上に、丁寧に広げられている。

 照明が、真上から均等に当たっている。影がほとんどない。ピントは完璧で、墨の掠れの一本一本まで鮮明に写っていた。


「照明機材を使ってる。しかも、複数。台も水平に調整されてる。これ、撮影に最低でも三十分はかけてるわ」


 蘭花先輩は、画面を指で叩いた。


「盗んだものを慌てて撮った写真じゃない。落ち着いて、時間をかけて、丁寧に『作品』として撮ってる」

 俺は、息を呑んだ。


「つまり……」

「持ち出した人間は、誰にも邪魔されない安全な場所に、この文書を持ち込んでる。そして、そこでじっくり撮影した」


 蘭花先輩は、静かに言った。


「短時間で盗み見て撮ったものじゃない。原本を、完全に手中に収めた上で撮った写真よ」


 テーブルが、静まり返った。


「それと、もうひとつ」


 蘭花先輩は、画像を切り替えた。


「この記事、掲載されたのが八月三十一日。でも、画像ファイルのメタデータを見ると――」


 画面に、細かい文字の羅列が表示された。


「撮影日時が、八月二十三日になってる」


 凛が、はっと顔を上げた。


「八月二十三日……」

「心当たりが?」

「私が、冬芽様のお屋敷へ参っていた期間です。……ちょうど、その真ん中あたりの日付になります」


 凛の声が、震えていた。


「つまり」


 俺は、頭の中を整理しながら言った。


「文書が持ち出されたのは、少なくとも八月二十三日より前。そして、その日にはもう、安全な場所でじっくり撮影できる状態にあった」

「そういうこと」


 蘭花先輩は、頷いた。


「で、記事が出たのは、その八日後。……なんで、八日も待ったんだと思う?」


 誰も、答えられなかった。


「私の推測だけどね」


 蘭花先輩は、コーヒーを一口飲んだ。


「待ってたのよ。一番効果的なタイミングを」

「効果的な、タイミング……」

「八月三十一日。夏休みの最終日。翌日から、華族の学校も新学期が始まる。……秋穂さん、その日、何か予定はあった?」


 秋穂が、はっと目を見開いた。


「……九月一日に、宮中で、秋の祭祀のお打ち合わせがございました。わたくしも、巫女として参列する予定でした」

「ほらね」


 蘭花先輩は、にやりと笑った。

 笑ってはいたが、その目は少しも笑っていなかった。


「その前日に記事を出せば、あなたは祭祀に参列できなくなる。巫女としての立場を、最も効果的に潰せる」


 蘭花先輩は、ノートパソコンを閉じた。


「これは、思いつきの犯行じゃない。周到に計画されてる。誰が、いつ、何をするのか。全部、計算されてるのよ」


 その言葉が、テーブルの上に重く落ちた。


 ――計算されている。


 凛を遠ざけたことも。文書を持ち出したことも。記事を出したタイミングも。

 そして、校門で秋穂を攫おうとしたことも。


「……佐生様」


 秋穂が、静かに口を開いた。


「ひとつ、伺ってもよろしいですか」

「なに?」

「なぜ、そこまで調べてくださったのですか」


 秋穂は、まっすぐに蘭花先輩を見た。


「佐生様は、わたくしとは何の関わりもない方です。それなのに、どうして」


 蘭花先輩は、しばらく黙っていた。

 それから、ふっと息を吐いて、窓の外に目をやった。


「……面白くなかったのよ」

「面白くない?」

「私は、士族の家に生まれた。父が地位を返上したから、今は平民だけど」


 蘭花先輩は、窓の外を見たまま言った。


「そのせいで、いろんなことを言われてきた。『主家を捨てた家の娘』『成り上がり』『金で地位を買った一族』。……事実なんて、誰も調べない。みんな、噂を信じたいように信じる」

「…………」

「今回のあなたの話を最初に聞いたとき、正直、他人事だと思えなかったのよ」


 蘭花先輩は、こちらに向き直った。

 その目には、静かな怒りのようなものが宿っていた。


「証拠もないのに、噂だけで、一人の女の子の人生が潰されていく。しかも、その裏で誰かが得をしてる。……それが、どうしようもなく気に入らなかった」


 蘭花先輩は、そこで少しだけ照れくさそうに眼鏡を押し上げた。


「まあ、それだけよ。立派な理由じゃないわ」


 秋穂は、静かに立ち上がった。

 そして、テーブルの脇まで歩いていくと、蘭花先輩に向かって、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」

「ちょ、ちょっと」


 蘭花先輩が、慌てた。


「やめてよ。伯爵令嬢に頭下げられるとか、心臓に悪いんだけど」

「いいえ。どうしても、お礼を申し上げたかったのです」


 秋穂は、顔を上げた。

 その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「わたくしの言葉を、疑わずに信じてくださった方は、凛と、颯騨様と、佐生様だけです」

「…………」

「本当に、ありがとうございます」


 蘭花先輩は、困ったように頭を掻いた。

 それから、ぼそりと言った。


「……蘭花でいいわよ」

「えっ?」

「佐生様なんて呼ばれると、背中がむずむずする。蘭花って呼んで」


 秋穂の顔が、ぱっと輝いた。


「では、蘭花様と」

「様もいらない」

「蘭花さん」

「……まあ、それでいいわ」


 蘭花先輩は、ぷいと顔を背けた。

 その仕草が、誰かによく似ていた。

 俺は、隣で同じように顔を背けている凛を見て、思わず吹き出しそうになった。


「涼木様。何を笑っておられるのですか」

「いえ、何も」

「笑っておられました」

「気のせいです」



 会計を済ませて店を出ると、日が少し傾きはじめていた。


「それで、これからどうするの」


 蘭花先輩は、ノートパソコンの入ったバッグを肩にかけながら訊いた。


「志乃さんを探します」


 俺は答えた。


「浮橋志乃さん。秋穂さんの部屋付きだった世話係で、事件の三日後に失踪した人です。文書を持ち出せた可能性がある、数少ない一人で」


「なるほどね。そこが一番の近道か」

「でも、手がかりが何もないんです。実家にも戻ってない、携帯も解約されてる」

「……ふうん」


 蘭花先輩は、顎に手を当てて、少し考えた。


「携帯が解約されてても、その人が『生きてる』限り、絶対にどこかに痕跡は残るのよ」

「痕跡?」

「人は、お金を使わないと生きられないでしょ。家賃、電気代、食費。……身を隠してるなら、身分証を使わない生活をしてるはず。でも、完全に何も使わないのは、まず無理」


 蘭花先輩は、にやりと笑った。


「その人のフルネームと、年齢と、顔写真があれば、私のほうでいくつか当たってみるわ」

「そんなこと、できるんですか?」

「できるとは言ってない。『当たってみる』って言ったの」


 蘭花先輩は、そう言って歩き出した。

 それから、数歩進んだところで、ふと足を止めた。


「そうだ。ひとつ、言い忘れてた」

「なんですか」


 蘭花先輩は、振り返った。

 その顔から、笑みが消えていた。


「気をつけたほうがいいわよ」

「……何にですか」

「私があの記事のメタデータを調べたのは、三日前。その翌日から、うちのサーバーに妙なアクセスが増えてるの」


 背筋が、ひやりとした。


「妙なアクセス?」

「素人じゃないわ。かなり腕のいい相手。……まあ、私のほうが上だから、今のところ何も抜かれてはいないけど」


 蘭花先輩は、眼鏡の位置を直した。


「つまり、向こうも見てるってことよ。誰かが自分たちを調べはじめたって、もう気づいてる」


 秋の風が、通りを吹き抜けていった。


「今日から、私たちは『向こう』の視界に入ってる。……それだけは、忘れないで」


 蘭花先輩は、そう言い残して、駅のほうへ歩き去っていった。

 その背中を見送りながら、俺は拳を握りしめた。

 顔も名前も分からない誰かが、こちらを見ている。

 その視線を感じた気がして、俺は思わず通りの向こうに目をやった。

 行き交う人々の中に、不審な影はなかったけれど。

 隣に立つ秋穂が、そっと俺の袖を掴んでいた。

 その指先が、少しだけ、冷たくなっていた。

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