第4話 伯爵令嬢と自動販売機
翌朝、中平高校はある話題で持ちきりだった。
「なあ颯騨、聞いたか? 『校門前集団転倒事件』」
教室に入るなり、田淵がスマホを突き出してきた。
昨日と、まったく同じ構図だった。
「……なんだそのネーミング」
「昨日の放課後、校門の前でスーツの男が三人、いきなり同時にぶっ倒れたんだってよ。誰かが撮った動画があるんだけど、見てみ」
画面の中の映像は、ひどく手ブレしていた。
校門の前に、秋穂の後ろ姿。その周りで、男たちが突然、糸の切れた人形みたいに崩れ落ちる。俺の姿は、どこにも映っていない。
……いや、よく見ると、一瞬だけ画面の端を何かの影が横切っていた。コマ送りにしても、ただのノイズにしか見えないだろうけど。
「ネットじゃ、心霊現象説とか、ガス漏れ説とか、伯爵令嬢の呪い説とかいろいろ出てる」
「呪いってなんだよ」
「ほら、紫条通さんって巫女の家系なんだろ? それで、悪いやつが近づくと天罰が下るって」
あながち間違っていない気がして、俺は何も言えなかった。
実際に天罰を下したのは、たぶん俺だけど。
「で、その場に涼木颯騨がいたっていう目撃証言が複数ある」
「……たまたま通りかかっただけだ」
「ふーん」
田淵は、疑わしそうに俺を見た。
「ま、いいけどさ。お前、昨日から完全に有名人だぞ。『月下の姫君の救い主』って」
「その呼び方やめてくれ、本当に」
俺は机に突っ伏した。
平凡に、目立たず。そのモットーは、もはや跡形もなかった。
「おはようございます、颯騨様」
顔を上げると、秋穂が俺の机の前に立っていた。
その半歩後ろには、当然のように凛が控えている。
秋穂は、昨日のことなど何もなかったかのように、にこにこと微笑んでいた。
あんな目に遭ったのに、怯えている様子はまるでない。この人の神経は、鋼か何かでできているんじゃないだろうか。
「おはようございます。……大丈夫でしたか、あれから」
「はい。颯騨様のおかげで、傷ひとつございません」
秋穂はそう言って、優雅に一礼した。
「本日も、お願いに参りました。わたくしを、助けてくださいませんか?」
「……昨日も言いましたけど」
「はい。『今は』無理だと伺いました。ですから、本日の颯騨様にお伺いしております」
理屈がおかしい。
でも、この人に理屈で勝てる気がしない。
俺が答えに詰まっていると、凛が一歩前に出た。
そして、声を落として言った。
「昨日の者たちですが、紫条通家で取り調べました」
「何か分かったんですか」
「いいえ。あの者たちは、ネットの闇サイトで仕事を請け負っただけの、ただのならず者でした。依頼主の顔も名前も知らないと。報酬は前金で振り込まれ、仕事の指示はすべて使い捨てのアカウントから届いていたそうです」
「……じゃあ、昨日の『事務方からの連絡』は?」
凛の表情が、わずかに曇った。
「学校に電話をかけてきた番号を調べましたが、紫条通家のどこにも登録のない番号でした。すでに解約されています」
つまり、誰かが紫条通家の人間を装って、凛を呼び出したということだ。
凛がそばを離れる隙を作るために。
「背後にいる者は、用心深く、頭が切れます」
凛は、唇を引き結んだ。
「ですから、今後お嬢様のお側を離れることは一切いたしません。授業中も、休み時間も、登下校も。……たとえ、お手洗いでも」
「いや、それはさすがに」
「お手洗いの前で待機します」
「まあ、凛。それでは凛がお手洗いに行けませんね」
「私は、お嬢様がお済みになってから参ります」
「それでは、その間わたくしが一人になってしまいます」
「……」
凛は、真顔のまま固まった。
どうやら、そこまでは考えていなかったらしい。
「……涼木颯騨」
「はい」
「私がお手洗いに行く間だけ、お嬢様の護衛を任せます」
「嫌ですよ!?」
とんでもない任務を押しつけられそうになった。
いろんな意味で、社会的に死ぬ。
昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、俺は立ち上がった。
昨日は結局、昼飯を食べ損ねた。今日こそは、購買で焼きそばパンを確保しなければならない。
「颯騨様、どちらへ?」
呼び止められて振り返ると、秋穂がきらきらした目でこちらを見ていた。
「購買です。昼飯を買いに」
「こうばい」
秋穂は、首をかしげた。
「それは、どのような場所なのですか?」
「……パンとか飲み物とかを売ってる、学校の中の小さな店です」
「まあ! 学校の中に、お店があるのですか?」
秋穂が、ぱっと顔を輝かせた。
そういえば聞いたことがある。華族の学校では言い付けるだけで、サービスマンが商品を持ってくるって。食事も侍女が用意するのでなければ、ウェイターが食堂で給仕する、らしい。生徒が自分で何かを買う場所なんて、きっとないのだろう。
「わたくしも、ご一緒してよろしいですか?」
「お嬢様、昼餉は私がご用意しております」
凛が、すかさず漆塗りの重箱を掲げた。
「ええ、凛のお弁当はいただきます。でも、わたくし、『こうばい』というものを見てみたいのです。この学校のことを、もっと知りたいのです」
秋穂は、凛の手をそっと握った。
「だめ、ですか?」
「……お嬢様が、そうおっしゃるのでしたら」
こいつ、弱いな。
凜は秋穂のお願いに、とてつもなく弱いとわかった。
というわけで、なぜか三人で購買へ向かうことになった。
購買の前は、すでに戦場だった。
狭いカウンターの前に、飢えた男子生徒たちが押し寄せ、我先にと腕を伸ばしている。飛び交う怒号。宙を舞う小銭。「焼きそばパン残り三つ!」というおばちゃんの叫び声。
秋穂は、その光景を見て目を丸くした。
「まあ……! 皆様、とても熱心でいらっしゃいますね」
「熱心というか、必死なんです。人気のパンは、すぐなくなるので」
「では、わたくしたちも並びましょう」
「いや、並ぶとかいう概念がないんです、ここ」
秋穂は不思議そうに首をかしげると、人だかりの最後尾に立ち、背筋を伸ばして行儀よく待ちはじめた。
当然、誰も彼女に順番を譲らない。というか、そもそも列になっていない。
「……颯騨様。わたくしの順番は、いつ来るのでしょう?」
「一生来ないと思います」
「まあ」
秋穂は、しょんぼりと肩を落とした。
その様子を見ていた凛の目が、すっと鋭くなった。
「――お嬢様を、お待たせするわけにはまいりません」
「え、ちょっと、楯岡さん?」
「私が、お嬢様の分を確保してまいります」
凛は、制服の袖をまくり上げた。
そして、俺のほうを振り返り、挑むような視線を向ける。
「涼木颯騨。あなたも、焼きそばパンを狙っているのでしょう」
「まあ、そうですけど」
「残りは三つ。勝負です」
「なんで!?」
「昨日は、あなたの速さを見極めることができませんでした。ですが、これならば分かります。どちらが先に、焼きそばパンを手にするか」
凛の目は、完全に本気だった。
昨日の一件で、どうやら士族としてのプライドに火がついてしまったらしい。
「いや、俺は普通に買えればそれで」
「参ります!」
凛が、人だかりに向かって突撃した。
速い!
押し合う男子生徒たちの隙間を、するりするりとすり抜けていく。肘をかわし、肩をいなし、背中を押しのけ、まるで流れる水のように前へ前へと進んでいく。
士族の武術というのは、どうやら購買争奪戦にも応用が利くらしい。
「おお、すげえ……」
「誰だあの子、転入生の侍女?」
「動きがプロなんだけど」
周囲がどよめく。
凛は、あっという間にカウンターの最前列へたどり着いた。
そして、勝ち誇ったように手を伸ばす。
「焼きそばパン、三つ――」
「はい、どうぞ」
おばちゃんが、焼きそばパンを差し出した。
俺に。
「……え?」
凛が、ぎこちなく横を向いた。
そこには、焼きそばパン三つと、いちご牛乳とお茶を抱えた俺が立っていた。
代金は、すでにカウンターの上に置いてある。お釣りなしのぴったり。
「な……いつの間に……!」
「……すみません。普通に買いに来ただけなんですけど」
嘘だ。
凛が突撃した瞬間、俺も少しだけ、ほんの少しだけ加速した。人だかりの頭上を越えるように、誰にも気づかれない速さで。
勝負するつもりなんてなかった。
なかったのだが、凛があまりにも本気の目をしていたので、つい。
「……っ」
凛の顔が、みるみる赤くなっていった。
怒りなのか、悔しさなのか、恥ずかしさなのか。たぶん全部だ。
「い、今のは……今のは、無効です!」
「え、なんで」
「私が、お嬢様の分を確保すると申し上げたのです! なのに、あなたが全部買い占めては、意味がないではありませんか!」
「いや、だから、これ」
俺は、焼きそばパンを一つ、凛に差し出した。
「楯岡さんの分と、紫条通さんの分。……一応、三つ買ったんで」
凛は、差し出された焼きそばパンを見つめて、固まった。
「……」
「いらないなら、俺が食いますけど」
「い、いります!」
凛は、ひったくるように焼きそばパンを受け取った。
それから、ものすごく不本意そうな顔で、小さく呟いた。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
「で、ですが! 勝負は私の負けではありません! 次は、必ず!」
「次もあるんですか」
「当然です!」
どうやら、この侍女の中で、俺は完全にライバル認定されたらしい。
面倒なことになった。
購買の帰り道、廊下の突き当たりに、自動販売機が並んでいた。
秋穂が、ぴたりと足を止めた。
「颯騨様、あれは何でしょう?」
「自動販売機です。お金を入れると、飲み物が出てくるんです」
「まあ……! お金を入れると、飲み物が!」
秋穂は、まるで魔法の箱を見るような目で自販機を見上げた。
それから、おそるおそる近づくと、自販機に向かって丁寧に一礼した。
「こんにちは。紫条通秋穂と申します。温かいお茶を、一ついただけますか?」
「……紫条通さん?」
「はい」
「それ、話しかけても出てこないです」
「まあ。では、どなたにお願いすればよいのでしょう?」
「お願いしないんです。お金を入れて、ボタンを押すんです」
「お金……」
秋穂は、小さな巾着袋を取り出した。
中から出てきたのは、黒く光るカードが一枚だけだった。
「こちらでは、いけませんか?」
「……それ、たぶん自販機に入れちゃいけないやつです」
ブラックカードだった。
初めて本物を見た。自販機のお茶を買うためにブラックカードを出す人も、初めて見た。
「お嬢様、少々お待ちください」
凛が進み出た。
その顔は、先ほどの屈辱をまだ引きずっているのか、妙に気合が入っていた。
「この機械は、私が操作いたします」
「楯岡さん、使い方わかるんですか?」
「……士族の家の者として、平民の生活についても一通りの教育は受けております」
凛は、財布から小銭を取り出すと、自販機の投入口を探して、目を細めた。
そして、なぜか返却口に百円玉を押し込もうとした。
「そこ、お釣りが出てくるところです」
「……分かっております。確認しただけです」
凛は、耳まで真っ赤になりながら、正しい投入口に硬貨を入れた。
ボタンが光る。
「お嬢様、どちらになさいますか」
「では、この『あったか~い』と書かれたお茶を」
凛がボタンを押す。
ごとん、と音がして、取り出し口にペットボトルが落ちてきた。
「まあ……!」
秋穂は、両手で口元を押さえた。
「本当に、出てまいりました……! 凛、すごいです!」
「い、いえ。この程度のこと、造作もありません」
凛は、澄ました顔で胸を張った。
さっき返却口にお金を入れようとしていたことは、なかったことにしたらしい。
秋穂は、取り出し口からペットボトルを取り出すと、それを両手で包み込むように持った。
温かさを確かめるように、そっと頬に当てる。
「温かい……」
そして、ふわりと笑った。
それは、昨日から何度も見た浮世離れした微笑みとは、少し違っていた。
もっと子どもっぽくて、もっと素直な、ただ嬉しそうな笑顔だった。
「わたくし、高峯学園では、こういうことを一度もしたことがなかったのです」
秋穂は、ペットボトルを見つめながら言った。
「何でも、誰かがしてくださいました。欲しいものは、言えば運ばれてきました。それが当たり前で、何の不自由もありませんでした」
「……いいことじゃないですか」
「ええ。でも」
秋穂は、少しだけ目を伏せた。
「婚約を解かれたとき、それまでわたくしの周りにいた方々は、皆いなくなってしまいました。お友達だと思っていた方も、わたくしを慕ってくれていると思っていた方も。……わたくしの周りにあったものは、全部、わたくしのものではなかったのかもしれません」
廊下の喧騒が、少しだけ遠くなった気がした。
「だから、嬉しいのです。自分で『こうばい』に行って。自分で……いえ、凛にしてもらいましたけれど、この箱から、お茶をいただいて」
秋穂は顔を上げると、俺を見て、それから凛を見た。
「今日は、とても楽しかったです。颯騨様、凛。ありがとうございます」
「……お嬢様」
凛が、ぐっと唇を噛んだ。
その目の端が、かすかに光っていた。
俺は、何と言っていいか分からなかった。
国家機密の漏洩疑惑。婚約破棄。昨日の誘拐未遂。
この人は、そういうものを全部一人で背負いながら、自販機のお茶ひとつでこんなふうに笑うのだ。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「……紫条通さん」
「はい」
「今度、コンビニも行ってみますか。自販機より、もっといろいろ売ってるんで」
言ってから、しまったと思った。
なんで俺は、自分から関わろうとしているんだ。
秋穂は、目をまん丸にした。
それから、今日一番の笑顔を浮かべた。
「はい! ぜひ!」
「涼木颯騨」
凛が、低い声で俺を呼んだ。
「……お嬢様を、平民の店へお連れするのであれば、当然、私も同行します」
「はい、分かってます」
「それと」
凛は、ぷいと顔を背けた。
「コンビニとやらの作法は、私もまだ存じておりません。……あとで、教えなさい」
「……了解です」
凛の耳は、また赤くなっていた。
秋穂が、くすくすと楽しそうに笑う。
手の中のペットボトルから、白い湯気がほんのりと立ちのぼっていた。
俺は、まだ秋穂の頼みに頷いていない。
国家機密だの、華族の陰謀だの、そんなものに首を突っ込むつもりもない。
ない、はずなのだが。
焼きそばパンを齧りながら、俺はなんとなく、明日のコンビニのルートを考えはじめていた。




