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第3話 一瞬のヒーロー

 教室は三階。校門までは、階段と廊下と昇降口を抜けて、およそ百二十メートル。

 普通に走れば、二十秒はかかる。


 ――それでは、間に合わない。


 俺は廊下に飛び出すと、周囲に視線を走らせた。

 放課後の廊下には、まだ何人もの生徒が残っている。ここで全力を出せば、確実に見られる。


 ――だったら、見られないくらい速く走ればいい。


 踏み込んだ。

 音が消えた。

 廊下で談笑していた女子の髪が、宙で止まって見える。誰かが落としたプリントが、ひらひらと、まるで水の中みたいにゆっくりと舞っている。

 その隙間を、俺は縫うように駆け抜けた。

 踊り場まで一歩、踊り場から一階まで、もう一歩。それだけで階段を駆け下りる。

 昇降口の下駄箱の間をすり抜け、上履きのまま外へ出た。

 背後で、遅れて風が巻き起こる気配がした。

「きゃっ」と誰かが小さく悲鳴を上げ、プリントが廊下中に散らばる音が、はるか後ろで聞こえた。

 ……ごめん。あとで誰か拾ってくれ。



 校門の外では、まさに今、事件が起きようとしていた。

 黒いワゴン車の後部ドアから、スーツ姿の男が三人降りてきていた。

 一人が、秋穂の腕を掴んでいる。もう一人が、彼女の口を塞ごうと手を伸ばしている。三人目は、周囲を見張るように立っていた。

 秋穂は、驚いたように目を丸くしていた。

 悲鳴を上げる暇さえなかったのだろう。

 引き延ばされた時間の中で、俺はそれを一つ一つ見て取った。

 秋穂の腕を掴む男の手首。

 彼女の顔に迫る、もう一人の手のひら。

 見張りの男の、スーツの内側の不自然な膨らみ。

 格闘技なんて、やったことはない。

 喧嘩だって、まともにしたことがない。


 でも、関係なかった。


 止まっている相手に、負ける理由はない。


 まず、秋穂の口に伸びていた手を、横から払った。腕を掴んでいた男の手首を握り、指を一本ずつ開かせて、秋穂から引き剥がす。

 そのまま男の膝の裏を軽く押して、体勢を崩させる。

 秋穂の肩を抱えるようにして、一歩後ろへ。これで、彼女を男たちから二メートル離した。

 次に、見張りの男。

 スーツの内側に手を突っ込み、膨らみの正体を抜き取る。黒いスタンガンだった。こんなものを女の子に使うつもりだったのかと思うと、腹の底が冷えた。

 スタンガンを遠くの植え込みに放り投げ、男の足を払う。

 最後に、三人のネクタイを順番に掴んで、ほんの少しだけ引っ張った。

 勢いのまま、三人の頭がぶつかり合う位置へと。


 俺は秋穂の隣に戻り、速度を落とした。


 世界に、音が戻ってくる。


 ごんっ、という鈍い音。

 続いて、どさどさどさ、と三人分の体がアスファルトに崩れ落ちる音。


「……え?」


 秋穂が、ぽかんと呟いた。


 彼女の目の前で、つい一瞬前まで自分を捕まえていた男たちが、団子になって伸びていた。

 三人とも白目を剥いている。死んではいない。ちゃんと手加減はした。……たぶん。


「な……なんだ、今の……!」


 運転席のサングラスの男が、上ずった声を上げた。

 何が起きたのか、まるで理解できていない顔だ。無理もない。やっている俺だって、正直ちょっと理解できていない。

 男は仲間を見捨てると決めたらしく、慌ててアクセルを踏み込んだ。

 後部ドアを開けっ放しにしたまま、ワゴン車がタイヤを軋ませて急発進する。

 追いかけることはできた。

 でも、今ここで秋穂を一人にするわけにはいかない。

 俺は走り去る車のナンバーだけ目に焼き付けて、息を吐いた。

 ……どうせ、偽造だろうけど。



「颯騨様」


 呼ばれて振り向くと、秋穂が俺を見上げていた。

 怖がっているかと思った。

 震えているかと思った。


 全然違った。


 秋穂は、両手を胸の前で組み、頬を紅潮させ、潤んだ瞳をきらきらと輝かせていた。

 まるで、絵本の中の王子様に出会ったお姫様みたいに。


「やはり……救い主の御方……!」

「いや、違います」

「違いません。わたくし、見ておりました。いいえ、見えはしませんでしたが、感じておりました。金色の風が、わたくしを包んでくださったのを」

「風じゃないです。気のせいです」

「では、この方たちは?」


 秋穂が、足元で伸びている三人を指さした。


「……転んだんじゃないですかね。三人とも。同時に」

「まあ」


 秋穂は、くすりと笑った。


「颯騨様は、嘘がお下手ですね」


 言い返せなかった。

 自分でも、これはないと思った。


「お嬢様っ!!」


 鋭い声が、校舎のほうから飛んできた。

 凛だった。

 スカートの裾を翻し、ものすごい勢いでこちらへ走ってくる。人間としては相当速い。陸上部のエースでも、たぶん勝てないだろう。

 ……俺の感覚が麻痺しているだけかもしれないが。

 凛は秋穂の前に滑り込むように立つと、その肩を掴んで頭のてっぺんからつま先まで確かめた。


「お怪我は! どこか痛むところは!」

「大丈夫です、凛。颯騨様が助けてくださいました」

「涼木颯騨が……?」


 凛の視線が、地面の三人に落ちる。

 それから、ゆっくりと俺のほうへ移った。


 その目に浮かんでいたのは、昼休みの殺気とは違うものだった。


「……職員室の窓から、見えていました」


 凛が、低い声で言った。


「お嬢様に男たちが近づくのが見えて、私はすぐに駆け出しました。ですが、窓から目を離す直前、私は確かに見たのです」


 凛は、一度言葉を切った。


「――あなたが、校門の前に『現れる』ところを」


 背中に、じわりと汗が滲んだ。


「さっきまで、そこには誰もいなかった。なのに、瞬きひとつの間に、あなたはお嬢様の隣に立っていて、男たちは地面に倒れていた」

「見間違いじゃ」

「私は士族です。幼い頃から武術の修練を積んでまいりました。人の動きを見る目には、自信があります」


 凛の声が、わずかに震えた。


「その私が、何ひとつ見えなかった。……あなたは、いったい何者ですか」


 昼休みにも、同じことを訊かれた。

 だが、今度の問いは、まるで意味が違っていた。

 俺は、答えられなかった。

 答えれば、これまで隠してきたすべてが崩れてしまう気がした。

 沈黙が落ちる。

 それを破ったのは、秋穂だった。


「凛。颯騨様は、わたくしの救い主です」

「……お嬢様、それは答えになっておりません」

「いいえ、それが答えです。それ以上のことは、颯騨様がお話ししたいと思われたときに、伺えばよいのです」


 秋穂は、穏やかに微笑んだ。


「今は、助けていただいたお礼を申し上げるのが先でしょう?」


 凛は、しばらく唇を噛んでいた。

 やがて、深く息を吐き、姿勢を正すと、俺に向かって腰を折った。

 きっちり、九十度だった。


「……お嬢様をお守りいただき、ありがとうございました。本来ならば、私がお守りすべきところでした。このご恩は、楯岡の名にかけて忘れません」

「いや、そこまでしなくても」

「ですが」


 凛は、顔を上げた。

 その目は、もう震えていなかった。いつもの、切れ長の鋭い目に戻っていた。


「お嬢様をお守りするのは、この私の役目です。次は、あなたの出る幕などありません。そのおつもりで」

「……はい」


 どうやら、礼と宣戦布告を同時にされたらしい。

 この侍女、律儀なのか負けず嫌いなのか、よく分からない。たぶん両方だ。



 校門の周りに、少しずつ人が集まりはじめていた。

 下校途中の生徒たちが、倒れている男たちを遠巻きに眺め、ひそひそと囁き合っている。スマホを構えている者もいた。


 まずい。


 俺はさりげなく、秋穂と凛の陰に隠れるように一歩下がった。


「なに、あれ。喧嘩?」

「知らない。なんか急に倒れたっぽいよ」

「ていうか、あれ転入生の……」

「涼木もいる。やっぱ付き合ってんじゃ」


 聞こえないふりをした。

 凛がスマホを取り出し、どこかへ電話をかけはじめた。

 短いやり取りのあと、通話を切って秋穂に告げる。


「紫条通家の護衛の者を呼びました。十分ほどで参ります。この者たちの身柄は、こちらで預かります」

「警察じゃなくて?」


 思わず口を挟むと、凛は俺をちらりと見た。


「お嬢様は今、世間から疑いの目を向けられているお立場です。この件が表沙汰になれば、どのような尾ひれがつくか分かりません。それに――」


 凛の目が、すっと細くなった。


「この者たちが何者で、誰に雇われたのか。それを確かめるのは、私どもの手でやりたいのです」


 その声には、静かな怒りがこもっていた。



 護衛を待つ間、気絶していた男の一人が、呻き声を上げて薄く目を開けた。

 凛が、すかさずその襟首を掴み上げる。

 女子高生とは思えない腕力だった。


「誰に頼まれたのですか。答えなさい」

「う……ぐ……」


 男は焦点の合わない目で凛を見上げ、それから、秋穂の隣にいる俺を見た。

 その顔が、ひきつった。


「な、んで……話が、違う……」

「何がです」

「侍女は、離れてるって……女一人の、はずだった……簡単な仕事だって……」


 そこまで言って、男はがくりと首を垂れた。

 再び気を失ったらしい。

 凛が、男の襟首から手を放した。

 その横顔から、血の気が引いていくのが分かった。


「……侍女は、離れている」


 凛が、呟くように繰り返した。


「私が職員室に呼ばれたのは、転入手続きの書類に不備があったからです。紫条通家の事務方から学校に、急ぎの連絡があったと……」


 秋穂が、ゆっくりと凛を見た。

 凛は、秋穂を見返した。

 二人とも、何も言わなかった。

 言わなくても、たぶん同じことを考えていた。

 凛がお嬢様のそばを離れる、そのわずかな時間。

 それを、あの男たちは最初から知っていた。

 知っていたのは、誰だ。

 凛を、秋穂から引き離したのは。

 俺は、昨夜のカトレアの言葉を思い出していた。


 ――婚約を破棄した男の、次の相手の噂。

 ――しかもその相手、秋穂嬢の妹だって話。


「……颯騨様」


 秋穂が、俺を振り返った。

 その顔には、いつもの浮世離れした微笑みはなかった。


「わたくしの敵は、どうやら、とても近くにいるようです」


 夕暮れの風が、校門の前を吹き抜けていった。


 平凡に、目立たず。


 そう言い聞かせてきた俺の足元で、何かが、もう取り返しのつかない形で動き出していた。

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