第2話 お嬢様には神様が視えるらしい
「と、とにかく! ここじゃ話ができないんで!」
教室の騒ぎが最高潮に達したところで、俺はようやく我に返った。
握られていた手をそっと引き抜き、扉のほうを指さす。
「場所、変えましょう。お願いですから」
「まあ。二人きりで、ということですの?」
秋穂が、ぽっと頬を染めた。
教室のボルテージが、さらに一段階上がった。
「違います!」
「お嬢様と二人きりになど、させるはずがありません」
凛が、俺と秋穂の間にすっと割り込む。
その目は相変わらず、今すぐにでも俺の喉笛を掻き切りそうな色をしていた。
「私も同行します。当然です」
「……ぜひ、そうしてください」
むしろ助かる。心の底から。
俺は好奇の視線を背中いっぱいに浴びながら、二人を連れて教室を出た。
廊下を歩いている間にも、すれ違う生徒たちが振り返る。噂は、たぶん俺たちより速く校内を駆け巡っている。
平凡に、目立たず。
俺のモットーは、転入生が来てからわずか半日で瓦礫と化した。
向かったのは、校舎の裏手にある古い中庭だった。日当たりが悪く、ベンチの塗装も剥げていて、昼休みでもほとんど人が来ない。一人で飯を食いたいときの、俺の秘密の場所だ。
「ここなら、まあ、誰にも聞かれないと思います」
「素敵なお庭ですね」
秋穂は、雑草の生えた花壇を眺めて、にこにこしている。
どう見ても素敵ではない。華族の感性はよく分からない。
凛はベンチをハンカチで三回拭き、さらに持参していた小さな敷物を広げてから、「どうぞ、お嬢様」と秋穂を座らせた。
それから、提げていた革の鞄を開ける。
出てきたのは、漆塗りの三段重だった。
「……弁当、ですか?」
「お嬢様の昼餉です。今朝、私が用意いたしました」
蓋が開けられる。
色とりどりの煮物、焼き魚、出汁巻き卵、季節の炊き込みご飯。料亭の仕出しかと思うような、完璧な和食がぎっしりと詰まっていた。
ぐう、と俺の腹が鳴った。
そういえば、昼飯を買いそびれていた。この時間では、購買のパンはもう全滅だろう。
今日の俺の昼食は、ゼロだ。
「颯騨様、お昼をお召し上がりになっていないのですか?」
「あ、いや、気にしないでください。大丈夫なんで」
「いけません。空腹では、お体に障ります」
秋穂は箸を取ると、出汁巻き卵をひとつつまみ上げ、そのまま俺の口元に差し出した。
「どうぞ」
「……え」
「お、お嬢様っ!?」
凛の声が裏返った。
「そ、そのような真似を、平民の男に……! せめて、せめて取り皿に!」
「凛。困っている方をお助けするのは、当然のことです」
「ですが、それは『あーん』というものです! 殿方にそれをなさるのは、婚約者か、あるいは……!」
「まあ」
秋穂はきょとんとして、それから少し考え込み、なぜか嬉しそうに頷いた。
「では、問題ありませんね」
「大ありです!!」
凛の悲鳴が中庭に響いた。
俺は差し出された卵焼きと、殺意で煮えたぎる凛の顔を見比べ、そっと自分の手で卵焼きを受け取った。
「……いただきます」
めちゃくちゃ美味かった。
凛が作ったと思うと、なんだか複雑な気分だった。
「それで、ですね」
卵焼きを飲み込んでから、俺は本題を切り出した。
「さっきの『助けてください』って、どういう意味なんですか? それに、なんで俺の名前を」
「お名前は、朝のうちに柏木先生に伺いました。先生はとても親切な方ですね」
柏木先生、生徒の個人情報をあっさり渡さないでくれ。……いや、相手が伯爵令嬢じゃ、断れるはずもないか。
秋穂は箸を置き、背筋を伸ばした。
その瞬間、彼女の雰囲気が変わった。のんびりした世間知らずのお嬢様から、どこか神聖な、近寄りがたい何かへ。
「颯騨様は、わたくしについての噂を、どこまでご存じですか?」
「……婚約破棄のこと、ですよね。国家機密を漏らした疑いをかけられたって」
「はい。わたくしの家、紫条通家は、古くから国の祭祀の一部を司ってまいりました。その祭祀の次第を記した文書が、わたくしの部屋から消え、その写しが世に出てしまったのです」
昨夜、カトレアから聞いた話と同じだった。
「わたくしは、文書を持ち出してなどおりません。ですが、それを証明する手立てもないのです。証拠がないという理由で罪には問われませんでしたが、疑いは晴れないまま。鷲羽司家からは婚約を解かれ、高峯学園にもいられなくなりました」
淡々とした口調だった。
けれど、膝の上で重ねられた指先が、かすかに白くなっているのが見えた。
「このままでは、わたくしは紫条通家の跡取りでいられなくなります。いいえ、それだけではありません。祭祀文書の原本は、今もどこかにあるのです。それが悪しき者の手にあるのなら、放っておくわけにはまいりません」
「……それで、なんで俺なんですか?」
一番の疑問を、俺はぶつけた。
「俺は普通の平民の高校生ですよ。華族の事情なんて何も分からないし、探偵でもない。助けになれるとは思えないんですけど」
「いいえ」
秋穂は、きっぱりと首を横に振った。
「わたくしには、巫女の資質があります。人より少しだけ、目に見えないものを感じ取る力があるのです」
「巫女……」
「この苦境を打ち破る鍵は、ある方との出会いにある。わたくしは、それを感じ取りました。そして卜占を重ねた末に、その方がこの中平高校にいらっしゃると分かったのです」
ぼくせん。占いのことだ。つまり彼女は、占いの結果を信じて、わざわざ平民の高校に転校してきたということか。
俺が内心で頭を抱えている間にも、秋穂は続けた。
深い色の瞳が、まっすぐに俺を捉える。
「今朝、教室であなたを見た瞬間に分かりました。颯騨様、あなたの背には――」
ほんの一瞬、彼女の視線が、俺の肩の後ろあたりに向いた。
まるで、そこに誰かが立っているかのように。
「とても速い神様が、いらっしゃいます」
中庭を、秋風が吹き抜けていった。
「……はい?」
「とても速い神様です。金色の光をまとって、風のように。あのように尊い神威をお持ちの方を、わたくしは初めて視ました」
秋穂は、うっとりと頬に手を当てた。
「そのとき、はっきりと感じたのです。この方こそ、わたくしの救い主、ヒーローだと」
俺は、無言で凛のほうを見た。
凛は、額に手を当てて天を仰いでいた。
「……お嬢様。その、お嬢様のお力を疑うわけではないのですが」
「はい、凛」
「この男は、どう見ても普通の平民です。神々しさの欠片もございません。先ほども、お腹を鳴らしておりました」
「凛にも、いずれ分かります」
「分かりたくありません」
即答だった。
俺も、凛の意見に全面的に賛成だった。
神様が視える。俺の背中に、速い神様が。
正直に言って、かなりヤバい人だと思った。いや、巫女の家系というのは本当なのだろうし、華族にはそういう世界もあるのかもしれない。でも、それにしたって。
……ただ、「速い」という一言だけが、喉に刺さった小骨みたいに引っかかっていた。
「颯騨様」
秋穂が、少しだけ声を落とした。
「あなたは、ご自分の本当の速さを、隠していらっしゃいますね」
心臓が、一拍跳ねた。
顔に出さないようにするのが精一杯だった。
誰にも言ったことはない。家族でさえ、俺がどれほど速いのかは正確に知らない。
「……何のことですか。俺、体育は中の上ですよ」
「そうですか」
秋穂は、それ以上追及しなかった。
ただ、全部分かっていますよ、とでも言いたげに、柔らかく微笑んだだけだった。
その微笑みが、なんだか一番怖かった。
「話は分かりました。でも、すみません」
俺は、立ち上がって頭を下げた。
「俺には無理です。国家機密とか、華族の揉め事とか、平民の高校生がどうにかできる話じゃない。卵焼き、ごちそうさまでした」
冷たいとは思う。
でも、俺が首を突っ込んだところで、何かが変わるとは思えなかった。それに、関われば関わるほど、この力を隠し通すのが難しくなる。
秋穂は、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げて、にっこりと笑った。
「分かりました。では、明日もお願いに参りますね」
「え」
「明後日も、その次の日も。颯騨様が頷いてくださるまで」
「いや、あの、話聞いてました?」
「はい。颯騨様は、今は無理だとおっしゃいました。『今は』ですよね?」
言ってない。
言ってないが、この人に何を言っても通じる気がしない。
隣で、凛がすっと立ち上がった。
そして、俺にだけ聞こえる声で囁く。
「涼木颯騨。ひとつだけ、申し上げておきます」
「……なんでしょう」
「お嬢様は、あのようにお優しい方です。一度信じた相手を、決して疑わない。ですから、お嬢様を傷つける者は、私が排除します。平民だろうと、華族だろうと、例外はありません」
その目は、本気だった。
冗談でも、脅しでもない。ただの事実を告げているだけの目だった。
「お嬢様のお言葉だから、今日は見逃します。ですが、もしお嬢様を悲しませるような真似をしたら――覚悟しておきなさい」
「……肝に銘じます」
俺は、それしか言えなかった。
凛はふっと表情を緩めると、何事もなかったように重箱を片付けはじめた。
秋穂は、そんな凛を見て「凛はいつも頼もしいですね」と嬉しそうに笑っていた。
この主従、どちらも別の意味で手に負えない。
午後の授業は、地獄だった。
クラス中の視線が、俺の背中に突き刺さっている。
後ろの席の男子からは「救い主様」と呼ばれ、女子のグループからはひそひそ話が聞こえてくる。「月下の姫君をどうやって落としたのか」という説は、六時間目が終わる頃には五つくらいに増えていた。
「なあ颯騨、マジで何があったんだよ」
放課後、田淵が机に身を乗り出してきた。
「何もない。俺にも分からないんだ、本当に」
「神様がどうとか、聞こえたって噂があるんだけど」
「……それは忘れてくれ」
窓際の前のほうでは、秋穂が帰り支度をしていた。
凛が、柏木先生に呼ばれて教室を出ていく。転入の手続きで、まだ書類が残っているらしい。
「お嬢様、すぐに戻ります。決して、校門の外へは出られませんように」
「ええ。門のところで待っていますね」
凛は何度も振り返りながら、職員室のほうへ消えていった。
秋穂は、一人で鞄を持って教室を出ていく。
出る直前に、俺のほうを振り返り、小さく会釈した。「また明日」と、唇が動いた気がした。
俺は、ため息をついて鞄を肩にかけた。
とにかく、今日はさっさと帰って寝よう。明日のことは明日考えればいい。
教室を出る前に、何気なく窓の外に目をやった。
校門の前の道に、黒いワゴン車が停まっていた。
窓にはスモークフィルム。エンジンはかかったまま。
運転席には、サングラスをかけた男が座っている。
それだけなら、誰かの送迎だと思っただろう。
だが、その車は、昼休みにも同じ場所に停まっていた。中庭へ向かう途中、渡り廊下の窓から、俺は確かにそれを見ていた。
ずっと、待っているのだ。
誰かが、一人で出てくるのを。
校門へ続く道を、長い黒髪の少女が、ゆっくりと歩いていく。
その足取りは、何の警戒もしていない、のんびりしたものだった。
ワゴン車の後部ドアが、音もなく開いた。
「……おい、嘘だろ」
俺は、鞄を放り出していた。




