第1話 婚約破棄は時代遅れ、らしい
この国には、今でも伯爵がいる。
侯爵も、子爵も、男爵もいる。まとめて「華族」と呼ばれる人たちが、財閥の奥座敷や専用の名門校で、俺たち平民とはまるで別の世界を生きている。
教科書には「明治以来の伝統を受け継ぐ」なんて書いてあるけど、平民の高校生からすれば、テレビの向こう側の話だ。月の裏側と大差ない。
……少なくともその日の朝まで、俺はそう思っていた。
始業のチャイムまで、あと三分。
俺――涼木颯騨は、自宅の玄関を出た瞬間に腕時計を見て、軽く絶望した。
「……寝坊した」
昨夜は明け方までオンラインゲームをやっていた。完全に自業自得だ。
家から県立中平高校までは、普通に歩けば二十五分。自転車でも十分はかかる。
俺は周囲を見回した。住宅街の路地に人影はない。防犯カメラの位置も、とっくに頭に入っている。
「……ちょっとだけ、な」
つま先に力を込める。
次の瞬間、景色が横に溶けた。
電柱が、塀が、角のパン屋の看板が、残像になって後ろへ吹き飛んでいく。風の音が一段階低く唸り、世界が引き延ばされたみたいにゆっくりになる。
交差点の手前で速度を落とし、何食わぬ顔で信号を待つ。青に変わったら、また人目のない路地に入って加速する。
校門をくぐったとき、チャイムはまだ鳴っていなかった。
所要時間、およそ一分半。
これでも、かなり手加減している。
俺は、昔から足が速い。
いや、「速い」なんて言葉じゃ足りないのは分かっている。人間の限界とか、物理法則とか、そういうものを真っ向から無視した速さだ。しかも、どれだけ速く走っても体が壊れない。
理由は知らない。物心ついたときには、もうこうだった。
小学生の頃、運動会で一度だけ本気を出して、大騒ぎになったことがある。それ以来、俺はこの力を隠して生きてきた。
体育の成績は「中の上」。部活は帰宅部。趣味はゲーム。目立たず、騒がず、平凡に。それが俺のモットーだ。
「おい颯騨、見たか? これ」
自分のクラスの教室に入るなり、前の席の田淵健吾がスマホを突き出してきた。画面には、ニュースサイトの見出しが躍っている。
『紫条通伯爵家令嬢、婚約破棄 国家機密漏洩の疑い』
「……しじょう、とおり?」
「紫条通。伯爵家だよ。そこのお嬢様が、侯爵家の息子に婚約破棄されたんだって」
「へえ」
「反応うっす!」
田淵が大げさにのけぞる。
その拍子に、手からスマホがすっぽ抜けた。
床まで、あと三十センチというところで。
俺は片手でスマホを受け止め、田淵の手に戻した。
「落とすなよ」
「お、おう……サンキュ。お前、たまに反応おかしいよな」
「気のせいだろ」
しまった、と内心で舌打ちする。反射的に動いてしまうのは、俺の悪い癖だ。
幸い、田淵はすぐにニュースの話に戻った。
「で、この婚約破棄の理由がさ、お嬢様が国家機密をマスコミに流したんじゃないかって疑惑なんだよ。結局、証拠不十分でお咎めなしになったらしいけど」
「じゃあ無実なんじゃないのか」
「世間はそう思わないって話。華族って、そういうの厳しいらしいぜ」
近くの席の女子たちも、会話に入ってきた。
「婚約破棄って、今時そんなのあるんだ」
「ねー、時代遅れすぎ。ドラマじゃないんだから」
「でも、その紫条通秋穂って人、めちゃくちゃ美人らしいよ。高峯学園の『月下の姫君』って呼ばれてたんだって」
「なにその二つ名、ウケる」
教室のあちこちで笑い声が上がる。
私立高峯学園は、華族の子女だけが通う学校だ。平民の俺たちにとっては、それこそ月の裏側みたいな場所で、そこで起きたスキャンダルなんて格好の娯楽でしかない。
俺も、正直どうでもよかった。伯爵令嬢が婚約破棄されようが、国家機密がどうなろうが、俺の生活には一ミリも関係ない。
そう思っていたのだ。本当に。
その夜。
俺は自室のパソコンの前で、ヘッドセットを装着した。
オンラインアクションゲーム『フラッシュソルジャー』。
高速戦闘がウリの対戦ゲームで、プレイヤーの反応速度がそのまま勝敗に直結する。国内の登録者数は五百万人を超え、今一番勢いのあるタイトルだと言われている。
俺のプレイヤーネームは「カトクシン」。ランキングでは、常に上位に名前が載っている。
現実では隠している「速さ」を、画面の中でだけは存分に使える。……もっとも、あまりに速すぎて、一時期チート疑惑をかけられたこともあったけれど。
対戦を三つほど終えたところで、チャット欄に通知が点いた。
【カトレア】お疲れ。今日も容赦ないわね、あなた
【カトクシン】そっちこそ、また運営の仕事サボってるだろ
【カトレア】サボってない。これも仕事のうち
カトレア。
このゲームの運営側にいる「中の人」だ。以前、俺のチート疑惑を調査しに来たのが彼女で、潔白が証明されてからは、なぜか頻繁にチャットする仲になった。
本名も顔も知らない。年齢も性別も、本当のところは分からない。ただ、文章の雰囲気からたぶん女性で、たぶん俺と歳が近い。それくらいだ。
【カトレア】ところで、今日の婚約破棄のニュース見た?
【カトクシン】教室で散々聞かされた。時代遅れだってみんな笑ってたよ
【カトレア】笑い事じゃないのよ、あれ
【カトクシン】どういうこと?
少し間があって、長めのメッセージが届いた。
【カトレア】流出したのは、紫条通家が代々管理してきた「祭祀文書」。国家祭祀の記録で、中身は政府の重要な儀式に関わるものだから、国家機密に指定されてる。それが反政府系のネットメディアにリークされたの
【カトレア】で、その文書が保管されてたのが、よりによって秋穂嬢の私室
【カトクシン】だから疑われたのか
【カトレア】そう。でも証拠は出なかった。本人も否定してる。問題はね、流出したのはコピーの画像だけで、原本は今も行方不明ってこと
【カトクシン】原本が?
【カトレア】誰が持ち出したのか、今どこにあるのか、誰も知らない。少なくとも表向きはね
俺は眉をひそめた。
昼間に聞いたゴシップより、ずいぶんきな臭い話だ。
【カトクシン】詳しいな。どこでそんな情報仕入れてくるんだよ
【カトレア】情報を集めるのは趣味みたいなもの。華族のゴシップは財界にも響くから、無視できないのよ
【カトレア】ちなみに、婚約を破棄した鷲羽司家の三男。もう次の相手の噂が出てる
【カトクシン】早すぎないか
【カトレア】しかもその相手、秋穂嬢の妹だって話
【カトクシン】……それ、どう考えても怪しいだろ
【カトレア】でしょう?
画面越しに、カトレアが肩をすくめる姿が見えた気がした。
【カトクシン】まあ、俺には関係ない話だけどな
【カトレア】そういうこと言う人に限って、巻き込まれるのよ
【カトクシン】縁起でもないこと言うなよ
【カトレア】あ、そうそう。秋穂嬢、高峯学園を辞めて転校するらしいわよ
【カトクシン】どこに?
【カトレア】さあ。そこまでは掴めなかった
そのとき俺は、画面の文字を大して気にも留めていなかった。
伯爵令嬢がどこへ行こうと、俺の知ったことじゃない。
――翌朝、その答えを自分の目で見ることになるなんて、思いもしなかった。
「えー、急な話なんだが、今日からこのクラスに転入生が来る」
朝のホームルーム。
担任の柏木先生が、いつになく緊張した面持ちで教壇に立っていた。ネクタイが微妙に曲がっている。
「転入生? この時期に?」
「男子? 女子?」
ざわつく教室を、先生が咳払いで制した。
「それと、その……くれぐれも、失礼のないように。いいな?」
先生の言葉の意味が分からないまま、教室の前の扉が開いた。
入ってきた少女を見た瞬間、クラス全員が息を呑んだ。
腰まで届く、艶やかな黒髪。
透き通るような白い肌に、どこか遠くを見ているような、深い色の瞳。
同じ中平高校の制服を着ているはずなのに、彼女の周りだけ空気の質が違って見えた。静かな神社の境内にでも迷い込んだような、そんな錯覚。
美人、という言葉では足りなかった。
神秘的、と言ったほうがまだ近い。
その少女の半歩後ろに、もう一人。
長い黒髪を高い位置でひとつに結んだ、切れ長の目の少女が控えていた。背筋がまっすぐに伸び、両手には自分のものと思しき鞄と、もう一つ上品な革の鞄を提げている。
鋭い視線が、教室の隅々まで油断なく走った。まるで、危険物がないか確認するみたいに。
黒板の前で、最初の少女が静かに一礼した。
「紫条通秋穂と申します。本日より、こちらでお世話になります。皆様、どうぞよしなに」
鈴を転がすような声だった。
教室が、完全に凍りついた。
紫条通。昨日、クラス中が笑いのネタにしていた、あの名前だ。
田淵が振り返り、口をぱくぱくさせながら俺を見た。俺も同じような顔をしていたと思う。
続いて、後ろの少女が一歩前に出た。
「楯岡凛です。紫条通家にお仕えする士族の家の者で、秋穂お嬢様の侍女を務めております」
凛と名乗った少女は、そこで教室を見渡し、はっきりと言った。
「お嬢様に無用に近づく方には、相応の覚悟をしていただきます。以上です」
温度が、さらに三度くらい下がった。
士族。華族に仕える家来の家柄で、男は護衛、女は侍女になる。華族の子女が学校に通うときは、同じ学校に付き随うのが習わしだと聞いたことがある。
つまり、伯爵令嬢が本物の侍女を連れて、平民の高校にやってきたということだ。
「……と、とりあえず、二人の席は窓際の前のほうに用意してある。紫条通さん、楯岡さん、どうぞ」
柏木先生に促され、二人が席へ向かう。
そのとき、ふと視線を感じた。
顔を上げると、紫条通秋穂が、教室の後ろのほうに座る俺をじっと見ていた。
深い色の瞳が、わずかに見開かれている。まるで、探していたものをようやく見つけたみたいに。
……いや、気のせいだろう。
俺はさりげなく目を逸らした。平凡に、目立たず。それが俺のモットーだ。
午前中の授業は、誰もまともに集中できていなかった。
休み時間になるたび、クラスメートたちが遠巻きに秋穂の様子をうかがう。何人かの勇者が話しかけようと近づいたが、そのたびに楯岡凛が音もなく立ち塞がり、無言の圧で追い返した。
鉄壁の守りだった。
その間も、俺は何度か視線を感じていた。
授業中、黒板を見ているはずの秋穂嬢が、振り返ってこちらを見ている。目が合うと、彼女はほんの少し頬を染めて前を向く。そしてまた、しばらくすると振り返る。
「……おい颯騨。お前、なんかしたのか?」
二時間目の後、田淵が小声で訊いてきた。
「何もしてない。会ったこともない」
「じゃあなんで、あんなに見られてんだよ」
「俺が知りたい」
本当に、心当たりがなかった。
伯爵令嬢と平民の俺に、接点なんてあるはずがない。
そして、昼休み。
四時間目の終わりを告げるチャイムと同時に、俺は財布を掴んで立ち上がった。
中平高校の購買は、昼休み開始から五分で人気のパンが消える戦場だ。いつもなら、人目につかない程度に「少しだけ」急いで確保しに行く。
だが、教室の扉へ向かおうとした俺の前に、すっと人影が立った。
紫条通秋穂だった。
教室中の視線が、一斉に俺たちに集まる。弁当を広げかけていた生徒も、廊下へ出かけていた生徒も、全員が動きを止めていた。
間近で見る彼女は、遠目よりもさらに現実感がなかった。
ほのかに、白檀のような香りがした。
「涼木颯騨様、でいらっしゃいますね」
「え……あ、はい。そうですけど」
なんで俺の名前を、と訊く前に。
秋穂は、俺の右手を両手でそっと包み込んだ。
ひんやりとした、細い指だった。
「助けてください」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
秋穂は、まっすぐに俺の目を見つめている。冗談を言っている顔ではなかった。
「わたくし、ずっと探していたのです。わたくしを救ってくださる方を」
深い色の瞳が、潤んだように揺れる。
「あなたが――わたくしの救い主です」
一拍の沈黙があって。
次の瞬間、教室が爆発した。
「はあああああ!?」
「救い主って何!?」
「涼木、お前いつの間に!?」
「え、え、告白? 今の告白!?」
阿鼻叫喚の中、俺はただ固まっていた。
手を握られたまま、何ひとつ状況が理解できない。
そして。
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。
秋穂の肩越しに、楯岡凛が立っていた。
表情は静かだった。だが、その切れ長の目は、獲物を見定める猛禽そのものだった。周囲の空気が、ぴりぴりと張り詰めていくのが分かる。
これが殺気というやつか、と俺は他人事のように思った。
「……お嬢様」
凛が、低い声で言った。
視線は、一瞬たりとも俺から外れない。
「この男は、何者ですか」
俺が聞きたい。心の底から。
頭の片隅で、昨夜のカトレアの言葉がよみがえった。
――そういうこと言う人に限って、巻き込まれるのよ。
どうやら。
俺の平凡な日常は、今日で終わりらしい。




