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第22話 懺悔

 十一月十五日、土曜日。午前八時。

 俺は、高峯学園の正門から二百メートルほど離れた、公園のベンチに座っていた。

 高峯学園高等部。

 華族の子女だけが通う、中高一貫の私立校。

 初めて見る校舎だった。

 門は、黒い鉄の両開き。

 その両脇に、石造りの門柱が立っている。柱の上には、学園の紋章らしき彫刻。

 門の内側には、まっすぐな石畳の道が伸びていた。

 その両側に、よく手入れされた芝生と、背の高い木立。

 校舎は、見えなかった。

 木立の向こうにあるらしい。門の外からは、建物の屋根の一部しか見えない。

 中平高校とは、何もかもが違った。

 塀の高さも。門の構えも。

 門の前に停まる車の数も。

 八時を過ぎると、黒塗りの車が次々と門の前に停まりはじめた。

 運転手が降りてドアを開け、制服姿の生徒が降りる。そして、車が去っていく。

 土曜日なのに、生徒が登校している。


『高峯学園は、土曜も午前は授業があるの』


 耳元で、蘭花先輩の声がした。


『四時間授業。終わるのは十二時十五分。……稔彦は剣道部の主将だけど、第三土曜だけは、部活の記録がない』

「つまり、十二時過ぎに出てくるんですね」

『そう。四時間、暇よ。その辺で座ってて』

「はい」

『あ、でも、一つ気をつけて』

「なんですか」

『高峯学園の周り、警備が厳しいのよ』


 蘭花先輩の声が、硬くなった。


『華族の子女が集まる場所だから、学園が雇ってる警備会社が、周辺を巡回してる。……不審者は、すぐに声をかけられる』


 俺は、辺りを見回した。

 公園には、犬の散歩をしている人が何人かいるだけだった。

 でも、言われてみれば。

 公園の入り口のあたりに、黒いワゴン車が停まっていた。

 中に、人影がある。


「……先輩。警備の車って、黒いワゴンですか」

『たぶんね。見つかった?』

「公園の入り口にいます」

『じゃあ、公園から出て。……駅前のファストフード店に移動して』

「でも、門が見えなくなります」

『いいの。私が門を見てるから』


 蘭花先輩が、淡々と言った。


『この辺のコンビニとパチンコ屋の防犯カメラ、全部ネットに繋がってるのよ。設定が初期パスワードのまま』

「……それ、見ていいんですか」

『見てない。たまたま映ってた』

「…………」


『ほら、早く移動して』



 駅前のファストフード店の二階は、空いていた。

 俺は、窓際の席に座って、コーヒーを一杯だけ買った。

 そのまま、三時間半、そこにいた。

 店員が時々、怪訝そうにこちらを見た。

 高校生が一人で、土曜の午前中からコーヒー一杯で粘っているのだから、まあ当然だ。

 スマホで、ニュースを確認した。

 記事は、まだ続いていた。

 『週刊事実』の続報が、三本出ていた。

 内容はどれも薄かった。「中平高校の生徒が語る」「近隣住民の声」。要するに、誰かが適当に喋ったことを並べているだけだ。

 SNSの書き込みは、少しだけ減っていた。

 一週間も経っていないのに、もう次の話題に移りはじめている。


 ――それが、一番腹が立つことかもしれない、と思った。


 人の人生をひっくり返して、数日で忘れていく。

 秋穂のアカウントは、更新されていなかった。

 もともと、SNSはやっていないのだろう。

 メッセージは、五通になった。

 どれも、既読にならなかった。



『――出てきたわ』


 十二時二十二分。

 蘭花先輩の声に、俺は立ち上がった。


「稔彦ですか」

『そう。……ちょっと、変よ』

「変?」

『制服じゃない』


 俺は、階段を駆け下りた。


『私服。グレーのコートに、紺のパンツ。それに、黒いキャップをかぶってる』

「キャップ?」

『目深に。……顔を隠すように』


 俺は、店の外に出た。

 高峯学園の方向へ、歩き出す。


『それだけじゃない。……車に乗ってない』

「え」


『門の前に、鷲羽司家の車が停まってるのよ。運転手も立ってる。……でも、稔彦はそっちに行かずに、反対方向へ歩いてる』


 俺は、足を速めた。


『待って。見失った』

「え!?」

『カメラの範囲外に出た。……ごめん』


 俺は、立ち止まった。

 目の前は、住宅街だった。

 古い屋敷と新しいマンションが混ざった、静かな通り。

 人影は、ほとんどない。


「どっちに行きました」

『門から西へ。……たぶん、二本目の通りを南に曲がった』


 俺は、息を吸った。

 そして、周囲を確認した。

 人がいない。カメラも、見える範囲にはない。

 地面を蹴った。

 音が、消えた。

 二本目の通り。南へ。


 ――いた。


 百メートル先。

 グレーのコートに、黒いキャップ。

 背の高い青年が、一人で歩いていた。

 俺は、速度を落とした。

 音が、戻ってくる。

 五十メートルほど後ろに距離を取り、普通の速度で歩き出した。


「見つけました」

『よかった。……どんな様子?』

「普通に歩いてます。……でも」


 俺は、稔彦の背中を見ていた。


「何回も、後ろを見てます」

『警戒してる?』

「いえ。……違う気がします」


 稔彦は、曲がり角に来るたびに、立ち止まって後ろを確認していた。

 だが、その仕草は、尾行を警戒しているというより。


「……誰かに見られてないか、確かめてる感じです」

『どっちも同じじゃない?』

「違います」


 俺は、言った。


「悪いことをしに行く人の歩き方じゃないです。……隠れて、悪いことをしてる人の歩き方です」


 電話の向こうが、少し黙った。


『……どういう意味?』

「分かりません。でも、そういう感じなんです」



 稔彦は、駅に入った。

 高峯学園の最寄り駅ではなく、歩いて十五分ほど離れた、別の路線の駅だった。

 改札を抜け、ホームに降りる。

 俺は、少し離れた位置から見ていた。

 稔彦は、ホームの一番端に立っていた。

 人の少ない場所を選んでいる。

 電車が来た。

 稔彦は、一番前の車両に乗った。

 俺は、隣の車両に乗った。

 土曜の昼の電車は、空いていた。

 連結部のガラス越しに、稔彦の姿が見えた。

 座席に座り、キャップを目深に下ろして、じっとしている。

 膝の上に、小さなトートバッグを置いていた。

 四十分、電車は走った。

 都心を抜け、郊外へ。

 車窓の風景が、だんだん低くなっていく。ビルが減り、一戸建てが増え、やがて畑と工場が混ざりはじめた。

 稔彦は、一度もスマホを見なかった。

 ただ、窓の外を見ていた。

 その横顔を、俺はガラス越しに見ていた。

 週刊誌の写真よりも、ずっと若く見えた。

 そして、ずっと疲れて見えた。


 ――こいつが、秋穂を大勢の前で切り捨てた男だ。


 そう思おうとした。

 なのに、なぜか、うまく憎めなかった。



 降りたのは、知らない名前の駅だった。

 改札を出ると、小さなロータリーがあった。

 バス停が三つ。タクシーは一台も停まっていない。

 稔彦は、バス停に並んだ。

 俺は、少し離れた自動販売機の陰に立った。

 バスが来た。

 乗客は、五人ほどだった。

 稔彦が乗る。

 俺も、最後に乗った。

 一番後ろの席に座る。

 稔彦は、前から三番目の、窓際に座っていた。

 バスは、二十分走った。

 窓の外は、だんだん寂しくなっていった。

 田んぼ。資材置き場。閉まったままのガソリンスタンド。


『颯騨くん。位置、取れてる』


 蘭花先輩が言った。


『そのバス、終点までで九つ停留所があるわ。……周辺に何があるか調べてる』

「お願いします」

『今のところ、目立つものは何も……あ』

「何かありましたか」

『介護施設が一つ』


 俺は、顔を上げた。


『特別養護老人ホーム。……規模は小さいわね。定員五十人くらい』

「名前は」

『「陽だまりの家」』


 バスが、停留所に停まった。

 アナウンスが、流れた。


『――次は、陽だまりの家前。陽だまりの家前です』


 前のほうで、降車ボタンが押された。

 稔彦が、立ち上がった。



「陽だまりの家」は、二階建ての、小さな建物だった。

 クリーム色の外壁。

 瓦のような形をした、オレンジ色の屋根。

 敷地は広くないが、裏手に小さな庭があるようだった。

 駐車場には、軽自動車が三台。

 玄関には、手作りらしい看板が立てられていた。『十一月のお誕生日 おめでとうございます』と、色紙で飾られている。

 稔彦は、玄関の前で立ち止まった。

 そして、キャップを取った。

 髪を手で整え、コートの襟を直す。

 それから、トートバッグを持ち直して、自動ドアをくぐった。

 俺は、道の向かいの電柱の陰から、それを見ていた。


「……先輩」

『どうしたの』

「介護施設に入りました」

『入った?』

「はい。……慣れてる感じでした。玄関の前で、服を直してました」


 電話の向こうが、静かになった。


『……颯騨くん』

「はい」

『それ、誰かの見舞いよ』

「でしょうね」

『毎月、第三土曜日。……三年間、一度も休まずに』


 俺は、建物を見上げた。

 二階の窓に、洗濯物が干されていた。

 タオルと、寝間着のようなものが、十一月の風に揺れている。


「先輩」

『なに』

「この施設の入居者、調べられますか」

『無理よ』


 蘭花先輩は、即座に言った。


『個人情報の中でも、一番厳しいやつ。……それに、私はやらない』

「……はい」

『介護施設の入居者名簿を抜くのは、絶対にやらないわ。たとえ技術的にできても』


 蘭花先輩の声は、きっぱりとしていた。


『そこに住んでる人たちは、この件に何の関係もない。……関係ない人を踏むのは、春花と同じことよ』


 俺は、拳を握った。


「すみません」

『謝らなくていい。……でも、やらない』

「分かりました」


 俺は、建物を見た。

 裏手に回る小道があった。

 ブロック塀と、低い生け垣。その向こうが、庭らしい。


「……先輩。俺、ちょっと裏から見てきます」

『颯騨くん』

「覗くだけです。何も盗りません」

『…………』

「それも、駄目ですか」

 長い沈黙があった。

『……十分だけ』


 蘭花先輩は、言った。


『それ以上はやめて。……それと、職員さんに見つかったら、素直に謝って帰りなさい。絶対に逃げないで』

「はい」



 裏の庭は、思ったより狭かった。

 花壇がひとつ。ベンチが二脚。

 物干し台と、小さな藤棚。

 藤棚の下に、車椅子が二台置かれていた。

 一階の窓が、三つ見えた。

 それぞれ、カーテンが半分だけ開いている。

 一番手前の窓。

 俺は、生け垣の陰に身を低くして、そこを見た。

 六畳ほどの部屋だった。

 介護用のベッドがひとつ。

 小さなタンス。棚の上に、テレビ。壁に、カレンダー。

 ベッドのそばに、車椅子があった。

 そこに、小さな老婦人が座っていた。

 八十代だろうか。

 白い髪を短く整えて、薄桃色のカーディガンを着ている。

 体は小さく、膝の上に毛布がかけられていた。

 そして、その前に。

 鷲羽司稔彦が、床に膝をついて座っていた。

 コートを脱いで、きちんと畳んで脇に置いている。

 トートバッグから、何かを取り出していた。

 和菓子の箱だった。


「――ふじさん」


 窓が、少し開いていた。

 声が、はっきりと聞こえた。


「ふじさん。いらぎのお菓子を持ってきました」


 稔彦は、箱を開けた。

 中には、小さな最中が並んでいた。


「覚えていますか。昔、ふじさんが僕に買ってくださった」


 老婦人は、稔彦を見ていた。

 その目は、穏やかだった。

 だが、どこか、焦点が合っていなかった。


「……どなた、ですか」


 老婦人が、言った。

 稔彦の手が、わずかに止まった。


「稔彦です」

「としひこ」

「はい。鷲羽司の、稔彦です」

「……わしゅうつかさ」


 老婦人は、少し考え込んだ。

 それから、にっこりと笑った。


「まあ。それじゃあ、克彦坊ちゃまのお弟さん?」


 稔彦は、答えなかった。

 ただ、小さく頷いた。


「はい。……そうです」

「あらまあ。大きくなられて」


 老婦人は、稔彦の顔を見た。


「坊ちゃまは、お元気ですか」

「元気です」

「学校は、楽しいですか」

「……はい」


 稔彦は、最中を一つ、懐紙に乗せた。


「ふじさん。食べられますか」

「まあ、ありがとうございます」


 老婦人は、震える手で最中を受け取った。

 そして、ほんの少しだけ、かじった。


「……美味しい」

「よかった」


 稔彦の声が、ほんの少しだけ、緩んだ。

 俺は、生け垣の陰で、動けなかった。



 三十分ほど、稔彦はそこにいた。

 老婦人は、何度も同じことを訊いた。


「どなた、ですか」

「坊ちゃまは、お元気ですか」

「学校は、楽しいですか」


 稔彦は、そのたびに、同じように答えた。


「稔彦です」

「元気です」

「はい」


 一度も、苛立たなかった。

 途中で、職員の女性が部屋に来た。


「鷲羽司さん、いつもありがとうございます」


「いえ。こちらこそ」

「ふじさん、今日は機嫌がよろしいですよ。朝から、お庭の藤を見てらして」

「藤は、もう咲いていませんが」

「ええ。でも、見てらっしゃるんです」


 職員の女性は、笑った。


「ふじさん、お名前が藤でしょう。だから、藤棚がお好きなんですよ」

「……そうですか」


 職員が去った後、稔彦は老婦人の手を取った。

 小さな手だった。

 皺の寄った、骨の浮いた手。


「ふじさん」

「はい」

「僕を、覚えていますか」

「……どなた、ですか」


 稔彦は、少し笑った。

 笑ったのに、その顔は泣きそうだった。


「稔彦です」

「としひこ」

「はい」


 稔彦は、老婦人の手を握ったまま、俯いた。

 そして、小さな声で言った。


「……ふじさん。僕は、取り返しのつかないことをしました」


 俺の心臓が、跳ねた。

 老婦人は、きょとんと稔彦を見ていた。


「人を、一人、駄目にしました」


 稔彦の声は、震えていた。


「とても優秀で、とても真面目で、僕なんかよりよほど立派な人でした。……その人を、僕は、大勢の前で切り捨てました」

「…………」


「それだけじゃありません。その人の名前を汚して、家から追い出して。……それを、全部、僕がやりました」


 稔彦は、顔を上げた。


「どうしてそんなことをしたのか、自分でも分かりません」

「…………」

「いえ。嘘です。分かっています」


 稔彦は、首を横に振った。


「怖かったのです」


 その声が、窓越しに、はっきりと聞こえた。


「あの人と並んで立っていると、僕は、ずっと自分が小さくなっていくような気がしました」

「…………」

「父は、兄たちのことばかり話します。母は、僕に『あなたは紫条通家に入るのだから、しっかりなさい』と言います。……紫条通家に入れば、僕は『三男』ではなくなる。そう思っていました」


 稔彦は、老婦人の手を握りしめた。


「でも、違いました」

「…………」


「あの家に入っても、僕は『あの優秀な秋穂さんの夫』になるだけでした」


 俺は、唇を噛んだ。


「それが、どうしようもなく怖かったのです。……情けない話です」


 老婦人は、何も言わなかった。

 ただ、握られた手を、そのままにしていた。


「春花さんが、言いました。『稔彦様は、お姉様より立派です』と」


 稔彦の声が、低くなった。


「初めてでした。そんなことを言われたのは」


 俺は、ぞっとした。


 ――それが、全部の始まりだったのか。


 春花が、たった一言。

 この男が、一番言われたかった言葉を。


「嘘だと、分かっていました」


 稔彦は、言った。


「あの人が、僕のことなど何も思っていないのは、最初から分かっていたのです。……それでも、僕は、その言葉が欲しかった」


 稔彦は、俯いた。


「それで、僕は、人一人の人生を壊しました」


 庭を、風が吹き抜けた。

 藤棚の、枯れた蔓が、かさかさと音を立てた。


「ふじさん」

「はい」

「僕は、どうすればいいでしょうか」


 老婦人は、しばらく稔彦を見ていた。

 それから、空いている手を、ゆっくりと持ち上げた。

 そして、稔彦の頭に乗せた。


「……坊ちゃま」

「…………」

「泣いていいんですよ」


 稔彦の肩が、びくりと震えた。


「坊ちゃまは、いつも我慢なさる」


 老婦人の手が、稔彦の頭を撫でた。


「いつも、克彦坊ちゃまと慎二坊ちゃまの後ろで、じっとしておられて。……ふじは、見ておりましたよ」


 稔彦が、顔を上げた。

 その目から、涙が流れていた。


「ふじさん」

「はい」

「覚えて、いるんですか」


 老婦人は、不思議そうに首をかしげた。


「……どなた、ですか」


 稔彦は、声を上げて泣きはじめた。

 老婦人の膝に顔を伏せて。

 子どものように。

 老婦人は、その頭を、ゆっくりと撫で続けていた。


「よしよし。……よしよし」


 俺は、生け垣の陰で、ただそれを見ていた。

 憎むはずだった。

 この男が、秋穂を大勢の前で切り捨てた。

 この男が、祭祀文書の写真を撮った。

 この男が、原本を持ち去った。

 憎んで当然の相手だった。

 なのに。

 俺の喉は、詰まっていた。



 やがて、稔彦は顔を上げた。

 目を拭い、鼻をすすり、コートを手に取った。

 そして、立ち上がる前に、もう一度、老婦人の手を握った。


「ふじさん」

「はい」

「あれは、ふじさんのお部屋に置いてあります」


 俺の全身が、強張った。


「誰も入らない部屋ですから。……誰も、探しません」


 稔彦は、静かに言った。


「あれを捨てられないのは、僕が臆病だからです。……でも、捨てないでおけば、まだ戻せる気がするのです」

「…………」

「いつか、戻せる日が来るでしょうか」


 老婦人は、きょとんとしていた。


「……どなた、ですか」

「稔彦です」


 稔彦は、小さく笑った。


「また、来月来ます」


 そして、立ち上がった。

 コートを着て、トートバッグを持ち、和菓子の箱を棚の上に置く。

 部屋を出る前に、もう一度、振り返った。


「ふじさん。……ありがとうございます」


 稔彦は、頭を下げた。

 そして、部屋を出ていった。



 俺は、生け垣の陰から、そっと離れた。

 心臓が、うるさく鳴っていた。


「……先輩」

『颯騨くん。十分過ぎてるわよ』

「すみません。……でも」


 俺は、唾を飲んだ。


「分かりました」

『何が』

「原本の場所です」


 電話の向こうが、静まり返った。


『……本当に?』

「稔彦が、言いました。『あれは、ふじさんのお部屋に置いてあります』って」

『ふじさん?』

「あの施設にいる、お婆さんの名前です。鶴見ふじさん……かどうかは分かりませんけど、『ふじ』って呼ばれてました」


 俺は、建物を振り返った。


「稔彦の、たぶん、乳母だった人です」


『……乳母』

「『克彦坊ちゃまのお弟さん』って言ってました。……稔彦のお兄さんたちも、知ってる人です」


 蘭花先輩が、短く息を吐いた。


『つまり、鷲羽司家で働いていた人ね』

「はい」

『で、「ふじさんのお部屋」っていうのは』

「分かりません」


 俺は、正直に言った。


「でも、『誰も入らない部屋』だって言ってました。『誰も探さない』って」


 電話の向こうで、キーボードを叩く音が始まった。


『鷲羽司家の本邸。……使用人の部屋ってことかしら』

「たぶん」

『でも、乳母が退職したなら、部屋は片付けられてるはずよね』

「それが、片付けられてないんだと思います」


 俺は、言った。


「あの人、認知症です。……自分で退職を決めたんじゃなくて、ある日、戻れなくなったんじゃないでしょうか」


 電話の向こうが、静かになった。


『……そういうこと』

「はい」

『荷物を引き取る人もいなくて、そのまま残ってる』

「稔彦は、毎月そこに通ってます」


 俺は、拳を握った。


「あの人の部屋を、たぶん、片付けさせてないんです」

『……颯騨くん』

「はい」

『あなた、それ、全部推測よ』

「分かってます」

『でも、たぶん合ってる』


 蘭花先輩の声が、硬くなった。


『鷲羽司侯爵家の本邸。……都内の、一等地よ』

「場所、分かりますか」

『分かるわ。……でも、颯騨くん』


 蘭花先輩が、言った。


『そこは、葉山の別邸とは比べものにならないわよ』


 俺は、空を見上げた。

 十一月の空は、もう傾きはじめていた。



 道に出たとき、稔彦の姿は、バス停のほうに見えた。

 俺は、少し距離を置いて歩き出した。


 ――帰りも、尾行するべきか。


 迷った。

 もう、必要な情報は取れた。

 これ以上近づくのは、危険かもしれない。

 そう思いながら、三十メートルほど歩いたとき。

 バス停の前に、一台の車が停まった。

 黒い、国産のセダン。

 運転席のドアが開いて、男が降りた。

 俺の足が、止まった。

 短く刈り込んだ髪。

 日に焼けた、彫りの深い顔。

 そして、右の眉の上に走る、古い傷跡。

 久世遼平だった。

 稔彦が、驚いたように顔を上げた。


「……久世さん?」

「お迎えに上がりました」


 久世は、後部座席のドアを開けた。


「なぜ、ここに」

「旦様から、若様の警護を命じられております」

「僕は、警護など頼んでいません」

「頼まれておられるのは、旦様です」


 久世は、淡々と言った。


「どうぞ」


 稔彦は、しばらく立ち尽くしていた。

 それから、諦めたように、車に乗り込んだ。

 ドアが、閉まる。

 久世は、運転席に戻りかけた。

 そして。

 ゆっくりと、こちらを向いた。

 俺は、動けなかった。

 距離は、三十メートル。

 道に、他に人はいなかった。

 隠れる場所もなかった。

 久世は、俺を見ていた。

 その顔には、何の表情もなかった。

 やがて、久世が口を開いた。


「……早いな」


 声が、よく通った。


「もう、ここまで来たか」


 俺は、拳を握った。


「久世さん」

「ああ」

「今度は、どっちの仕事ですか」


 久世は、小さく肩をすくめた。


「若様の、送り迎えだ」

「それだけですか」

「それだけだ」


 久世は、車の屋根に手を置いた。


「葉山の仕事は、終わった。……あれは、春花様からの依頼だった」


 俺の背筋が、伸びた。

「今度の雇い主は、鷲羽司の旦様だ。……仕事は、若様の警護」

「…………」

「つまりだ、小僧」


 久世は、静かに言った。


「俺は、もう、あの娘さんを閉じ込める側にはおらん」


 風が、吹いた。

 俺は、その言葉の意味を、必死に考えた。


「……どういう意味ですか」

「言葉どおりだ」


 久世は、運転席のドアを開けた。

 そして、乗り込む前に、一度だけ振り返った。


「小僧」

「はい」

「次に会う場所は、分かっているな」


 俺は、答えなかった。

「来るなら、来い」


 久世の目は、静かだった。

 怒りも、脅しもなかった。


「ただし、覚えておけ」


 久世は、言った。


「あの家には、俺のほかに、十二人おる」


 ドアが、閉まった。

 車が、走り去った。

 俺は、しばらくその場に立っていた。

 やがて、耳元で、蘭花先輩の声がした。


『……颯騨くん』

「はい」

『今の、全部聞こえてた』

「そうですか」

『十二人って言ったわね』

「言いました」


 俺は、空を見上げた。

 十一月十五日、午後三時。

 十二月二十三日まで、あと三十八日。


『……颯騨くん』

「はい」

『家に帰ったら、すぐ準備室に来て』


 蘭花先輩の声が、変わっていた。


『作戦会議よ。……今度は、本邸に乗り込むんだから』



(第22話・了)


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