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第21話 迎えに行く資格

 記者が帰ったのは、夜の十一時過ぎだった。

 正確には、帰ったのではない。

 黒澤さんが電話で駆けつけて、一人一人に名刺を渡し、「次に敷地内に入られた場合は、住居侵入で告訴します」と告げたからだ。

 それでも、車は道の向かいに停まったままだった。


「……申し訳ありません。追い払うところまでは、できません」


 居間で、黒澤さんが言った。


「公道に停めている限り、法的には何もできないのです」

「あの、ご迷惑をおかけして」


 母さんが、頭を下げた。


「迷惑ではありません。こちらが依頼を受けている案件です」


 黒澤さんは、鞄から書類を取り出した。


「涼木さん。ご家族に、いくつかお願いがあります」

「はい」

「一つ。記者の質問に、一言も答えないでください。『はい』も『いいえ』も含めて、何も」

「……はい」

「二つ。玄関先での撮影は、はっきりと拒否してください。『撮らないでください』と、声に出して。それが録音されていれば、後で使えます」


 黒澤さんは、三本目の指を立てた。


「三つ。これが一番大事です」


 黒澤さんは、母さんと、そして台所の椅子に座っている父さんを、順番に見た。


「颯騨さんを、怒らないでください」


 居間が、静まり返った。


「こういう事態になると、ご家族はたいてい、お子さんを責めます。『お前が余計なことをしたからだ』と」


 黒澤さんは、淡々と言った。


「それは、向こうの狙いです。家庭の中から崩すのが、一番安く済みますから」


 母さんが、はっと顔を上げた。

 父さんは、何も言わなかった。

 腕を組んで、湯呑みを見下ろしている。

 帰宅してから、ほとんど口を開いていなかった。


「……黒澤さん」


 父さんが、ようやく言った。


「はい」

「息子は、何をしたんですか」


 俺の背中が、冷たくなった。


「颯騨さんは」


 黒澤さんが、答えようとした。

 それを、父さんが手で止めた。


「いや。本人から聞きます」


 父さんが、俺のほうを向いた。

 五十二歳。小さな製造会社の、現場の係長。

 無口で、怒ったのを見たことがない人だった。


「颯騨」

「……はい」

「お前がやったことを、全部言ってみろ」


 俺は、唾を飲んだ。

 黒澤さんが、わずかに身を硬くした。

 たぶん、止めるべきか迷っている顔だった。

 でも、俺は口を開いた。


「クラスメートの女の子が、やってないことで疑われて、婚約を破棄されて、家も追い出されそうになってました」


 父さんは、黙って聞いていた。


「その女の子の家で働いてた人が、無理やり罪を背負わされて、二か月間、ずっと部屋に閉じ込められてました」

「…………」

「それを、助けました」


 俺は、父さんの目を見た。


「全部終わったら、ちゃんと説明します。今はできないことも多いです。……でも、やったのは、それだけです」


 長い沈黙があった。

 父さんは、湯呑みを持ち上げて、冷めた茶を飲んだ。

 そして、湯呑みを置いた。


「……そうか」


 それだけだった。


「それ以上は、訊かん」


 父さんは、立ち上がった。


「母さん。明日、パートは休め」

「でも、お父さん」

「店に迷惑がかかる。先に休むと言っておけば、店長も助かる」


 父さんは、台所の電気を消した。


「俺の会社にも、たぶん電話が来る。……まあ、工場だ。電話は事務が取る。俺のところまでは来ん」

「お父さん……」

「颯騨」

「はい」

「学校は、行け」


 父さんは、廊下に向かって歩き出した。


「行かないと、認めたことになる」


 そして、振り返らずに言った。


「風呂、沸いてるぞ」


 俺は、何も言えなかった。

 ただ、父さんの背中を見ていた。



 翌日、月曜日。

 校門の前に、人が立っていた。

 記者だった。

 四人いた。カメラを構えた者もいる。

 登校してくる生徒たちが、驚いて足を止めていた。

 俺は、少し離れた塀の陰から、それを見ていた。


 ――どうするか。


 加速して通り抜けるのは簡単だ。

 だが、それをやったら、「涼木颯騨が一瞬で消えた」という話が、記者の口から広まる。

 普通に歩いて行くしかない。

 俺は、息を吸った。

 そして、一歩踏み出した。


 ――そのときだった。


「よう、颯騨」


 肩を叩かれた。

 振り返ると、田淵が立っていた。


「……田淵」

「おはよ」


 田淵は、にやりと笑った。

 そして、俺の肩に腕を回した。


「行くか」

「おい、巻き込まれるぞ」

「もう巻き込まれてるって。クラスのグループ、今朝から大炎上だよ」


 田淵は、俺の背中を押した。


「ほら、前見ろ」


 俺は、校門のほうを見た。

 そして、目を見開いた。

 校門の前に、生徒が集まっていた。

 二年三組の連中だった。

 二十人近くが、記者たちの前に、横に広がって立っている。

 その真ん中に、宇佐美玲奈がいた。


「――はい、どいてくださーい!」


 宇佐美の声が、校門に響いた。


「ここ、通学路なんですけど! 邪魔です!」

「君たち、涼木颯騨くんのクラスメートだね? 少し話を」

「話しません!」

「彼と紫条通さんの関係について」

「知りませーん!」


 宇佐美は、両手を大きく広げた。


「ていうか、あんたたち、高校生に取材していいんですか! 保護者の許可取ってます!?」


 記者が、言葉に詰まった。


「取ってないですよね! うち、親に言いますけど! 全員の親に!」


 宇佐美の背後で、クラスメートたちが一斉にスマホを構えた。


「あ、こっちも撮っていいですかー?」

「校門の前で高校生に押しかける記者さんたち、って」

「ネットに上げたらバズりそう」


 記者たちの顔が、明らかに引きつった。

 そして、一人が「……行こう」と小声で言い、四人はぞろぞろと離れていった。

 校門が、空いた。


「……おはよ、涼木」


 宇佐美が、こちらを向いた。

 腕を組んで、少し赤くなっている。


「別に、あんたのためじゃないからね」

「……ありがとう」

「お礼とかいいから。……あいつら、うるさかっただけ」


 宇佐美は、ふいっと顔を背けた。

 それから、小さく付け足した。


「……あの記事、読んだけど」

「…………」

「『逃避してる』とか書いてあったでしょ。紫条通さんが」


 宇佐美の声が、硬くなった。


「ふざけんなって思った」


 俺は、顔を上げた。


「あの子、体育祭のとき、私の膝の砂を拭いてくれたんだよ」


 宇佐美は、校庭のほうを見ていた。


「あんなこと言った私の、怪我を。……黙って」

「…………」

「逃避してる人間が、そんなことするわけないでしょ」


 宇佐美は、歩き出した。


「ほら、行くよ。遅刻する」


 俺は、慌てて後を追った。

 田淵が、横で笑っていた。


「な。言ったろ。うちのクラス、いいクラスだぞ」



 教室に入ると、誰かが拍手をした。

 それが、全員に広がった。


「やめろ! 恥ずかしい!」

「ヒーローのご登場だ」

「涼木、週刊誌デビューおめでとう」

「S・H氏!」

「その呼び方やめろ!!」


 俺は、机に突っ伏した。

 ひどい朝だった。

 でも、たぶん、昨夜よりはずっとましだった。

 顔を上げる。

 窓際の、前のほうの二つの席。

 空いていた。

 秋穂の席と、凛の席。

 どちらにも、鞄がなかった。


「……来てないのか」

「朝から来てない」


 田淵が、言った。


「柏木先生が、職員室でなんか電話してた。……たぶん、関係あるんじゃないかな」


 俺は、スマホを取り出した。

 秋穂へのメッセージ。

 昨夜から、三通送っている。

 どれも、既読になっていなかった。



 一時間目の授業は、自習になった。

 柏木先生が、教室に来なかったからだ。

 二時間目の前に、ようやく先生が現れた。

 顔が、ひどく疲れていた。ネクタイが、いつもより曲がっていた。


「……えー、連絡事項がある」


 先生は、教壇に手をついた。


「本日から、しばらくの間、紫条通さんと楯岡さんは欠席となる」


 教室が、ざわついた。


「理由は」

「ご家庭のご都合だ」


 先生は、はっきりとそう言った。

 だが、その言い方で、誰にも分かった。

 そういう言い方をするときは、言えない理由がある。


「それと、もう一つ」


 先生は、顔を上げた。


「校門の前に、取材の人が来ている。登下校のとき、絶対に相手をするな。何も答えるな。……いいか、何も、だ」

「先生、今朝、追い返しましたー」


 宇佐美が、手を挙げた。


「知ってる。……宇佐美」

「はい」

「よくやった」


 先生は、真顔で言った。


「ただし、今度からは先生を呼べ。生徒が前に立つな」

「はーい」

「それから、涼木」

「……はい」


 俺は、立ち上がった。

 教室の視線が、集まる。

 柏木先生は、俺をじっと見た。

 そして、言った。


「お前は、何も悪いことをしていない」


 教室が、しんとなった。


「もし誰かに何か言われたら、先生のところに来い。……対応は、全部こっちでやる」


 俺の喉が、詰まった。


「……先生」

「ん」

「学校に、何か言われてませんか」


 柏木先生は、一瞬、目を逸らした。

 それから、笑った。


「言われてないぞ」


 ――嘘だ、と俺は思った。

 この人も、嘘が下手だった。



 昼休み、旧視聴覚準備室。

 蘭花先輩は、いつもの椅子に座っていた。

 目の下の隈が、過去最悪だった。

 机の上に、エナジードリンクの缶が四本並んでいた。


「……先輩、寝てますか」

「寝てない」

「寝てください」

「寝られないわよ」


 蘭花先輩は、モニターを指さした。

 五枚の画面すべてに、びっしりと情報が並んでいた。


「記事を出したのは、『週刊事実』。中堅の週刊誌よ。……で、記事の出所を追った」

「分かりましたか」

「ある程度はね」


 蘭花先輩は、一枚の画面を拡大した。


「写真のメタデータは、全部削除されてた。これは当然。……でも、撮影に使われた機材までは隠せない」

「どうやって分かるんですか」

「画像の歪み方。レンズ固有の収差ってものがあるのよ」


 蘭花先輩は、別のウィンドウを開いた。


「望遠レンズ。それも、相当に高い業務用。……三枚とも、同じレンズ」

「つまり」

「プロが、一日中、あなたたちを張ってた」


 俺は、拳を握った。


「どこから?」

「ゲームセンターの写真は、二階の通路から。土手の写真は、三十メートルほど離れた道路。……あなたの家の写真は」


 蘭花先輩が、言葉を切った。


「向かいの空き家の、二階の窓から」


 背筋が、冷たくなった。


「あの空き家、半年前から売りに出てるけど、買い手がついてない。鍵は不動産屋が管理してる」

「……侵入したってことですか」

「たぶん。あるいは、内見を装って入った」


 蘭花先輩は、眼鏡を押し上げた。


「で、ここからが問題。……この線は、追えない」

「追えない?」

「写真を撮ったのは、どこかの興信所。記事を書いたのは、週刊誌の記者。……両方とも、『情報提供者は明かせません』で終わり」


 蘭花先輩は、椅子の背にもたれた。


「春花に辿り着く道が、ないのよ」

「でも、誰が金を払ったかは」

「現金よ、きっと」


 蘭花先輩は、疲れた声で言った。


「あの子、学習してるわ。三千万のときと同じ。……絶対に、自分の名前を記録に残さない」


 部屋が、重く沈んだ。


「……あと、もう一つ」

「まだあるんですか」

「ごめん。これが一番きつい」


 蘭花先輩が、別の画面を開いた。

 SNSの投稿が、無数に並んでいた。


「記事が出てから、十四時間。……あなたの名前、もう出てるわ」


 俺は、画面を覗き込んだ。


『S・H氏ってこれ涼木颯騨じゃね? 中平の2年』

『部活やってないのに体育祭のリレーで優勝したやつだ』

『校門前の事件って、こいつがやったって噂あったよな』

『暴力で令嬢に取り入ったってこと?』

『怖すぎ』


 一つ一つが、何の根拠もない書き込みだった。

 それが、何百もあった。


「…………」

「颯騨くん」

「はい」

「見ないほうがいいわよ」

「見ます」


 俺は、画面をスクロールした。

 家族のことを書いているものもあった。

 母さんのパート先の名前が出ているものも。

 父さんの会社を推測しているものも。


「……先輩」

「なに」

「これ、消せませんか」

「消せない」


 蘭花先輩は、首を横に振った。


「法的な手続きを取れば、個別に削除請求はできる。黒澤さんが、もう動いてる。……でも、何百もあるのよ。一つ消す間に、十増える」

「…………」

「それと、これが本当に怖いところなんだけど」


 蘭花先輩は、画面を指さした。


「この書き込みの大半は、春花が雇った人間じゃないわ」

「え」

「普通の人たちよ。記事を読んで、面白がって、書いてるだけ」


 蘭花先輩は、静かに言った。


「春花は、最初の火をつけただけ。あとは、勝手に燃える」


 俺は、何も言えなかった。

 春花が、校門の前に立って、笑っていたのを思い出した。


 ――お姉様。


 唇だけで、そう動かした顔を。



 放課後。

 俺は、校舎の裏の中庭に座っていた。

 誰も来ない、古い中庭。

 秋穂を初めて連れてきた場所。

 楓の木の葉は、ほとんど落ちていた。

 スマホを取り出す。

 秋穂へのメッセージは、四通になっていた。

 どれも、既読にならない。


 ――どうしよう。


 俺は、空を見上げた。

 十一月の空は、高くて、薄かった。

 そのときだった。

 中庭に、足音が聞こえた。

 顔を上げる。


「……涼木様」


 凛が、立っていた。

 制服姿だった。

 左腕の包帯は、もう取れている。

 でも、その顔は、ひどかった。

 目が、真っ赤だった。

 泣き腫らした、というより、泣くのを我慢し続けた顔だった。


「楯岡さん」


 俺は、立ち上がった。


「来てたんですか。授業は」


「学校には、参っておりません」


 凛は、首を横に振った。


「本日は、ご挨拶に伺いました」


 ――挨拶。


 その言葉の意味が、分かった瞬間、足元が沈んだ気がした。


「……紫条通さんは」

「昨夜のうちに、本邸へお戻りになりました」


 凛は、平坦な声で言った。


「記事が出た一時間後に、旦那様から迎えの車が参りました。……お嬢様は、ご自分から乗られました」

「自分から?」

「はい」


 凛は、拳を握った。


「わたくしは、お止めしました。何度も。……ですが、お嬢様は」


 凛の声が、揺れた。


「『このままでは、颯騨様のご家族が壊れてしまいます』と」


 俺は、何も言えなかった。


「お嬢様は、ご自分が颯騨様のお側にいることが、記事の種になっていると。……ご自分がいなくなれば、記事は書かれなくなると」

「そんなの」

「はい。間違っております」


 凛は、きっぱりと言った。


「記事を書かせているのは春花様です。お嬢様が本邸にお戻りになっても、春花様は書かせるおつもりなら書かせます」

「…………」

「ですが、お嬢様は、ご自分を責めておられました」


 凛は、俯いた。


「颯騨様のお母様が、電話を取って困っておられるのを想像して。……お嬢様は、泣いておられました」


 風が吹いて、枯れ葉が転がっていった。


「それと」


 凛は、着物の袂から――いや、今日は制服だから、ポケットから、一通の封書を取り出した。

 白い和紙の封筒。

 紫色の紐が、かけられていた。

 春花が持ってきた桐の箱と、同じ色の紐だった。


「お預かりしました」


 俺は、それを受け取った。

 軽かった。


「……楯岡さんは」

「わたくしも、本邸へ戻ります」


 凛の声は、硬かった。


「旦那様からのご命令です。『楯岡の娘も戻れ』と」

「断れないんですか」

「断れません」

「でも」

「涼木様」


 凛が、顔を上げた。


「わたくしは、士族です」


 その目には、涙が溜まっていた。


「主家のご命令に背くことは、できません。……背けば、楯岡の家は終わります。父も、母も、弟も」

「…………」

「それに」


 凛は、唇を噛んだ。


「お嬢様が、おっしゃったのです。『凛も、戻りなさい』と」


 俺は、拳を握りしめた。


「お嬢様が、ご自分からそうおっしゃったのです。……わたくしに、逃げ道をくださった」


 凛の目から、涙がこぼれた。


「お嬢様は、お一人で全部を背負うおつもりです。……いつも、そうなのです」


 凛は、手の甲で涙を拭った。

 そして、深く、深く、頭を下げた。


「涼木様。……申し訳ございません」

「なんで、謝るんですか」

「わたくしは、何もできませんでした」


 凛の声が、割れた。


「八月も。葉山でも。……そして、今も」

「それは」

「わたくしは、ただ、お嬢様のお側にいるだけで。守ることも、助けることも、何ひとつ」

「楯岡さん」


 俺は、言った。


「葉山で、あんたが『私を見ないで』って叫んだから、俺は殴らずに済んだんです」


 凛が、顔を上げた。


「あれがなかったら、俺は久世さんを殴ってました。そしたら、志乃さんの証言も、黒澤さんの計画も、全部ひっくり返ってた」

「…………」

「何もできてないどころか、一番大事なところで止めてくれたんですよ」


 凛は、しばらく俺を見ていた。

 それから、また、涙をこぼした。

 今度は、拭わなかった。


「……涼木様」

「はい」

「ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」

「どうぞ」

「わたくしは、士族です。主家のご命令に背けません」


 凛は、まっすぐに言った。


「ですが、涼木様は、士族ではありません」


 俺は、息を呑んだ。


「涼木様は、紫条通家の者でもありません。旦那様のご命令も、親族会議のご決定も、涼木様を縛りません」


 凛の目に、光があった。


「ですから」


 凛は、一歩前に出た。


「わたくしにできないことを、どうか、お願いいたします」


 そして、深く頭を下げた。


「――お嬢様を、迎えに行ってください」


 中庭を、冷たい風が吹き抜けていった。

 俺は、手の中の封書を見下ろした。


「……楯岡さん」

「はい」

「俺に、その資格がありますか」

「資格?」

「俺は、ただの平民の高校生です」


 俺は、言った。


「家柄も、金も、肩書きもない。……伯爵家の屋敷に行って、『お嬢様を返してください』なんて言える立場じゃない」


 凛は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。

 初めて見る、優しい笑い方だった。


「涼木様。お忘れですか」

「何を」

「お嬢様は、最初の日に、おっしゃいました」


 凛は、はっきりと言った。


「――『あなたが、わたくしのヒーローです』と」


 俺の喉が、詰まった。


「資格は、九月から、ずっとお持ちです」


 凛は、背筋を伸ばした。


「お嬢様が、ご自分でお渡しになったのです」



 凛が去った後、俺は中庭のベンチに座り直した。

 封書の紫の紐を、解く。

 中には、三つ折りにされた和紙が入っていた。

 細くて、綺麗な字だった。



『颯騨様

 勝手に参りましたこと、お許しくださいませ。

 昨夜の記事を拝見いたしました。

 わたくしの写真の隣に、颯騨様のお顔が載っておりました。

 あれは、わたくしのせいです。

 わたくしが颯騨様のお側におりましたから、颯騨様のお顔が世に出ました。

 わたくしが颯騨様のお家にお邪魔しましたから、颯騨様のお家が写されました。

 お母様が、お電話で困っておられたと伺いました。

 お父様のお勤め先にも、ご迷惑がかかると。

 わたくしは、それを想像して、息ができなくなりました。

 わたくしは、ずっと、颯騨様から頂くばかりでした。

 助けていただきました。庇っていただきました。

 怒ってくださいました。わたくしのために、危ない場所へ行ってくださいました。

 そして、昨日。

 わたくしは、生まれて初めて、お休みの日というものを過ごしました。

 光と音に満ちたお社で、白い鳥を頂きました。

 手でパンをかじりました。

 川沿いの道を、三十分も歩きました。

 颯騨様のお母様が、「またいらしてね」とおっしゃってくださいました。

 わたくしは、あの一日を、一生忘れません。

 ですから、ここで終いにいたします。

 これ以上、颯騨様から頂くわけには参りません。

 これ以上、颯騨様のご家族を巻き込むわけには参りません。

 わたくしは、紫条通家の娘です。

 跡取りの座を失うことも、名を汚されることも、わたくしの家の中のことです。

 颯騨様には、関わりのないことでした。

 最初から、そうだったのです。

 九月に、わたくしが勝手に「助けてください」と申し上げたことが、間違いでした。

 お守りは、お返しいただかなくてよろしいのです。

 あれは、颯騨様をお守りするために縫いました。わたくしの元に戻っても、何の役にも立ちません。

 どうか、お持ちになっていてくださいませ。

 そして、どうか。

 颯騨様は、平凡に、目立たず、お過ごしください。

 それが、颯騨様のお望みだったはずです。

 わたくしが、それを壊してしまいました。

 どうか、お許しくださいませ。

 お元気で。


                    紫条通秋穂』



 読み終えて、俺はしばらく動けなかった。

 手紙の最後のあたりが、少し波打っていた。

 たぶん、水が落ちた跡だった。

 俺は、手紙を膝の上に置いた。

 そして、空を見上げた。


 ――平凡に、目立たず。


 確かに、それが俺のモットーだった。

 小学二年生の運動会からずっと、それだけを守って生きてきた。


 あの人が、それを壊した。


 教室の真ん中で俺の手を握って、「助けてください」と言って。

 自販機にお辞儀をして、自動ドアにお礼を言って。

 体育祭で「必勝」の扇子を振って。


 俺を、ヒーローだと呼んで。


 ――壊してくれた。


 そう思った。

 あの一か月半で、俺は、人生で一番たくさん走った。

 人生で一番たくさん怒った。

 人生で一番たくさん、誰かのために何かをした。


 それを、「壊してしまった」と謝られて。


 「平凡に過ごしてください」と言われて。


 俺は。


 ――腹が、立っていた。


 手が、震えていた。

 悲しみではなかった。

 寂しさでもなかった。

 腹が立っていた。

 春花に。記事を書いた連中に。

 華族の家の仕組みに。


 そして、何より。


 一人で全部背負って、勝手に幕を引こうとしているあの人に。


「……ふざけるな」


 声に出していた。

 俺は、立ち上がった。

 手紙を、丁寧に畳んで、封筒に戻す。

 そして、ポケットのお守りと一緒に、鞄の奥に入れた。

 スマホを取り出す。

 蘭花先輩に、電話をかけた。

 ニコールで、繋がった。


『颯騨くん?』

「先輩」

『どうしたの』

「紫条通さんが、本邸に戻されました。楯岡さんも」


 電話の向こうで、短く息を呑む音がした。


『……そう』

「手紙を預かりました。……もう関わるな、って書いてあります」

『……颯騨くん』

「先輩」


 俺は、空を見上げた。


「第三土曜日は、明後日ですよね」


 電話の向こうが、静かになった。


 そして。


『――そうよ』


 蘭花先輩の声が、変わった。


『十一月十五日。鷲羽司稔彦が、毎月誰にも告げずに消える日』

「俺、行きます」

『一人で?』

「一人でやります」


 俺は、拳を握った。


「紫条通さんを迎えに行くには、持っていくものがいります」

『持っていくもの?』

「原本です」


 俺は、はっきりと言った。


「あれがあれば、紫条通さんの潔白が証明できる。……そしたら、記事も止まるし、親族会議もひっくり返る」

『…………』


「俺が『戻ってきてください』って言うだけじゃ、あの人は戻りません。たぶん、一生」


 俺は、楓の木を見上げた。

 葉の落ちた枝の向こうに、十一月の空があった。


「でも、原本を持っていけば。……あの人は、もう一人で背負わなくて済みます」


 長い沈黙があった。

 やがて、蘭花先輩が、小さく笑った。


『……颯騨くん』

「はい」

『あなた、やっぱりヒーローだわ』

「違います」

『違わない』


 キーボードを叩く音が、電話の向こうから聞こえてきた。


『いいわ。全面的に協力する。……徹夜で準備してあげる』

「寝てくださいって言ったのに」

『明後日までは無理』


 蘭花先輩の声は、もう疲れていなかった。


『高峯学園の校門から、稔彦の自宅まで。考えられるルート、全部洗い出す。……尾行の段取りも全部立てる』

「お願いします」

『颯騨くん』

「はい」

『絶対に、見失わないで』


 俺は、鞄を肩にかけた。


「はい」


 ――十一月十五日。


 明後日だ。


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