第20話 平民の休日
十一月に入った。
街路樹が色を変え、朝の空気がはっきりと冷たくなった。
あの夜から、二週間が過ぎていた。
志乃さんは、まだ入院していた。
体重は少しずつ戻りはじめ、夜も眠れるようになったという。秋穂は三日に一度、見舞いに通っていた。
凛は、二日で学校に復帰した。
そして、蘭花先輩と黒澤さんに二人がかりで叱られ、強制的に一週間の静養を命じられた。
「不服です」
今朝も、凛は教室でそう言っていた。
「静養を命じられたのは先週でしょう。もう終わってますよ」
「終わっておりません。『激しい運動と無理は、一か月は控えること』と、お医者様が」
「じゃあ、控えてください」
「控えております。……今は」
凛の顔からは、湿布が取れていた。
頬の腫れも引き、鼻のガーゼもなくなっている。残っているのは、左腕の包帯と、唇の端のかさぶただけだった。
回復が、異常に早い。
士族の体は何でできているのだろう、と俺は本気で思った。
昼休み。
旧視聴覚準備室で、蘭花先輩が中間報告をした。
「鷲羽司稔彦。十八歳。高峯学園高等部三年」
モニターに、一人の青年の顔写真が表示されていた。
銀縁の眼鏡。整った顔立ち。
いつも何かに眉を寄せているような、神経質そうな表情。
「成績、学年三位以内を維持。剣道部の主将。生徒会の副会長。……絵に描いたような優等生よ」
蘭花先輩は、画面をスクロールさせた。
「で、問題はここから。兄が二人いるの」
「存じております」
凛が言った。
「ご長男の克彦様は、鷲羽司家の次期当主。外務省にお勤めです。ご次男の慎二様は、財閥系の商社に」
「そう。で、どっちも相当に優秀」
蘭花先輩は、二人の経歴を表示した。
「長男は、十九歳で国家公務員試験に上位合格。次男は、高校時代に全国模試で一位を取ってる。……三男の稔彦は、学年三位」
「……三位でも、すごいと思いますけど」
「兄二人が一位なのよ」
蘭花先輩は、画面を閉じた。
「この家の中で、三位は『できない子』扱いでしょうね」
俺は、息を吐いた。
華族の家というのは、そういう場所なのか。
「それと、もう一つ」
蘭花先輩は、別のウィンドウを開いた。
「稔彦の、この三年分のスケジュール。……高峯学園の生徒会と剣道部の記録、公開されてるぶんを全部拾った」
画面に、カレンダーのようなものが表示された。
びっしりと予定が埋まっている。
「で、面白いのが」
蘭花先輩が、カレンダーのいくつかの日付を赤く塗った。
「月に一度、必ず、何の記録もない日があるの」
「記録がない?」
「部活にも、生徒会にも、家の行事にも出てない。……完全な空白」
蘭花先輩は、赤い日付を順番に指さした。
「三年分、四十回近く。全部、月の第三土曜日」
部屋が、静かになった。
「……毎月、同じ日に、どこかへ行ってる」
「そういうことね」
「どこへ」
「分からない」
蘭花先輩は、首を横に振った。
「ネットの記録には、何も残ってない。……高峯学園は華族の学校だから、そもそも生徒のSNSがほとんどないのよ。みんな、家の方針で禁止されてるらしくて」
「じゃあ、調べようが」
「あるわ。一つだけ」
蘭花先輩は、指を一本立てた。
「今月の第三土曜日に、尾行する」
「……は?」
「今月の第三土曜は、十一月十五日。あと十日」
蘭花先輩は、にやりと笑った。
「颯騨くん。あなたの足なら、誰にも気づかれずに追えるでしょう」
俺は、しばらく考えた。
確かに、できなくはない。
車で移動されても、追いつける。
「……やってみます」
「お待ちください」
凛が、手を挙げた。
「私も同行いたします」
「駄目」
「なぜです」
「あなた、まだ包帯取れてないでしょ」
「尾行に腕は使いません」
「屁理屈やめなさい」
蘭花先輩は、凛を指さした。
「それに、尾行は一人のほうがいいの。人数が増えるほど、バレる」
「……」
「分かった?」
「……かしこまりました」
凛は、不本意そうに手を下ろした。
それから、ぼそりと言った。
「ですが、私の静養は、十一月十四日で終わります」
「終わらないわよ」
「終わります」
「終わらない」
この二人は、最近こればかりやっている。
その日の放課後のことだった。
帰り支度をしていると、秋穂が俺の席の前に立った。
「颯騨様」
「はい」
「お願いが、ございます」
俺は、思わず身構えた。
この人の「お願い」は、だいたい大事になる。
「今週の日曜日、お時間はございますか」
「日曜ですか。……特に、何もないですけど」
「まあ、よかった」
秋穂は、ぱっと顔を輝かせた。
「では、ご一緒していただけませんか」
「どこへ」
「どこでも」
「……どこでも?」
「はい」
秋穂は、胸の前で両手を組んだ。
「颯騨様に、お礼がしたいのです」
俺は、瞬きをした。
「お礼?」
「志乃さんを助けてくださったお礼です。……本当なら、もっと早く申し上げるべきでした」
「いや、お礼なんて」
「いけません」
秋穂は、きっぱりと言った。
「紫条通家の者として、受けたご恩を返さないわけには参りません。……本来であれば、相応の品をお贈りするところなのですが」
「品はやめてください」
「はい。颯騨様は、きっとお受け取りにならないと思いました」
秋穂は、少し恥ずかしそうに言った。
「ですから、別のことを考えました」
「別のこと?」
「わたくしに、平民の遊び方を教えてくださいませんか」
俺は、固まった。
「……それ、お礼になってますか」
「なっております」
「俺が、何かをしてもらうんですよね。普通」
「わたくしが、したいのです」
秋穂は、まっすぐに言った。
「颯騨様が、いつもどのように過ごしておられるのか。何を面白いと思っておられるのか。……わたくし、知りたいのです」
その目が、あまりにまっすぐだったので。
俺は、たぶん、少し赤くなった。
「……分かりました」
「本当ですか!」
「でも、大したところには行けませんよ。俺、普段は家でゲームしてるだけなんで」
「まあ」
秋穂は、考え込んだ。
それから、ぱっと顔を上げた。
「では、ゲームを教えてくださいませ」
「……え」
「颯騨様が一番お好きなものを、わたくしも知りたいです」
背後から、冷たい視線を感じた。
振り返ると、凛が立っていた。
「……お嬢様」
「はい、凛」
「日曜日は、私も同行いたします」
「いけません」
秋穂が、即座に答えた。
「凛は、静養です」
「お嬢様!?」
「お医者様が、無理をしてはいけないとおっしゃいました」
「お、お嬢様をお一人で、平民の男と出歩かせるわけには」
「颯騨様は、平民の男ではありません」
秋穂は、きっぱりと言った。
「わたくしの、ヒーローです」
凛が、言葉に詰まった。
そして、絞り出すように言った。
「……お嬢様は、ずるうございます」
「ふふ」
日曜日。
待ち合わせは、駅前の十時だった。
俺は、九時四十五分に着いた。
秋穂は、九時三十分から待っていた。
「紫条通さん、早すぎません?」
「落ち着かなかったのです」
秋穂は、少し照れたように笑った。
今日は、淡いベージュのコートに、えんじ色のマフラー。
髪は、低い位置で三つ編みにまとめられていた。
たぶん、本人なりに「目立たない格好」を選んだのだろう。
やっぱり目立っていた。
「……そのマフラー」
「凛が、昨夜のうちに巻いてくれました」
秋穂は、マフラーに触れた。
「『平民の学校の生徒は、冬にこういうものを巻くそうです』と、研究してくださったそうです」
「研究」
「はい。手帳に、写真が貼ってありました」
あの手帳、もはや何の手帳なのか分からない。
「それで、颯騨様。本日は、どちらへ」
「とりあえず、ゲームセンターに行ってみますか」
「げーむせんたー」
秋穂の目が、きらりと光った。
日曜の午前のゲームセンターは、思ったより空いていた。
自動ドアをくぐった瞬間、秋穂が足を止めた。
「……まあ」
音の洪水だった。
電子音。効果音。ジングル。誰かのプレイしているシューティングゲームの爆発音。奥から聞こえる太鼓の音。
光の洪水でもあった。
色とりどりの筐体が、ぴかぴかと点滅している。
「颯騨様。ここは、何のお社でしょうか」
「お社じゃないです。遊ぶところです」
「このように光と音で満たされた場所を、わたくし、神事以外で存じません」
「まあ、分からなくもないですけど」
秋穂は、店内を見回しながら、ゆっくりと歩いた。
最初に足を止めたのは、クレーンゲームの前だった。
ガラスケースの中に、ぬいぐるみが山のように積まれている。
「颯騨様。これは」
「クレーンゲームです。お金を入れて、アームであれを掴むんです」
「掴むと、どうなるのですか」
「もらえます」
「まあ!」
秋穂は、ガラスに手をついた。
「あの、白い鳥のようなものが欲しいです」
秋穂が指さしたのは、ふわふわした白い鳥のぬいぐるみだった。
たぶん、何かのキャラクターなのだろうが、俺にも分からなかった。
「やってみますか」
「わたくしにも、できますでしょうか」
「できますよ。ボタン二つだけなんで」
俺は、百円玉を入れた。
秋穂は、真剣な顔でボタンの前に立った。
「このボタンで、横に動きます。離すと止まります」
「かしこまりました」
秋穂が、ボタンを押した。
アームが、ゆっくりと横に動く。
「まあ、動きました」
「で、白い鳥の真上で離してください」
「はい。……ええと」
秋穂は、慎重にボタンを離した。
アームが止まった位置は、白い鳥から三十センチほど左だった。
「あ」
「じゃあ、次は奥行きです」
「はい」
秋穂が、二つ目のボタンを押した。
アームが、奥へ動く。
そして、白い鳥とは全然関係のない場所で止まった。
アームが下りる。
何も掴まずに、上がる。
「……まあ」
秋穂は、呆然とガラスを見つめた。
「掴めませんでした」
「まあ、最初はそんなもんです」
「もう一度」
「どうぞ」
二回目。
アームは、白い鳥のそばまで行った。
掴んだ。
持ち上がった。
「取れました!」
「あ、いや、まだ」
アームが、ゆるんだ。
白い鳥が、落下した。
「……まあ」
「よくあるやつです」
「あの鳥は、逃げてしまいました」
「逃げてないです。元の場所にいます」
三回目。
四回目。
五回目。
秋穂は、どんどん真剣になっていった。
「颯騨様。この機械には、何か法則があるのでしょうか」
「あると思います。俺も詳しくないですけど」
「アームの力が、毎回違うように感じます」
「鋭いですね」
「では、力が強いときを狙えば」
「それが分かれば苦労しないんですよ」
六回目。
秋穂は、ボタンを押す前に、目を閉じた。
「……紫条通さん?」
「集中しております」
「え」
「巫女の修行には、気の流れを読むというものがございます」
――まさか。
秋穂が、目を開けた。
そして、迷いなくボタンを押し、迷いなく離した。
アームが、下りる。
白い鳥の、胴体の中央をがっちりと掴んだ。
持ち上がる。
揺れる。
――落ちない。
アームは、白い鳥を掴んだまま、取り出し口の上まで移動した。
そして、放した。
ごとん。
「取れました!!」
秋穂が、飛び跳ねた。
本当に、両足で飛び跳ねた。
伯爵令嬢がやっていい動きではなかった。
「颯騨様! 取れました!」
「……取れましたね」
「気の流れが、はっきりと視えました!」
「それ、クレーンゲームに使っていいやつですか」
「神様は、お許しくださると思います」
秋穂は、取り出し口から白い鳥を抱き上げた。
そして、胸に抱きしめた。
「……ふわふわです」
その顔が、あまりにも幸せそうだったので。
俺は、なんだか胸のあたりが変な感じになった。
その後、秋穂は音ゲーに挑戦した。
結果は、惨敗だった。
「颯騨様。これは、無理です」
「ですよね」
「音符が、速すぎます」
「一番簡単なやつなんですけどね」
「では、颯騨様がおやりください」
「俺が?」
「はい。ぜひ」
俺は、少し迷った。
音ゲーは、正直、得意だ。
得意というより、手加減が難しい。
まあ、ゲームセンターなら。
ちょっとくらい上手くても、変には思われないだろう。
俺は、一番難しい譜面を選んだ。
曲が始まった。
画面を、音符が滝のように流れ落ちてくる。
俺は、ほんの少しだけ、速度を上げた。
音符が、止まって見える。
一つずつ、丁寧に、正確に。
指先が、鍵盤の上を踊った。
――パーフェクト。パーフェクト。パーフェクト。
画面の端で、コンボ数が跳ね上がっていく。
五百。
千。
千五百。
曲が終わった。
『ALL PERFECT』
画面に、見慣れない演出が流れた。
金色の紙吹雪が舞い、ファンファーレが鳴る。
――あ、やりすぎた。
気づいたときには、周りに人が集まっていた。
「え、今の何」
「オールパーフェクト!? あの譜面で!?」
「嘘だろ、ランキング一位出てるぞ」
「動画撮っとけばよかった」
俺は、慌てて席を立った。
「紫条通さん、行きましょう」
「まあ、もう?」
「はい、もう」
俺は、秋穂の背中を押して、その場を離れた。
背後で、誰かが筐体の画面を写真に撮っていた。
昼は、駅前のハンバーガー屋で済ませた。
秋穂は、トレーに載ったハンバーガーを、しげしげと眺めた。
「颯騨様。これは、どのようにしていただくのですか」
「手で持って、かじります」
「手で」
「はい」
「お箸も、ナイフもなく?」
「ないです」
秋穂は、しばらく考え込んだ。
それから、意を決したようにハンバーガーを両手で持ち上げた。
そして、小さく一口かじった。
もぐもぐと咀嚼する。
飲み込む。
ぱっと、顔を輝かせた。
「美味しいです!」
「でしょう」
「お肉と、お野菜と、パンが、一度に口に入ってまいります」
「そういう食べ物なので」
「合理的ですね」
秋穂は、感心したように頷いた。
「これなら、片手で食事をしながら、もう片方の手で書き物ができます」
「できますけど、行儀悪いですよ」
「まあ、そうですね」
秋穂は、二口目をかじった。
口の端に、ケチャップがついた。
「……紫条通さん」
「はい」
「ケチャップ、ついてます」
「まあ」
秋穂は、手の甲で口元を拭おうとして、はっと止まった。
それから、紙ナプキンを取って、上品に口元を押さえた。
「……前は、颯騨様に取っていただこうとしてしまいました」
「ああ、公園のとき」
「はい」
秋穂は、少し赤くなった。
「あのときは、何も考えておりませんでした。……今は、少し考えるようになりました」
「何を考えるんですか」
「……それは」
秋穂は、俯いた。
そして、小さな声で言った。
「颯騨様が、どう思われるかを」
俺は、ポテトを口に運ぼうとして、手を止めた。
店内の喧騒が、少しだけ遠くなった気がした。
「……紫条通さん」
「はい」
「俺は」
言いかけて、やめた。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
秋穂は、顔を上げなかった。
ただ、ハンバーガーを両手で持ったまま、じっとトレーを見ていた。
その耳が、マフラーの上で、赤くなっていた。
午後は、川沿いの道を歩いた。
特に目的はなかった。
秋穂が「颯騨様がいつも歩いておられる道を歩いてみたい」と言ったからだ。
中平高校から家までの道。
寝坊した朝に、路地を加速して走り抜ける道。
並んで歩くと、驚くほど時間がかかった。
「颯騨様は、毎日この道を」
「はい。……まあ、たまに全力で走りますけど」
「まあ。そうすると、どれくらいで」
「一分半です」
「一分半」
秋穂は、長い道のりを振り返った。
「わたくしたち、今、三十分ほど歩いております」
「ですね」
「颯騨様は、二十倍の速さで生きておられるのですね」
「そういうわけじゃないですけど」
俺は、少し考えた。
「むしろ、逆かもしれません」
「逆?」
「速く走れるぶん、普段はゆっくり歩いてます。……目立たないように」
「まあ」
「だから、今日みたいに誰かと並んで歩くのは、わりと好きなんです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
秋穂は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……わたくしも、好きです」
川面に、午後の光が跳ねていた。
土手の草は、もう枯れはじめていた。
風が吹くたびに、乾いた音を立てて揺れる。
そのとき。
俺は、ふと足を止めた。
「颯騨様?」
「……いえ」
視線を、感じた気がした。
土手の上の道。
そこに、人影があったような。
振り返る。
誰もいなかった。
自転車に乗った老人が一人、ゆっくりと通り過ぎていくだけだった。
「どうかなさいましたか」
「気のせいです。たぶん」
俺は、首を振った。
この二週間、何も起きていない。
睨み合いが続いている。向こうも、迂闊には動けない。
黒澤さんは、そう言っていた。
――そのはずだった。
夕方、俺たちは俺の家の前にいた。
帰る方向が途中まで同じだったので、なんとなく歩いているうちに、家の前に着いてしまったのだ。
「ここが、颯騨様のお家ですか」
「はい。……まあ、普通の家ですけど」
築二十年の、ごく普通の二階建て。
庭には、母さんが育てている鉢植えが並んでいる。
秋穂は、その家を、じっと見上げていた。
「……素敵なお家です」
「え」
「本当です。……あたたかい感じがいたします」
その言い方が、やけに切実だったので。
俺は、思わず口を開いていた。
「……寄っていきますか」
「え」
「いや、お茶くらいなら。……冷えたでしょうし」
言ってから、しまったと思った。
家には、母さんがいる。
秋穂は、目を丸くしていた。
それから、ゆっくりと、顔を赤くした。
「……よろしいのですか」
「あ、いや、嫌なら別に」
「嫌ではありません!」
秋穂は、慌てて言った。
「嫌では、ありません。……ただ、その」
秋穂は、マフラーに顔を半分埋めた。
「殿方のお家に上がるのは、初めてですので」
俺の心臓が、変な跳ね方をした。
玄関を開けた瞬間、後悔した。
「おかえりー。あら、颯騨、遅かったわね」
母さんが、エプロン姿で廊下に出てきた。
そして、俺の後ろに立つ秋穂を見て、動きを止めた。
三秒ほどの、完全な静止。
「……颯騨」
「……はい」
「どちら様?」
「クラスメート」
「お邪魔いたします。紫条通秋穂と申します」
秋穂が、玄関先で深々と一礼した。
完璧な所作だった。
華族の令嬢が、客人として主家に挨拶する、あの礼だ。
母さんの顔が、みるみる変わっていった。
「あ、あら、まあ、そんな、ご丁寧に。……颯騨! お客様なら連絡しなさいよ!」
「急に決まったから」
「急にでも連絡しなさい! 部屋が! 家が!」
母さんは、エプロンで手を拭きながら、あたふたと動き回った。
「ええと、紫条通さん、でしたっけ。お上がりになって、どうぞどうぞ。あらあら、お綺麗なお嬢さん。颯騨、あんた、いつの間に」
「母さん」
「お茶、お茶ね。ちょっと待っててくださいね。あ、うち、いいお茶なんてないんですけど」
「いいえ、何でも頂戴いたします」
「まあ、お上品な話し方」
母さんは、廊下をばたばたと走っていった。
「……すみません。うるさい人で」
「とんでもございません」
秋穂は、くすくすと笑っていた。
「颯騨様のお母様に、お会いできて嬉しいです」
居間に通すと、秋穂は座布団の上に正座した。
そして、ちゃぶ台の上に、白い鳥のぬいぐるみをそっと置いた。
「この子も、ご挨拶を」
「ぬいぐるみに挨拶させないでください」
母さんが、お茶とせんべいを運んできた。
そして、そのまま居間に座った。
「……母さん。何してるの」
「お話するに決まってるでしょう」
「帰ってよ」
「ここ、うちなんだけど」
母さんは、にこにこと秋穂のほうを向いた。
「紫条通さん、颯騨とは仲良くしてくださってるの?」
「はい。颯騨様には、いつも助けていただいております」
「まあ、颯騨が? この子が?」
「はい。とても頼りになる方です」
「へえええ」
母さんは、めちゃくちゃにやにやしていた。
「颯騨、あんた、学校ではそんな感じなの」
「別に、普通だよ」
「颯騨様は、クラスの皆様からも慕われておられます」
「嘘でしょ。この子、家ではずっとゲームしてるのよ」
「存じております。本日、ご一緒いたしました」
「え、ゲーム? デートで?」
「母さん」
「あら、違うの?」
俺は、頭を抱えた。
秋穂は、湯呑みを両手で包んで、嬉しそうにお茶を飲んでいた。
その横顔が、ひどく穏やかだった。
――ああ。
と、俺は思った。
この人は、こういうものに、ずっと触れずに生きてきたのだ。
やかましい母親。
散らかった居間。
来客にあたふたする家。
伯爵家の屋敷にも、別邸にも、たぶん、これはなかった。
秋穂が帰ったのは、七時過ぎだった。
坂東さんが車で迎えに来た。
母さんが玄関先で「またいらしてね! 本当に、いつでも!」と手を振り、秋穂が何度も頭を下げていた。
車が走り去った後、母さんがしみじみと言った。
「……いい子ねえ」
「うん」
「颯騨、あんた、あの子のこと」
「ご飯、まだ?」
「はいはい。下手なごまかし方ね」
母さんは、笑いながら台所に戻っていった。
俺は、二階の自分の部屋に上がった。
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、今日一日のことを思い返した。
クレーンゲームで飛び跳ねた秋穂。
ハンバーガーに感動していた秋穂。
川沿いの道で、「わたくしも、好きです」と言った秋穂。
――楽しかった。
そう思った瞬間、少しだけ、後ろめたくなった。
志乃さんは、まだ病院にいる。
凛は、腕に包帯を巻いている。
十二月二十三日まで、あと一か月半。
こんなふうに、楽しんでいていいのだろうか。
――いや。
俺は、首を振った。
秋穂は、今日、何度も笑った。
あの人が、何の計算もなく笑ったのを、俺は初めて見た気がする。
それだけで、今日には意味があった。
そう思うことにした。
スマホを手に取る。
二十時十七分。
通知が、一件。
蘭花先輩からだった。
『颯騨くん』
短いメッセージだった。
続けて、もう一件。
『今すぐ、ネット見ないで』
心臓が、嫌な音を立てた。
『いや、見て。見ないほうが悪い』
『ごめん。どっちでもいい。とにかく電話して』
俺は、起き上がった。
そして、ブラウザを開いた。
トップに出てきたのは、SNSのトレンドだった。
一位。
『#紫条通秋穂』
二位。
『#中平高校』
三位。
『#平民のヒーロー』
指が、震えた。
タップする。
最初に表示されたのは、ネットメディアの記事だった。
『【独占】婚約破棄の伯爵令嬢、平民高校で"ヒーロー"と密会 転落の果てに』
記事には、写真が三枚、貼られていた。
一枚目。
ゲームセンターで、クレーンゲームの前にいる俺と秋穂。
二人で、ガラスケースを覗き込んでいる。
二枚目。
川沿いの土手を、並んで歩く二人。
三枚目。
俺の家の玄関先。
秋穂が、俺の後について、家に入っていく瞬間。
三枚とも、顔にぼかしはなかった。
俺の顔も。
秋穂の顔も。
はっきりと、写っていた。
記事の本文を、目が勝手に追った。
『国家機密漏洩疑惑により婚約を破棄された紫条通秋穂氏(17)が、転入先の公立高校で、ある男子生徒と親密な関係にあることが本誌の取材で明らかになった』
『男子生徒はS・H氏(17)。九月下旬、同校の校門前で成人男性三名が同時に負傷する不可解な事件が発生した際、現場に居合わせていたとされる人物である』
『関係者によれば、秋穂氏はこの男子生徒を"ヒーロー"と呼び、深く依存しているという。十一月九日には、男子生徒の自宅に上がり込む姿も目撃されている』
『華族社会に詳しい評論家は、こう語る。「婚約破棄と家督剥奪という現実から目を背け、平民の少年に逃避しているように見える。痛ましい話です」』
俺は、スマホを取り落とした。
画面が、ベッドの上で光っていた。
階下から、電話の音が聞こえた。
固定電話だった。
うちに固定電話があったことを、俺は久しぶりに思い出した。
「はい、涼木でございます」
母さんの声。
少しの間。
「……え?」
もう一度、少しの間。
「あの、どちら様でしょうか」
俺は、階段を駆け下りた。
母さんは、受話器を耳に当てたまま、困惑した顔で立っていた。
「……はい。……いえ、あの」
母さんが、俺に気づいた。
そして、受話器を少しだけ下ろして、小声で言った。
「颯騨。あんた、何かした?」
「……母さん。誰から」
「週刊誌の記者だって」
母さんは、受話器を見下ろした。
「あんたのこと、聞きたいんだって」
そのとき。
また、電話が鳴った。
いや、違う。
鳴っていたのは、母さんのスマホだった。
台所のテーブルの上で、震えている。
画面を見た母さんの顔が、強張った。
「……パート先の、店長さん」
俺の背筋が、凍った。
外で、車の止まる音がした。
窓の外を見る。
家の前の道に、見慣れない車が二台、停まっていた。
その脇に、カメラを持った男が立っていた。
レンズが、こちらを向いていた。




