第19話 十二月二十三日
日曜日の朝、七時。
俺は、病院の廊下のベンチに座っていた。
佐生家の系列だという、小さな私立病院だった。
都心から少し離れた、静かな住宅街の中にある。日曜の朝の待合室には、俺たちしかいなかった。
「……肋骨に、ヒビが二本」
診察室から出てきた蘭花先輩が、俺の隣に腰を下ろした。
「あと、鼻骨にも軽いヒビ。頬の打撲、唇の裂傷、左の前腕に打撲と内出血。……全治、二週間から三週間」
「…………」
「本人は『三日で治ります』って言ってるけど」
「治らないですよね」
「治らないわよ」
蘭花先輩は、深くため息をついた。
目の下に、濃い隈ができていた。
この人も、俺たちと同じで、一睡もしていない。
「志乃さんは」
「別の階の個室。栄養状態がひどいのと、軽い脱水。あと、たぶん睡眠障害」
蘭花先輩は、自分の手元のノートパソコンを開きかけて、やめた。
「二か月、ほとんど日に当たってなかったって。ビタミンDの数値が、笑えないくらい低いそうよ」
「…………」
「でも、生きてる」
蘭花先輩は、そう言って、背もたれに体を預けた。
「……生きてるのよ、ちゃんと」
その声が、わずかに震えていた。
俺は、何も言わなかった。
廊下の窓から、朝日が差し込んでいた。
十月の、まだ柔らかい光が、リノリウムの床に四角く落ちている。
十二時間前、俺はあの崖の上に伏せていた。
なんだか、何年も前のことのような気がした。
「颯騨くん」
「はい」
「あなたは」
「どこも、折れてません」
「訊いてないわよ。でも、そう言うと思った」
蘭花先輩は、俺の脇腹のほうに目をやった。
「痛む?」
「ちょっと」
「病院、来てるんだから診てもらいなさいよ」
「……あとで」
「今」
「……はい」
俺は、渋々立ち上がった。
肋は、たぶん折れていない。
でも、呼吸をすると、脇腹の奥がぎしぎしと鳴った。
久世の警棒は、二発入った。
音速に耐える体でも、痛みは普通に感じるらしい。それが分かったのは、わりと大きな発見だった。
「颯騨くん」
診察室に向かおうとした俺を、蘭花先輩が呼び止めた。
「はい」
「……ありがとう」
俺は、振り返った。
蘭花先輩は、前を向いたままだった。
眼鏡の奥の目が、少しだけ赤かった。
「約束、守ってくれて」
「…………」
「久世遼平を殴らなかったこと。……たぶん、あれが、今回で一番難しい判断だったと思う」
俺は、何と答えていいか分からなかった。
あの部屋で、凛が床に崩れ落ちたとき。
頭の中で、確かに何かが切れそうになった。
殴ってしまえば、簡単だった。
倒せたかどうかは分からないが、やるだけならできた。
やらなかったのは、俺が賢かったからじゃない。
凛が「私を見ないで」と叫んだからだ。
「……俺じゃないです」
俺は、言った。
「楯岡さんが、止めてくれたんで」
蘭花先輩は、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……そう」
「はい」
「じゃあ、あの子にも言わないとね」
蘭花先輩は、立ち上がった。
「説教の後に」
「説教、するんですか」
「当然でしょ。指示を破ったんだから」
蘭花先輩は、拳を握った。
「三人を床に沈めたそうよ。……抵抗するなって、あれだけ言ったのに」
「でも、それがなかったら」
「分かってる」
蘭花先輩は、きっぱりと言った。
「分かってるから、腹が立つの」
凛の病室は、四階の個室だった。
ドアを開けると、凛はベッドの上に座っていた。
寝ていなかった。
顔の左半分に大きな湿布が貼られ、鼻にはガーゼ。左腕には包帯が巻かれている。
病院の寝間着姿で、それでも背筋はまっすぐに伸びていた。
そして、その隣のパイプ椅子に、秋穂が座っていた。
秋穂は、凛の手を両手で握ったまま、眠っていた。
ベッドの縁に突っ伏すような格好で、長い髪が白いシーツの上に流れている。
「……お嬢様は、三十分ほど前に、ようやくお休みになりました」
凛が、小声で言った。
「ずっと、起きていらしたんですか」
「はい。わたくしの処置が終わるまで、廊下で立っておられました。座るようにお願いしても、聞いてくださらず」
凛は、眠っている秋穂の顔を見下ろした。
その目が、ひどく優しかった。
「……わたくしは、お嬢様をお守りする立場です」
「はい」
「それが、こうして看病されております」
「……まあ、順番が回ってくることもありますよ」
「ございません」
凛は、きっぱりと言った。
「侍女が主を心配させるなど、あってはならぬことです」
「あんた、本当に頑固ですね」
「お嬢様ほどでは」
凛は、わずかに口の端を上げた。
唇の裂けた部分が痛んだのか、すぐに顔をしかめた。
そこで、蘭花先輩が病室に入ってきた。
凛の背筋が、びくりと伸びた。
「……蘭花さん」
「凛ちゃん」
「……はい」
「後で、覚悟しておきなさい」
「……かしこまりました」
凛は、深々と頭を下げた。
それから、おそるおそる顔を上げた。
「あの、蘭花さん」
「なに」
「お説教は、お嬢様が起きておられないときに、お願いできますでしょうか」
蘭花先輩が、固まった。
「……なんで」
「お嬢様が、わたくしが叱られるのをご覧になると、お嬢様が庇われます」
凛は、真剣な顔で言った。
「そうなると、お嬢様が蘭花さんと言い争うことになります。それは、わたくしの本意ではございません」
蘭花先輩は、長い間、凛を見つめていた。
それから、額に手を当てた。
「……あのね、凛ちゃん」
「はい」
「あなた、全治三週間の怪我をしてるのよ。今」
「存じております」
「それで、まだ他人の心配してるの?」
「他人ではございません」
凛は、きっぱりと答えた。
「お嬢様です」
蘭花先輩が、天井を見上げた。
そして、小さく呟いた。
「……説教、やめようかな」
「なぜです」
「効かなそうだから」
「効きます」
「効いてないでしょ、今」
二人のやり取りに、俺は思わず吹き出した。
その音で、秋穂が目を覚ました。
「……まあ」
秋穂は、顔を上げて、ぼんやりと周りを見回した。
髪が乱れ、頬にシーツの跡がついている。
伯爵令嬢の体裁としては、たぶん完全に失格の姿だった。
「わたくし、眠ってしまいました」
「はい」
「凛、ごめんなさい。腕が重かったでしょう」
「とんでもございません」
秋穂は、慌てて髪を手櫛で整えた。
それから、俺のほうを見て、ぱっと立ち上がった。
「颯騨様! お怪我は」
「これから診てもらうところです」
「診ていらっしゃらなかったのですか!?」
「いや、楯岡さんと志乃さんが先だったので」
「いけません!」
秋穂は、俺の腕を掴んだ。
「すぐに参りましょう! 今すぐ!」
「ちょ、紫条通さん」
「蘭花さん、お医者様はどちらに」
「三階の、さっきの診察室」
「かしこまりました!」
秋穂は、俺の腕を引いて歩き出した。
背中で、凛がぼそりと言うのが聞こえた。
「……蘭花さん」
「なに」
「お嬢様が、人様の腕をお引きになっております」
「そうね」
「あのようなこと、高峯学園では一度もございませんでした」
「……よかったじゃない」
「……はい」
凛の声は、少しだけ笑っていた。
結果は、肋骨に異常なし。
右の脇腹に打撲、左肩に打撲、両腕に細かい切り傷。
「君、本当に殴られたの?」
初老の医師が、レントゲン写真を見ながら首をかしげた。
「打撲の範囲からすると、相当な力で殴られてるはずなんだけど。骨に何もない」
「……体が、頑丈なんです」
「頑丈にも限度があるんだよなあ」
医師は、不思議そうに写真を眺め続けていた。
俺は、曖昧に笑ってごまかした。
午後、志乃さんの病室に集まった。
志乃さんは、ベッドに半身を起こしていた。
昨夜より、少し顔色がよくなっていた。
点滴の管が腕に繋がっているが、目には光があった。
そして、ベッドの脇に、一人の老人が座っていた。
浮橋喜一さん。
志乃さんの父親だった。
「……お父さん」
「志乃」
喜一さんは、娘の手を握ったまま、何も言えずにいた。
作業着ではなく、古い背広を着ていた。
たぶん、持っている中で一番上等なものなのだろう。袖が、少し短かった。
坂東さんが、夜明けに車で栃木まで迎えに行ったのだと、蘭花先輩が教えてくれた。
「……すまん」
喜一さんの口から、ようやく言葉が出た。
「すまん、志乃。わしが、わしが……」
「お父さん。やめて」
志乃さんは、首を横に振った。
「わたしが決めたことなの。お父さんのせいじゃない」
「違う! わしが、あんな金を受け取ったから」
「違わないよ」
志乃さんは、父親の手を握り返した。
「わたしが、箱を持ち出したの。……お父さんは、何も知らなかった」
喜一さんは、顔を覆った。
その肩が、小さく震えていた。
俺たちは、病室の入り口近くで、黙って立っていた。
秋穂が、一歩前に出た。
「お父様」
喜一さんが、顔を上げた。
「お、お嬢様」
「志乃さんは、生きて帰ってこられました」
秋穂は、静かに言った。
「それだけで、よろしいのではありませんか」
「……ですが」
「これから、いろいろと大変なことが起こります」
秋穂は、まっすぐに言った。
「志乃さんは、罪を犯しました。それは、償わなければなりません。……けれど、償えるのは、生きている者だけです」
喜一さんは、呆然と秋穂を見ていた。
「ですから、まずはお二人で、生きていてくださいませ」
秋穂は、深く頭を下げた。
「それが、わたくしからのお願いです」
「――で、ここからが本題」
病室に、蘭花先輩の声が響いた。
空気が、すっと切り替わった。
「志乃さん。体調が許す範囲で、話を聞かせてほしいの」
「……はい」
「それと、こちら」
蘭花先輩が、病室の外に向かって手招きをした。
入ってきたのは、五十代くらいの女性だった。
グレーのスーツ。短く整えた髪。手には、分厚い革の鞄。
目つきが、鋭いというよりは、冷静だった。
「弁護士の、黒澤さんです。佐生家の顧問をしていただいてます」
「黒澤と申します」
女性は、全員に名刺を配った。
「佐生さんから、昨夜のうちに連絡を受けました。……率直に申し上げて、相当に厄介な案件です」
黒澤さんは、パイプ椅子を引き寄せて座った。
「まず、整理しましょう。この件には、三つの犯罪が絡んでいます」
黒澤さんは、鞄から取り出したノートを開いた。
「一つ。浮橋志乃さんによる、祭祀文書の窃盗。これは、ご本人も認めておられます」
「……はい」
「二つ。紫条通春花氏による、窃盗の教唆。および、国家機密の漏洩」
「…………」
「三つ。浮橋志乃さんに対する、監禁」
黒澤さんは、ペンで三つの項目を囲んだ。
「このうち、一番立証が簡単なのは、一つ目です。……つまり、志乃さんの罪」
志乃さんが、俯いた。
「そして、一番立証が難しいのは、二つ目。春花氏の教唆です」
「なぜです」
凛が、低い声で訊いた。
「志乃さんの証言は、揺るがぬものです」
「人の記憶は、証拠としては弱いのです」
黒澤さんは、淡々と言った。
「録音も、書面もない。密室での会話。……向こうは、こう言うでしょう。『志乃は窃盗の罪を軽くするために、主家の娘を巻き込もうとしている』と」
凛が、唇を噛んだ。
「それに、志乃さんには、既に三千万円という『動機』があります」
「…………」
「借金を返すために盗んだ。それは事実です。そして、誰が払ったかは辿れない。……向こうは、『志乃が自分の判断で盗み、どこかに売った』という筋書きを立てられます」
「そんな、無茶な」
「無茶ですが、通ります」
黒澤さんは、はっきりと言った。
「なぜなら、こちらには原本がないからです」
病室が、静まり返った。
「原本が出てこない限り、『志乃さんが外部に売った』という説を否定できません。……逆に、原本が稔彦氏の手元から出てくれば」
「全部、ひっくり返ります」
俺は、思わず言った。
「そのとおりです」
黒澤さんは、頷いた。
「鷲羽司稔彦氏が原本を所持している。この一点が立証できれば、他の全部が繋がります。文書の流出経路、春花氏の関与、志乃さんの証言の信頼性。すべて」
蘭花先輩が、腕を組んだ。
「で、問題は、原本がどこにあるか分からない」
「はい」
「葉山にはなかった?」
「志乃さんの証言では、稔彦氏が持ち帰ったとのことです」
黒澤さんは、志乃さんのほうを見た。
「浮橋さん。稔彦氏が、どこへ持って行ったのか。何か、お心当たりは」
「……申し訳ございません」
志乃さんは、首を横に振った。
「わたしは、下がるように言われましたので」
「分かりました」
黒澤さんは、ノートに何かを書き込んだ。
「では、現時点でできることを申し上げます」
黒澤さんは、顔を上げた。
「一つ。志乃さんの証言を、宣誓供述書の形で残します。これは、今日やります」
「今日ですか」
「はい」
黒澤さんの声は、硬かった。
「失礼を承知で申し上げますが、浮橋さんは二か月間、監禁されていました。……向こうが、この証言を潰そうと動く可能性は、極めて高い」
病室が、冷えた。
「ですから、今日のうちに、第三者の前で証言を記録します。日付を押さえることが重要です」
「……分かりました」
志乃さんは、頷いた。
「二つ。監禁について、告訴の準備を始めます。……ただし、提出はしません」
「しないんですか?」
「今は、できません」
黒澤さんは、首を横に振った。
「告訴すれば、必ず事前に相手方へ確認が行きます。そうなれば、向こうは証拠を消しに動く。……葉山の別邸は、今日中に空になるでしょう」
「じゃあ、意味がないじゃないですか」
「ございます」
黒澤さんは、俺を見た。
「告訴状は、『いつでも出せる』という状態にしておくことに価値があるのです。……交渉の場で、これほど強いものはありません」
俺は、ぞくりとした。
この人は、刃を研いで、鞘に収めておくつもりなのだ。
「三つ。皆さんの昨夜の行動について」
黒澤さんの声が、少しだけ低くなった。
「正直に申し上げます。皆さんは、他人の建物に無断で侵入しました。これは、住居侵入罪にあたります」
全員が、黙った。
「ただし」
黒澤さんは、続けた。
「中で監禁が行われていた。そして皆さんは、誰にも暴行を加えていない」
黒澤さんは、ノートを閉じた。
「涼木さん。あなたが、警備員に手を出さなかったこと。……それが、この件で一番大きな判断でした」
「…………」
「もし一人でも殴っていれば、傷害罪です。そうなれば、向こうは監禁の件を伏せたまま、傷害事件だけを表に出せた。……今は、それができません」
黒澤さんは、立ち上がった。
「向こうが皆さんを訴えれば、監禁の件も必ず表に出ます。だから、訴えられない」
黒澤さんは、鞄を持ち直した。
「つまり、現時点では、互いに手を出せない状態です。……向こうも、こちらも」
「……睨み合い、ですか」
「そうです」
黒澤さんは、わずかに口の端を上げた。
「そして、こういう睨み合いでは、必ず、動く必要のある側が先に動きます」
「動く必要のある側……」
「向こうです」
黒澤さんは、はっきりと言った。
「向こうには、期限があります。年の瀬の親族会議。それまでに跡取りの座を手に入れなければならない」
秋穂が、小さく息を呑んだ。
「対してこちらは、待っていても困りません。志乃さんは保護された。証言も残る。……時間は、こちらの味方です」
黒澤さんは、ドアに手をかけた。
「ですから、次に何かが起きるのは、向こうからです」
そして、振り返った。
「それが、何であるか。……心構えだけは、しておいてください」
宣誓供述書の作成は、三時間かかった。
志乃さんは、何度も言葉に詰まりながら、全部を話した。
八月二十日に春花が部屋に来たこと。三度断ったこと。「志乃が断っても、箱はなくなるの」と言われたこと。八月二十二日の夜に箱を持ち出したこと。葉山で春花と稔彦が照明を立てて撮影していたこと。二日後に春花が怒って現れたこと。そして、二か月の監禁。
黒澤さんは、一つ一つ、日付と時刻と場所を確認しながら記録していった。
終わったとき、志乃さんは疲れ果てていた。
それでも、最後に顔を上げて、言った。
「……あの」
「はい」
「わたしは、自首したほうがよろしいのでしょうか」
病室が、静まり返った。
「いずれ、していただきます」
黒澤さんは、正直に答えた。
「ただし、時期を選びます。……今ではありません」
「なぜです」
「今自首すれば、あなたは身柄を拘束されます。そうなれば、あなたは誰とも会えなくなる」
黒澤さんは、志乃さんの目を見た。
「そして、向こうは、あなたを『単独犯』として処理できます。……窃盗犯が勝手に盗んで売った。それで終わりです」
「…………」
「あなたが罪を償うのは、必要なことです。けれど、償い方には、順番があります」
黒澤さんは、鞄に書類を収めた。
「原本が出て、春花氏と稔彦氏の関与が立証された後。そのときに、あなたは堂々と出頭してください」
志乃さんは、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……かしこまりました」
「それと、浮橋さん」
「はい」
「あなたの罪は、窃盗です。被害額は、金銭に換算できない国家機密ですから、軽くはありません」
黒澤さんは、淡々と言った。
「ただし、あなたは脅迫に近い状況で実行させられ、二か月間監禁されていました。初犯で、被害者側――つまり紫条通家が宥恕されるのであれば」
黒澤さんは、秋穂のほうを見た。
「実刑にはならない可能性が、十分にあります」
志乃さんの肩が、びくりと動いた。
「わたくしは」
秋穂が、口を開いた。
「志乃さんを、宥恕いたします」
「お、お嬢様!」
「ただし」
秋穂は、志乃さんを見た。
その目は、優しくなかった。
「全部、お話しいただいてから。そして、きちんとお裁きを受けていただいてから」
「……はい」
「それが済んだら」
秋穂は、ふっと表情を緩めた。
「また、わたくしのお茶を淹れてくださいませ」
志乃さんの目から、涙がこぼれた。
「……お嬢様」
「あなたの淹れたお茶が、一番美味しいのです。凛には言わないでくださいね」
「聞こえております、お嬢様」
ベッドの脇で、凛が低い声で言った。
病室に、小さな笑いが落ちた。
月曜日の朝。
俺は、教室に入って、思わず足を止めた。
凛が、席に座っていた。
「……楯岡さん」
「おはようございます、涼木様」
顔の左半分に大きな湿布。鼻にガーゼ。左腕に包帯。
どう見ても、完全に病人だった。
「何してるんですか」
「登校しております」
「全治三週間ですよね」
「三週間、お嬢様のお側を離れるわけにはまいりません」
「お医者さんは」
「反対しておられました」
「蘭花先輩は」
「大変お怒りでした」
「…………」
「ですが」
凛は、きっぱりと言った。
「お嬢様が、お許しくださいましたので」
俺は、窓際の席を見た。
秋穂が、困ったような顔で微笑んでいた。
「……颯騨様。わたくしも、何度もお止めしたのです」
「でしょうね」
「ですが、凛が『這ってでも参ります』と申しますので」
「這われても困るので」
「ええ。ですから、車でお送りしました」
秋穂は、少し恥ずかしそうに言った。
「坂東様が、『お任せください』と」
坂東さん、巻き込まれすぎだ。
「あ、楯岡さん! どうしたのその顔!?」
登校してきた女子生徒が、凛を見て悲鳴を上げた。
たちまち、教室がざわついた。
「え、めっちゃ怪我してる」
「大丈夫? 事故?」
「誰かにやられたの!?」
凛は、背筋を伸ばして答えた。
「お休みの日に、階段から落ちました」
――その言い訳は、無理がありすぎる。
「階段で鼻の骨にヒビは入らないでしょ!?」
宇佐美玲奈が、真っ先に突っ込んだ。
「入りました」
「入らないって!」
「入りました」
「嘘つくの下手すぎでしょあんた!」
宇佐美は、凛の机の前に立って、腰に手を当てた。
「……ねえ。誰にやられたの」
「階段です」
「階段に名前聞いてんじゃないの」
宇佐美は、しばらく凛を睨んでいた。
それから、ふいっと目を逸らした。
「……まあ、言いたくないなら、いいけど」
宇佐美は、自分の鞄から、何かを取り出した。
ひんやりとした、冷却シートの箱だった。
「使って。うち、体育祭のときに買ったのが余ってるから」
凛が、目を見開いた。
「……宇佐美様」
「様はやめて。気持ち悪い」
「ですが」
「あと、昼休み、重箱運ぶの手伝うから」
宇佐美は、背を向けて歩き出した。
「あんた、その腕じゃ無理でしょ」
凛は、しばらく冷却シートの箱を見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「……お嬢様」
「はい、凛」
「平民の学校は、よいところですね」
秋穂が、くすりと笑った。
「ええ。そう思います」
その日の昼休み。
旧視聴覚準備室で、俺たちは重箱を囲んでいた。
凛は、片腕で器用に箸を使っていた。
蘭花先輩は、相変わらず蒸し鶏をつついていた。
「……静かね」
蘭花先輩が、ぽつりと言った。
「はい」
「サーバーへの攻撃、昨日の夜から止まってるのよ」
俺は、箸を止めた。
「止まった?」
「ぴたりと。……二か月近く毎日来てたのが、嘘みたいに」
蘭花先輩は、モニターのほうを見た。
一番右の画面。
いつも赤いログが流れていた画面が、今は、何も映していなかった。
「こっちが志乃さんを連れ出したから、もう時間稼ぎの必要がなくなった。……そういうことでしょうね」
「…………」
「黒澤さんの言ってたとおりよ。次は、向こうが動く」
蘭花先輩が、箸を置いた。
「で、たぶん、もうすぐ来るわ」
そのときだった。
蘭花先輩のスマホが、短く鳴った。
続いて、俺のスマホも。
秋穂のスマホも。
ニュースアプリの通知だった。
俺は、画面を見た。
そして、息を呑んだ。
『鷲羽司侯爵家三男と紫条通伯爵家三女が婚約 披露宴は十二月二十三日』
部屋が、静まり返った。
「……来たわね」
蘭花先輩が、低く呟いた。
俺は、記事を開いた。
二人の写真が、大きく載っていた。
銀縁眼鏡の、神経質そうな青年。
明るい茶髪を巻いた、華やかな美少女。
並んで、カメラに向かって微笑んでいた。
記事を、読み進める。
『両家の発表によると、婚約披露宴は十二月二十三日、都内のホテルにて開催。華族・財閥関係者を中心に、約三百名が招待される見込み』
『また、紫条通伯爵家では、年末に親族会議を開き、春花氏を正式な跡取りとして決定する方針であることも明らかにされた』
そして、記事の最後。
『なお、同家の次女・秋穂氏については、「国家機密漏洩疑惑により家督を継ぐ資格を失った」として、――』
俺は、画面から目を上げた。
秋穂は、自分のスマホを両手で持ったまま、じっとその画面を見ていた。
表情は、変わらなかった。
けれど。
その指先が、わずかに白くなっていた。
「……十二月二十三日」
秋穂が、小さく言った。
「親族会議は、二十八日と伺っております」
「……五日前ね」
蘭花先輩が、頷いた。
「披露宴で全員に顔を見せて、『これが次の紫条通家だ』と刷り込んでから、親族会議にかける。……完璧な段取りよ」
「はい」
秋穂は、スマホを置いた。
そして、顔を上げた。
「ですが、蘭花さん」
「なに?」
「向こうが、日取りを教えてくださいました」
秋穂の目に、光があった。
怒りではなかった。
もっと静かで、もっと深いものだった。
「十二月二十三日。都内のホテル。華族の皆様が、三百名」
秋穂は、一つ一つ、確かめるように言った。
「紫条通家の名誉を回復するには、華族の皆様の前で真実を明らかにするほかございません。……けれど、そのような場所を、わたくしの力では用意できませんでした」
蘭花先輩が、はっと目を見開いた。
「……あなた」
「向こうが、用意してくださったのです」
秋穂は、ふわりと微笑んだ。
「三百名の華族が集まる場所を。日付まで決めて」
部屋が、静まり返った。
やがて、蘭花先輩が、額に手を当てて笑いはじめた。
「……ほんと、あなたって人は」
「おかしなことを申しましたでしょうか」
「おかしくない。……全然おかしくないわ」
蘭花先輩は、ノートパソコンを開いた。
「二か月。……十二月二十三日まで、ちょうど二か月弱」
キーボードを叩く音が、部屋に響きはじめた。
「原本を見つけて、証拠を固めて、あの会場に乗り込む。……それが、こっちの作戦」
「はい」
凛が、片腕で背筋を伸ばした。
「お供いたします」
「あんたは治してから言って」
「治します」
俺は、スマホの画面をもう一度見た。
写真の中で、春花が微笑んでいた。
その隣で、稔彦は、口元だけで笑っていた。
眼鏡の奥の目は、どこか落ち着かない場所を見ていた。
――保険。
蘭花先輩の言葉を思い出した。
稔彦は、春花を信じていない。だから、原本を手元に押さえている。
春花に捨てられないための、保険として。
婚約が、発表された。
ということは。
「……先輩」
「なに?」
「婚約が決まったってことは、稔彦は、もう保険がいらなくなるんですか」
蘭花先輩の手が、止まった。
「それとも、婿入りが完全に決まるまでは、持ってるんですか」
蘭花先輩は、ゆっくりと振り返った。
「……颯騨くん」
「はい」
「それ、すごく大事な質問よ」
蘭花先輩は、眼鏡を押し上げた。
「もし、彼が婚約発表で安心して保険を処分したら。……原本は、もう存在しない」
背筋が、冷たくなった。
「でも、保険として持ち続けるなら。……婚姻が成立するまで、絶対に手放さない」
「どっちだと思いますか」
「分からない」
蘭花先輩は、正直に答えた。
「人間の心の話だから。データには出ない」
部屋が、静まり返った。
そのとき。
秋穂が、静かに言った。
「……持っておられると思います」
全員が、秋穂を見た。
「なぜ、そう思うの?」
「稔彦様は、臆病な方です」
秋穂は、スマホの中の写真を見ていた。
「婚約を解かれる夜、あの方は、わたくしの前で堂々と宣言なさいました。けれど、宴の後、お一人になられたとき」
秋穂は、少しだけ目を伏せた。
「池の向こうの東屋で、お一人で座っておられるのを、わたくしは見ました」
「…………」
「三十分ほど、動かずに。……誰も見ていないところで」
秋穂は、顔を上げた。
「あの方は、ご自分のなさったことが、怖かったのです」
誰も、何も言えなかった。
「怖い人は、保険を捨てません」
秋穂は、はっきりと言った。
「捨てたら、もっと怖くなりますもの」
蘭花先輩が、ゆっくりと息を吐いた。
「……嫌になるくらい、説得力があるわね」
蘭花先輩は、キーボードに向き直った。
「分かった。原本は、稔彦の手元にあると仮定して動く」
画面に、新しいウィンドウが開いていく。
「鷲羽司稔彦。十八歳。高峯学園高等部三年。……今日から、この人の全部を洗うわ」
窓の外では、十月の風が、街路樹の葉を散らしていた。
十二月二十三日。
あと、二か月。
俺は、ポケットの中のお守りを、そっと握りしめた。




