第18話 封じられた神速
鋼球の散らばった床の上で、久世遼平が一歩を踏み出した。
俺は、志乃さんを背中に庇いながら、後ろに下がった。
足の裏が、鋼球を踏む。ぐらり、と体重が流れた。
――まずい。
この床では、踏み込めない。
踏み込めなければ、加速できない。加速できなければ、俺はただの、ちょっと反射神経のいい高校生だ。
「若いの」
久世が、警棒を軽く振った。
「悪いが、こっちは仕事だ」
久世の足が、床を滑るように動いた。
速い。
人間としては、信じられないほど速い。
警棒が、下から跳ね上がってきた。
俺は、反射的に体を捻った。
風が、顎をかすめた。
当たってはいない。だが、避けきれていない。
――おかしい。
久世の動きは、俺から見れば、十分に「遅い」はずだった。
本気を出せば、止まって見える速さだ。
なのに、体が動かない。
足が、滑るからだ。
避けようとしても、踏ん張れない。力が、地面に伝わらない。
二撃目。
横薙ぎの一閃が、脇腹に入った。
「ぐっ――」
息が詰まった。
倒れかけた俺の肩を、志乃さんが支えた。
「あ、あなた、逃げて! わたしのことは――」
「黙って」
俺は、志乃さんの腕を掴み直した。
「下がっててください」
久世は、追撃してこなかった。
ただ、警棒を下ろしたまま、こちらを見ている。
「……ほう」
久世が、小さく呟いた。
「今のを食らって、立っていられるか」
肋が、軋んでいた。普通なら、骨が折れていてもおかしくない一撃だった。
でも、折れていない。
俺の体は、音速に近い速度にも耐える。棒で殴られたくらいでは、壊れないらしい。
それでも、痛いものは痛い。
「……あんた」
俺は、呼吸を整えながら言った。
「四日前、俺が見えてよね」
「見えてはおらん」
久世は、あっさりと答えた。
「見えていたのは、草の倒れ方だ」
「……は?」
「風は、吹いていなかった。なのに、崖の上の草が、一方向に倒れた。それだけだ」
久世は、警棒の先で、床を軽く叩いた。
「お前さんが通った後には、必ず風が残る。埃が舞う。虫が飛ぶ。……そういうものを、拾っているだけだ」
俺は、ぞっとした。
この男は、俺を見ているのではない。
俺が通った「跡」を見ている。
どれだけ速く動いても、世界は動いた分だけ揺れる。その揺れを、この男は読む。
「お前さんの足は、大したものだ」
久世は、静かに言った。
「だが、速いというだけでは、足りん」
「…………」
「速さは、使える場所でしか使えん。狭い部屋、滑る床、暗がり。……そういう場所では、ただの的だ」
久世が、また一歩、前に出た。
俺は、下がった。背中が、壁に当たった。
後ろは、割れた窓。
でも、志乃さんを抱えて飛び出すには、助走がいる。この床では、無理だ。
――考えろ。
俺は、歯を食いしばった。
どうすれば。
どうすれば、この床から抜け出せる。
『颯騨くん! 何が起きてるの!』
耳元で、蘭花先輩の声がした。
「……床に、鉄の玉を撒かれました」
『鉄の玉?』
「ベアリングです。足場が、全部潰されました」
耳元が、沈黙した。
『……靴は? 靴を脱いだら』
「それでも踏めません。玉が転がるので」
『じゃあ、どうすれば――』
そのとき。
俺の耳に、別の音が届いた。
階下から。
正門のほうから。
――怒鳴り声。
そして、何か硬いものが、地面に倒れる音。
『凛ちゃん!?』
蘭花先輩が叫んだ。
『凛ちゃん! 応答して!』
答えは、なかった。
代わりに、インカムの向こうから、荒い息の音だけが聞こえてきた。
俺の頭が、かっと熱くなった。
「久世」
「何だ」
「門の前にいる人に、手を出したのか」
久世の眉が、わずかに動いた。
「……俺はそういう指示は出しとらん」
「じゃあ、部下が勝手にやったんだな?」
「そうかもしれん」
久世は、否定しなかった。
「だが、あの娘さんも素人ではなかろう。殴られるのを承知で立っていた」
「――だからって」
「だからこそ、だ」
久世の声が、少しだけ低くなった。
「あの娘さんは、わざと殴られに来た。主のために、体を張りに来た。……そういう覚悟の人間に、俺がどうこう言う筋合いはない」
俺は、拳を握りしめた。
分かっている。凛は、覚悟のうえで行った。殴られても抵抗するなと、蘭花先輩に言われて、それを呑んで行った。
分かっている。
でも。
「……ふざけるな」
声が、漏れた。
「あいつは、謝るために行ったんだ」
久世の目が、わずかに動いた。
「自分が側を離れたせいで、全部始まったって、ずっと自分を責めてて。だから、今度は自分が前に立つって、そう言って行ったんだよ」
俺は、顔を上げた。
「そんな奴を殴るのが、お前の仕事か」
久世は、答えなかった。
ただ、しばらく俺を見つめていた。
そして、ふっと息を吐いた。
「……小僧。お前さん、いくつだ」
「十七」
「そうか」
久世は、警棒を下げた。
「俺の息子と、同い年だ」
その言葉が、妙に静かに響いた。
「仕事だ」
久世は、もう一度言った。今度は、自分に言い聞かせるように。
「恨むなら、俺に金を払った奴を恨め」
久世が、踏み込んだ。
警棒が、唸りを上げた。
俺は、志乃さんを突き飛ばした。
ベッドの上へ。鋼球のない、唯一の場所へ。
「きゃっ――」
志乃さんが、ベッドに倒れ込む。
その一瞬の隙に、警棒が俺の肩を打った。
――激痛。
だが、構わなかった。
――ベッド。
鋼球のない場所が、ひとつだけある。
俺は、床を蹴った。
滑る。踏めない。だが、それでいい。
滑りながら、俺は体を倒した。そして、壁に手をついた。
壁は、滑らない。
――そうだ。
床が駄目なら、床を使わなければいい。
俺は、壁を蹴った。
音が、消えた。
世界が、止まる。
止まった世界の中で、俺は壁を横に走った。
部屋の壁を、横向きに。
一歩、二歩、三歩。重力が追いつく前に、次の一歩を踏む。
天井近くまで駆け上がり、そこから、ベッドへ。
志乃さんの体を、両腕で抱き上げた。
軽い。
羽のように軽い。
そして、ベッドのスプリングを蹴って、割れた窓へ――
――ぱっ。
世界が、白く灼けた。
光。
強烈な、白い光。
止まった世界の中でさえ、その光は、すべてを塗り潰した。
閃光弾。
久世が、いつの間にか投げていた。
視界が、完全に失われた。
俺は、速度を保ったまま、何も見えない空間に飛び出していた。
――まずい。
この速さで、何も見えない。
窓はどこだ。壁はどこだ。志乃さんを抱えたまま、壁に激突したら。
俺は、咄嗟に、空中で体を丸めた。
志乃さんを抱え込み、背中から。
――どん!
何かに、ぶつかった。
衝撃。肩と背中に、鈍い痛みが走る。
だが、突き抜けなかった。
壁ではない。
俺は、床に転がった。
鋼球が、背中の下で、ばらばらと音を立てた。
目が、見えない。
白い光の残像だけが、視界いっぱいに焼きついている。
「……っ、志乃さん、無事ですか」
「は、はい……あなたは」
「平気です」
平気ではなかった。
目が見えない。
足場もない。
完全に、詰んでいた。
足音が、近づいてくる。
ゆっくりと、確実に。
「言ったはずだ」
久世の声が、すぐ近くで聞こえた。
「速さは、使える場所でしか使えん」
警棒が、振り上げられる気配がした。
俺は、志乃さんの上に覆いかぶさった。
せめて、この人だけは。
――そのとき。
「――久世様と、お見受けいたします」
凛の声が、した。
部屋の、入り口から。
俺は、顔を上げた。
まだ、何も見えない。白い光の中に、ぼんやりとした人影が揺れているだけだ。
でも、声は、確かに凛のものだった。
「……楯岡、さん」
「お待たせいたしました、涼木様」
凛の声は、少しかすれていた。
そして、わずかに、鼻にかかっていた。
「楯岡さん、怪我は」
「鼻血が出ておりますが、大したことはございません」
凛は、あっさりと言った。
「門の方々は、お眠りになりました」
「……は?」
「抵抗はしておりません。相手の勢いを、床にお返ししただけです」
久世の気配が、動いた。
「……三人もか」
「順番にお相手いただきました」
凛の声には、疲労が滲んでいた。
「一人目に殴られ、二人目に殴られ。……三人目が蹴ってこられたときに、少々、堪忍袋が切れました」
「蘭花さんの指示は」
「破りました」
凛は、きっぱりと言った。
「後で叱られます。ですが、お嬢様の大切な方が、ここで死にかけておられるのです。叱られるくらい、安いものです」
俺は、思わず笑いそうになった。
こんな状況なのに。
「久世様」
凛が、言った。
「楯岡凛と申します。紫条通伯爵家にお仕えする、士族の家の者です」
「……楯岡か」
「ご存じですか」
「名前だけはな」
久世の声は、変わらず静かだった。
「悪いが、娘さん。俺はお前さんの家柄に興味はない」
「存じております」
「なら、どくか、来るかだ」
「参ります」
足音が、踏み込んだ。
そして、肉を打つ音が、立て続けに響いた。
目が、少しずつ戻ってきた。
白い残像の向こうに、二つの影が見えた。
凛と、久世。
凛の動きは、速かった。
鋼球の床の上で、滑ることなく、小刻みに足を運んでいる。草履を脱ぎ、足袋だけになっていた。重心を落とし、擦るように歩いている。
士族の武術というのは、こういう足運びをするのか。
だが。
久世は、それを上回っていた。
凛の打ち込みを、最小限の動きでいなす。
避けるのではなく、ずらす。力の向きを変えて、流す。
そして、その流れのまま、凛の体勢を崩していく。
「っ――」
凛が、床に膝をついた。
久世の警棒が、振り下ろされる。
凛は、それを腕で受けた。
――ごっ。
鈍い音。
凛の口から、短い呻きが漏れた。
「楯岡さん!」
「涼木様!」
凛が、叫んだ。
膝をついたまま、こちらを見もせずに。
「私を見ないで! 志乃さんを連れて、窓から!」
「でも、あんたが」
「私は、囮です! 最初から、ずっと!」
凛の声が、部屋に響いた。
「お嬢様がお待ちです! 行きなさい!」
――ああ、くそ。
俺は、歯を食いしばった。
視界は、まだ半分も戻っていない。
肩も脇腹も、痛い。足場は、相変わらず鋼球だらけだ。
でも。
窓の位置は、分かった。
外の夜気が、流れ込んでくる方向。
波の音が、一番大きく聞こえる方向。
見えなくても、分かる。
俺は、志乃さんを抱え直した。
「志乃さん。息を止めてください」
「え――」
壁に、手をついた。
そして、蹴った。
音が、消えた。
壁を、三歩。
空中で、体を捻る。
窓の外へ。
――落下。
二階から、庭へ。
着地の瞬間、膝を深く折って衝撃を殺した。
志乃さんの体には、ほとんど衝撃を伝えなかったはずだ。
庭の土は、滑らなかった。
俺は、地面を蹴った。
世界が、止まった。
塀を越え、崖を駆け下り、海沿いの道へ。
八百メートルを、四秒。
「颯騨くん!!」
駐車場で待っていた蘭花先輩が、飛び出してきた。
「志乃さん!」
秋穂が、車から転がるように降りてくる。
「志乃さん!」
「……お、お嬢様」
志乃さんは、俺の腕の中で、呆然としていた。
何が起きたのか、分かっていない顔だった。
当たり前だ。閃光弾の光の中、気づいたら八百メートル離れた駐車場にいるのだから。
秋穂が、志乃さんに駆け寄った。そして、その痩せた体を、きつく抱きしめた。
「志乃……!」
「お、お嬢様……! 申し訳ございません、申し訳ございません……!」
「後になさい!」
秋穂が、叫んだ。
「謝罪は、後です! 今は、生きていてくださったことだけで、十分です!」
二人は、駐車場のアスファルトの上で、抱き合って泣いていた。
俺は、それを一秒だけ見て、踵を返した。
「颯騨くん!?」
「凛を、迎えに行きます」
「待って! あなた、怪我して――」
「四秒で戻ります」
俺は、地面を蹴った。
別邸の庭に戻ったとき。
二階の窓から、凛が落ちてくるところだった。
いや、落ちたのではない。
自分で飛び降りたのだ。
俺は、世界の止まった中で、その落下地点に滑り込んだ。
受け止める。
速度を落とす。
「――っ!」
凛が、目を見開いた。
「……涼木、様」
「遅くなりました」
「……早すぎます」
凛の顔は、ひどい有様だった。
鼻から血を流し、唇が切れ、左の頬が腫れている。
着物の袖が破れ、前掛けは泥だらけだった。
それでも、凛は、笑った。
「志乃さんは」
「秋穂さんと一緒です。無事です」
「……そうですか」
凛の体から、力が抜けた。
「……よかった」
二階の窓に、人影があった。
久世遼平が、割れた窓枠に手をついて、こちらを見下ろしていた。
追ってこない。
ただ、静かに、こちらを見ている。
俺は、凛を抱えたまま、その顔を見上げた。
「……追わないのか」
声が届くとは思わなかった。
だが、久世は、小さく肩をすくめた。
「追えんよ」
夜風に乗って、その声が降ってきた。
「お前さんの足には、追いつけん」
「…………」
「それに」
久世は、部屋の中を、ちらりと振り返った。
「仕事は、浮橋さんをあの部屋に置いておくことだ。……連れ出された以上、仕事は終わりだ」
久世は、窓枠から手を離した。
そして、背を向けかけて、もう一度、こちらを見た。
「小僧」
「……はい」
「次は、こうはいかん」
その声には、怒りも、恨みもなかった。
「次は、もっと広い場所で会おう」
久世は、窓の奥へ消えていった。
俺は、しばらくその窓を見上げていた。
腕の中で、凛が小さく呟いた。
「……涼木様」
「はい」
「あの方は、強うございました」
「ですね」
「私は、一太刀も入れられませんでした」
凛の声は、悔しそうだった。
「でも、三十秒稼ぎました」
俺は、言った。
「あの三十秒がなかったら、俺も志乃さんも、あそこから出られませんでした」
凛は、答えなかった。
ただ、俺の肩に、額を預けた。
「……帰りましょう」
「はい」
俺は、地面を蹴った。
車の中で、志乃さんは、秋穂に抱きしめられたまま、ぽつぽつと話しはじめた。
坂東さんは、黙って車を走らせていた。
蘭花先輩は、凛の顔を濡れタオルで拭きながら、「後でめちゃくちゃ説教するから」と小声で言っていた。凛は「はい」とだけ答えた。
「……八月の、二十日でした」
志乃さんの声は、かすれていた。
「春花様が、わたしのお部屋に、お一人でいらっしゃったのです」
車内が、静まり返った。
「春花様は、父の借金の額を、一円単位でご存じでした。債権者のお名前も、十二年間の返済の履歴も、全部」
「…………」
「そして、おっしゃいました。『志乃。わたし、あなたの力になりたいの』と」
志乃さんは、両手で顔を覆った。
「お姉様のお部屋にある桐の箱を、持ってきてほしい。それだけで、お父様の借金は全部消える、と」
「……断らなかったのですか」
凛が、低い声で訊いた。
「断りました」
志乃さんは、はっきりと言った。
「三度、お断りしました。『そのようなことは、できません』と」
「では、なぜ」
「春花様が、おっしゃったのです」
志乃さんの声が、震えた。
「『志乃が断っても、箱はなくなるの』」
車内の空気が、凍りついた。
「『誰がやっても同じことよ。でも、志乃がやってくれたら、お父様が助かる。志乃がやらなかったら、お父様は助からない。……それだけの違いなの』と」
「…………」
「『どうせなくなるものなら、志乃が得をしたほうがいいでしょう?』と」
誰も、何も言えなかった。
それは、脅迫ですらなかった。選択肢を奪ったうえで、「あなたが選んだ」という形だけを残す。
後になって、志乃さんは一生、自分を責め続ける。
「自分が選んだのだ」と。
「わたしは、箱を持ち出しました」
志乃さんは、言った。
「八月二十二日の夜、お嬢様がお出かけになっている間に。……鍵は、春花様がどこからか用意なさっていました」
「……それで、その箱は」
「次の日、春花様にお渡ししました。葉山の別邸で」
「葉山で?」
「はい。春花様が、『人目につかない場所で』とおっしゃって」
志乃さんは、顔を上げた。
「あの日、別邸には、もうお一人いらっしゃいました」
秋穂の肩が、びくりと動いた。
「……どなたですか」
「鷲羽司の、稔彦様です」
車が、カーブを曲がった。
窓の外を、夜の海が流れていく。
「お二人で、文書をお広げになって、何枚もお写真を撮っておられました。大きな照明を立てて、丁寧に」
蘭花先輩が、小さく息を呑んだ。
「……照明」
「はい。白い傘のついた、大きなものを二つ」
蘭花先輩は、拳を握りしめた。
推測が、裏づけられた瞬間だった。
「お写真が終わって、わたしは下がるように言われました。……それで、おしまいだと思っていたのです」
志乃さんは、俯いた。
「ですが、二日経って、春花様が別邸にいらっしゃいました。……ひどく、お怒りでした」
「怒っていた?」
「はい。『文書がない』と」
全員が、志乃さんを見た。
「『稔彦様が、持って帰ってしまった』と。……春花様は、わたしに『どこへやったの』と何度もお尋ねになりました。わたしは何も知りません。本当に、何も」
志乃さんは、首を横に振った。
「それから、わたしは、あの部屋に閉じ込められました。……最初は、ほとぼりが冷めるまでと言われて。でも、一か月経っても、二か月経っても、出してはいただけませんでした」
車内に、沈黙が落ちた。
俺は、頭の中で整理した。
春花が、志乃さんを使って文書を盗ませた。
二人で写真を撮り、ネットメディアに流した。
だが、原本は――稔彦が持ち去った。
春花にも、ありかを知らせずに。
「……仲間割れ、ですか」
俺は、思わず呟いた。
「違うわね」
蘭花先輩が、首を横に振った。
「最初から、信用してなかったのよ。お互いを」
蘭花先輩は、窓の外を見た。
「稔彦は、春花を信じてない。だから、一番価値のあるものを手元に押さえた。……春花に捨てられないための、保険として」
「保険……」
「そう。婚約を発表して、婿入りが決まるまでは、絶対に手放さない。……たぶん、そういうことよ」
秋穂が、小さく息を吐いた。そして、志乃さんの手を、両手で包み込んだ。
「志乃」
「……はい」
「よく、話してくださいました」
「お嬢様。わたしは」
「お父様に、お会いしましょう」
秋穂は、静かに言った。
「柿が、もう熟しておりました。……早く帰らないと、鳥に食べられてしまいますよ」
志乃さんの目から、また涙が溢れた。
車は、夜の海沿いを、北へ走っていた。東の空が、ほんの少しだけ、白みはじめていた。




