第17話 千羽鶴の部屋
土曜日、二十二時四十分。黒塗りのセダンは、海沿いの駐車場に停まっていた。
シーズンオフの、観光客向けの駐車場だ。この時間、他に車は一台もいない。
街灯がひとつだけ、ぼんやりとアスファルトを照らしていた。
運転席には、佐生家の運転手だという初老の男性が座っていた。
蘭花先輩が「坂東さん」と呼んでいた。一度も余計なことを訊かず、ただ「かしこまりました」とだけ言って、俺たちをここまで運んできた人だ。
後部座席に、秋穂と蘭花先輩。蘭花先輩の膝の上では、ノートパソコンが青白い光を放っていた。
そして、車の外に、俺と凛が立っていた。
「時間を確認するわよ」
蘭花先輩が、窓を開けて言った。
「現在、二十二時四十一分。二十三時ちょうどに、凛ちゃんがインターホン。……時計、合ってる?」
「はい」
「はい」
俺と凛は、同時に答えた。
凛は、いつもの制服姿ではなかった。濃紺の着物に、白い前掛け。髪をきっちりと結い上げ、足元は足袋と草履。
紫条通家の、侍女の正装だった。
「……その格好、動けるんですか」
「動くための格好ではございません」
凛は、背筋を伸ばして言った。
「名乗るための格好です」
なるほど、と思った。
平服の女子高生が門の前に立てば、ただの不審者だ。だが、士族の侍女が正装で立てば、それは「使い」になる。
追い返すにしても、相応の手続きがいる。
「凛ちゃん」
蘭花先輩が、窓から身を乗り出した。
「これ、持っていって」
差し出されたのは、小型のボイスレコーダーだった。
「ずっと録音しておいて。……門前での会話は、全部証拠になるかもしれない」
「かしこまりました」
凛は、それを着物の袂に収めた。
「それと、もうひとつ」
蘭花先輩は、少し言いにくそうに付け加えた。
「相手が手を出してきたら、抵抗しないで」
「……はっ?」
「殴られたら、殴られておいて。そのほうが、後で都合がいい」
凛が、ぽかんと口を開けた。
「蘭花さん。それは、士族としては」
「分かってる。でも、お願い」
蘭花先輩は、真剣な顔で言った。
「あなたが相手に傷を負わせたら、こっちが加害者になる。……あなたが傷を負ったら、向こうが加害者になる」
「…………」
「卑怯なやり方よ。でも、私たちが勝つには、これしかないの」
凛は、しばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「……心得ました」
「ごめんね」
「いいえ」
凛は、顔を上げた。
「蘭花さんは、ずるいお方ですね。……そういう方が味方だと、心強いです」
「褒められてる気がしないんだけど」
「褒めておりますよ?」
凛は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
それから、秋穂のほうを向いた。
「お嬢様」
「凛」
「行って参ります」
秋穂は、車から降りようとして、蘭花先輩に止められた。
窓から身を乗り出して、凛の手を取る。
「凛」
「はい」
「無理は、しないでくださいね」
「……善処いたします」
「約束してください」
「…………」
凛は、答えなかった。
代わりに、秋穂の手を、しっかりと握り返した。
「お嬢様。十五年前、わたくしが初めてお屋敷に上がった日のことを、覚えておいでですか」
「ええ」
「わたくしは、まだ四つで。お父様に『お嬢様をお守りしなさい』と言われても、何のことか分かりませんでした」
凛は、静かに言った。
「ですが、お嬢様が、わたくしの手を引いて、お庭をぐるりと案内してくださった。池の鯉の名前を、一匹ずつ教えてくださった」
「……そんなこともありましたね」
「あのとき、わたくしは決めたのです。この方のためなら、何でもしようと」
凛は、手を離した。
そして、一歩下がって、深く礼をした。
「――楯岡凛、務めを果たして参ります」
二十二時五十五分。
俺は、崖の東側の平場に伏せていた。
四日前と同じ場所。
雑草に埋もれた、古い祠のある小さな平地。
そこから、別邸の庭が見下ろせる。
『見えてる?』
耳元で、蘭花先輩の声がした。
「はい。……人数が増えてます」
『何人?』
「六人です」
耳元が、静かになった。
『……確か?』
「はい、六人です」
俺は、庭を見下ろした。黒い服の男たちが、等間隔に配置されている。
庭に三人、玄関前に一人、建物の裏手に一人。
そして――。
「久世が、玄関の階段に座ってます」
『座ってる?』
「はい。……門のほうを、ずっと見てます」
久世遼平は、玄関前の石段に腰を下ろしていた。
煙草も吸わず、スマホも見ず。ただ、正門のほうを、じっと見ている。
まるで、何かを待っているかのようだった。
『……嫌な感じね』
「そうですね」
『中止する?』
蘭花先輩の声は、本気だった。
俺は、二階の東端の窓を見上げた。明かりが、ついている。格子の向こうに、人影が動いている。
四日前と、同じだった。
「……いいえ」
俺は、答えた。
「明日になったら、あの部屋は空っぽです」
『……そうね』
蘭花先輩が、小さく息を吐いた。
『了解。予定どおりやるわ』
『颯騨様』
別の声が、耳元で聞こえた。
秋穂だった。
『どうか、ご無事で』
「はい」
『お守りは』
「持ってます」
俺は、パーカーのポケットに手を当てた。
歪んだ縫い目の、小さな袋。確かに、そこにあった。
『……では、お願いいたします』
腕時計を見た。
――二十二時五十九分。
秒針が、ゆっくりと進んでいく。
五十五秒。
五十六。
五十七。
五十八。
五十九――
――二十三時。
静かな夜に、インターホンの音が響いた。
『――夜分に、失礼いたします』
凛の声が、インカム越しに聞こえた。
録音用のレコーダーが、こちらの回線にも繋がっている。凛の声は、驚くほどはっきりしていた。
『紫条通伯爵家にお仕えいたします、楯岡の家の者でございます。こちらに、浮橋志乃という者がお世話になっていると伺いまして、面会を願いに参りました』
庭の男たちが、一斉に正門のほうを向いた。
久世が、ゆっくりと立ち上がった。そして、庭の男二人に、手で合図を送った。
二人が、正門に向かって歩き出す。
久世自身は、動かなかった。
石段の上に立ったまま、正門のほうを見ている。
『……おい、何だ』
スピーカー越しの、男の声。
『紫条通家の、楯岡凛と申します。浮橋志乃への面会を』
『そんな者はいない。帰れ』
『おかしゅうございますね』
凛の声は、少しも揺らがなかった。
『こちらは鷲羽司侯爵家のお屋敷と存じますが、十年来お使いになっていないはずの別邸に、六名もの方がおいでです。そして、二階の東端のお部屋だけ、窓に内側から格子が入っております』
沈黙。
『どなたか、お住まいでいらっしゃいますか』
――上手い。
俺は、思わず唸った。
凛は、質問している。責めてもいないし、罪を鳴らしてもいない。ただ、見たままを述べて、問うている。
追い返すなら、何か答えなければならない。
黙れば、それ自体が答えになる。
『……帰れと言っている』
『どのような資格で、お帰りを命じておられるのでしょうか』
『うるせえな』
門の向こうで、足音が増えた。三人目が、正門に寄っていく。
庭に残っているのは、裏手の一人と、久世だけ。
久世は、まだ動かなかった。
石段の上から、正門のほうを見ている。
『颯騨くん』
蘭花先輩の声。
『正門に三人。……行ける?』
「……久世が、こっちを見てないです」
俺は、呼吸を整えた。
四日前は、草を踏んだだけで気づかれた。
だが、今は、インターホンの音と、凛の声と、男たちのやり取りがある。
音が、ある。
「行きます」
『気をつけて』
俺は、立ち上がった。
そして、地面を蹴った。
音が、消えた。
世界が、止まる。
崖を駆け下り、塀に向かって跳んだ。
有刺鉄線の間を、体を捻ってすり抜ける。
三メートルの塀の上から、庭に着地した。
雑草の生い茂った庭。
裏手の男は、こちらに背を向けている。
久世は――。
石段の上で、まだ正門のほうを向いていた。
――気づいていない。
俺は、建物の壁に沿って走った。
二階の東端。外壁には、古い雨樋が通っている。
助走をつけて、壁を蹴った。
一歩。二歩。
止まった世界の中で、俺の体は、垂直の壁を駆け上がっていた。
速度さえあれば、落ちる前に次の一歩が踏める。理屈は分からないが、体がそう知っていた。
二階の窓枠に、手がかかった。
格子は、思ったより細かった。
直径一センチほどの鉄の棒が、縦に七本。溶接ではなく、窓枠にボルトで留められている。
――いける。
俺は、窓枠にぶら下がったまま、体を振った。
そして、両足で、格子の中央を蹴り抜いた。
――ばぎんっ!
鈍い破砕音が、夜の静寂を切り裂いた。
格子が、根元から内側に折れ曲がる。ボルトが引きちぎれ、窓ガラスが砕けた。
音が、戻ってきた。
俺は、割れた窓から、部屋の中に転がり込んだ。
紙の匂いがした。
狭い部屋だった。六畳ほどの洋室。ベッドがひとつ、小さな机がひとつ。
そして、白い鶴が、部屋中にあった。
机の上に、棚の上に、窓辺に、床に。ベッドの枕元にも、壁際にも。
何百羽。いや、もしかしたら、千羽を超えているかもしれない。
どれも、新聞の折り込みチラシや、包装紙や、ノートの切れ端で折られていた。色とりどりの、小さな鶴の群れ。
その真ん中に、一人の女性が立っていた。
髪は、無造作に短く切られている。灰色のスウェット。痩せた頬。落ちくぼんだ目。
浮橋志乃さんだった。
志乃さんは、割れた窓と、床に転がった俺を、呆然と見つめていた。その手には、折りかけの鶴が握られていた。
「……あなたは」
かすれた声だった。長く、ほとんど喋っていない人の声だった。
「涼木颯騨といいます」
俺は、立ち上がった。
「紫条通秋穂さんの、クラスメートです」
志乃さんの目が、見開かれた。
「……お、お嬢様の」
「助けに来ました。一緒に、ここを出てください」
俺は、手を差し出した。
志乃さんは、動かなかった。差し出された俺の手を、じっと見つめている。
そして、ゆっくりと、首を横に振った。
「……帰ってください」
「えっ?」
「お願いします。帰ってください」
志乃さんは、一歩下がった。
折りかけの鶴が、手から落ちた。
「わたしは、ここから出るわけにはいきません」
「何を言って――」
「出たら、お嬢様が危ないのです!」
志乃さんが、叫んだ。その目から、涙が溢れていた。
「わたしがここにいる限り、お嬢様は無事なのです。春花様が、そう約束してくださいました。『志乃がおとなしくしている限り、お姉様には何もしない』と」
階下で、物音がした。誰かが、階段を駆け上がってくる。
時間がない。
「志乃さん。それは」
「あなたは、何もご存じない!」
志乃さんは、両手で顔を覆った。
「わたしは、お嬢様を裏切ったのです。お父さんのために、あの方のお部屋から、お守りしなければならないものを盗み出した。……もう、わたしに、お嬢様の前に出る資格なんて」
――秋穂の言うとおりだった。
俺は、ポケットからスマホを取り出した。
通話は、繋がったままだ。
「志乃さん」
俺は、スマホを差し出した。
「代わります」
「えっ……?」
「ご本人からです」
志乃さんの手が、震えた。
それでも、ゆっくりと、スマホを受け取った。
耳に当てる。
そして。
『――志乃』
その一言で。
志乃さんの膝から、力が抜けた。床に崩れ落ち、スマホを両手で握りしめたまま、声を上げて泣きはじめた。
「お、お嬢様……! お嬢様……!」
『志乃。今、どこにも怪我はありませんか』
「はい。はい……」
『お食事は、召し上がれていますか』
「お、お嬢様。わたしは、わたしは……!」
『志乃』
スピーカー越しに、秋穂の声が聞こえた。穏やかで、静かな声だった。
『わたくしは、あなたを許したわけではありません』
志乃さんの泣き声が、止まった。
『あなたは、紫条通家が預かる祭祀文書を持ち出しました。それは、決して許されることではありません。……いずれ、きちんと償っていただきます』
「……はい」
『ですから、今は、生きて出てきてください』
秋穂の声が、わずかに揺れた。
『償う前に死なれては、困ります』
志乃さんは、スマホを額に押し当てて、嗚咽した。
階段を駆け上がる足音が、近づいてくる。
『志乃。お父様に、お会いしました』
「……えっ?」
『栃木のお家に、伺いました。柿の木が、たくさん実をつけておりました』
志乃さんが、顔を上げた。
『お父様は、泣いておられました。「娘を売った」と、何度も仰って』
「……お父さん……」
『志乃。あなたは、学校の先生におなりになりたかったそうですね』
志乃さんの顔が、くしゃりと歪んだ。
『わたくしは、二十年もお側にいて、何ひとつ存じませんでした』
「お嬢様、そんな」
『ですから、帰りましょう』
秋穂の声が、はっきりと言った。
『帰って、全部わたくしに話してください。あなたのことを、何もかも』
志乃さんは、しばらく動かなかった。
やがて、震える手で、床に落ちた折りかけの鶴を拾った。
そして、顔を上げた。
その目に、はじめて、光のようなものが宿っていた。
「……はい」
志乃さんは、スマホを俺に返した。
「お嬢様。……ただいま、参ります」
ドアの外で、足音が止まった。
俺は、志乃さんの前に立った。
ドアノブが、回る。
――いや。
回らなかった。
ドアは、外から鍵がかかっていた。当たり前だ。ここは、そういう部屋だ。
鍵を探す音。金属の触れ合う音。
「志乃さん。しっかり掴まってください」
「え、あの」
「窓から出ます」
「窓!? ここ、二階ですよ!?」
「大丈夫です」
俺は、志乃さんの腕を取った。
軽かった。ぞっとするほど、軽かった。
窓に向かって、一歩踏み出す。
そのときだった。
――かちり。
ドアの鍵が、開いた。
ドアが、ゆっくりと開かれる。
俺は、振り返った。
廊下の暗がりに、男が立っていた。
短く刈り込んだ髪。
右の眉の上に、古い傷跡。
久世遼平は、部屋の中を見回した。
割れた窓。折れ曲がった格子。床一面の折り鶴。そして、志乃さんの腕を掴んでいる俺。
その顔には、何の表情もなかった。
「……来ると思っていた」
久世は、静かに言った。
そして、ゆっくりと、片手を上げた。
手の中に、小さな袋があった。布製の、拳ほどの大きさの袋。
久世は、それを床に向かって、無造作に振った。
ばらばらばら、と。
無数の、何かが床に散らばった。鋼の、小さな球だった。
ベアリング。直径一センチほどの金属の玉が、部屋の床一面に、折り鶴の間に転がっていく。
机の下にも、ベッドの脇にも、窓際にも。
俺は、息を呑んだ。
足元が、滑る。
どれだけ速く走れても。
どれだけ体が丈夫でも。
――地面を蹴れなければ、一歩も動けない。
「さて」
久世は、ゆっくりと部屋に入ってきた。
鋼球を、踏まないように。一歩ずつ、確かめるように。
「お前さんの足が、どういう仕掛けなのかは知らん」
久世は、言った。
「だが、足である以上、地面がいる」
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
久世は、部屋の真ん中で立ち止まった。
そして、志乃さんのほうに、ちらりと目をやった。
「浮橋さん。こっちへ」
「……い、嫌です」
「困るな」
久世は、ため息をついた。
そして、俺を見た。
静かな、深い水の底のような目で。
「小僧」
「……なんだ」
「その手を離して、窓から出ろ。今なら、追わん」
俺は、志乃さんの腕を、強く握った。
「……断る」
「そうか」
久世は、小さく頷いた。
それから、腰の後ろに手を回した。
「なら、仕方がない」
抜き出されたのは、短い警棒だった。
久世が、一歩、踏み出した。
鋼球が、その足の下で、小さく音を立てた。




