第16話 刃
「――久世遼平。四十四歳」
火曜日の放課後。
旧視聴覚準備室のモニターに、一人の男の顔写真が表示されていた。
短く刈り込んだ髪。日に焼けた、彫りの深い顔。そして、右の眉の上に走る、古い傷跡。
昨夜、俺が止まった世界の中で目を合わせた、あの男だった。
「……本当に、特定できたんですね」
「写真が思ったより鮮明だったからね。あとは、照合するだけ」
蘭花先輩は、画面をスクロールさせた。
「陸上自衛隊の特殊作戦群に、十二年。退官後、民間の警備会社に移って、今はフリー」
「フリーの警備員、ですか」
「ボディガードとか、そんな生易しいものじゃないわ」
蘭花先輩は、別のウィンドウを開いた。そこには、いくつかの記事の切り抜きが並んでいた。
どれも事件そのものではなく、「ある事件が報道されずに終わった」ことについての、小さな続報のようなものばかりだった。
「この業界で、『掃除屋』って呼ばれてるの」
「掃除屋……」
「不祥事のもみ消し、スキャンダルの封じ込め、厄介な人間の管理。……華族や財閥の、表に出せない仕事を引き受ける人間よ」
凛が、息を呑んだ。
「存じております」
凛の声は、硬かった。
「士族の間でも、名前だけは。……主家の恥を、主家の手を汚さずに消す者たちがいると」
「ええ。で、その中でも久世遼平は、相当な上の方みたい」
蘭花先輩は、眼鏡を押し上げた。
「過去に関わったと噂される案件、どれも完璧に闇に葬られてる。警察沙汰にもなってない。……つまり、一度も失敗してない」
部屋が、静まり返った。
「颯騨くん。あなた……、昨夜、よく生きて帰ってきたわね」
俺は、何も言えなかった。
止まった世界の中で、ゆっくりと首を回したあの男。静かな水の底のような、あの目。
――いた。
思い出すだけで、背中が冷たくなった。
「それで、もうひとつ。……こっちが本題よ」
蘭花先輩は、画面を切り替えた。
表示されたのは、電力会社の契約情報のようなものだった。
「葉山の別邸の電気契約。……廃止の申し込みが出てる」
「廃止?」
「十月十八日付で。……つまり、今度の日曜日」
空気が、張り詰めた。
「それだけじゃないわ。同じ住所宛に、産業廃棄物の収集運搬業者の予約が入ってる。十八日の午前中」
「産業廃棄物……」
「家具とか、生活用品とか、まとめて処分する気ね」
蘭花先輩は、淡々と言った。
「痕跡を消すのよ。全部」
凛の顔から、血の気が引いた。
「では、志乃さんは」
「十八日より前に、どこかへ移される。……というのが、一番穏当な推測」
蘭花先輩は、そこで言葉を切った。
誰も、その先を言わなかった。
穏当でない推測が、何であるかは。
この場の全員が、同じように考えていた。
「……タイムリミットは」
俺は、ようやく声を出した。
「土曜日の夜まで」
「そういうことになるわね」
蘭花先輩は、頷いた。
「今日が火曜。……四日しかないわ」
「…………」
「…………」
「…………」
「――警察に、通報すべきです」
最初にそう言ったのは、意外にも蘭花先輩だった。
「監禁は、立派な犯罪よ。颯騨くんの撮った写真もある。格子のついた部屋に、痩せた女性が閉じ込められてる」
「……あの写真で、動いてくれますか」
俺は、正直に言った。
「暗いし、ぶれてるし。そもそも、あの人が浮橋志乃さんだって証明するものがないです」
「分かってる。でも、通報すれば、確認くらいはしてくれるでしょう」
「いいえ」
凛が、はっきりと言った。
「動きません」
蘭花先輩が、凛を見た。
「……どうして言い切れるの」
「相手が、鷲羽司侯爵家だからです」
凛は、膝の上で拳を握った。
「華族に対する捜査は、慣例として、所轄では判断できません。必ず上へ上げられ、上は必ず、事前に本人へ確認を取ります」
「……確認を取る?」
「『このようなご通報がありましたが、何かの間違いでございましょうか』と」
蘭花先輩の顔が、歪んだ。
「それ、通報じゃなくて報告じゃない」
「はい。そのように、わたくしも思います」
凛は、唇を噛んだ。
「捜査が入るのは、ひと月は先でしょう。そして、そのころには、別邸はもぬけの殻です」
部屋が、重く沈んだ。
蘭花先輩が、長いため息をついた。
「……つまり、私たちでやるしかない、と」
「そうです」
「正気じゃないわよ」
「承知しております」
「元特殊作戦群と、その部下が三人よ」
「承知しております」
「……あなた、本当に頑固ね」
蘭花先輩は、頭を抱えた。
それから、がばりと顔を上げた。
「分かった。やるわ」
「蘭花さん」
「どうせ止めても、あなたたちは行くんでしょう。だったら、せめて一番マシな形でやらせるのが、私の仕事よ」
蘭花先輩は、キーボードに向き直った。
「ただし、条件があるわ」
「なんでしょう」
「私の作戦に、全員が従うこと。……誰か一人でも勝手に動いたら、全部終わりよ」
俺たちは、顔を見合わせた。
そして、三人同時に頷いた。
「まず、大前提を確認するわ」
蘭花先輩は、ホワイトボードを引っ張り出してきた。
いつの間にこんなものを持ち込んでいたのだろう。
「この作戦の目的は、ひとつ。……志乃さんを、生きてあそこから出すこと」
蘭花先輩は、ボードに大きく書いた。
『目的:浮橋志乃の救出』
「証拠集めも証言集めも、全部あと。まずは、人ひとりの命」
「……はい」
「で、私たちがやろうとしてるのは、他人の家に無断で入ることよ。はっきり言って、違法行為よ」
蘭花先輩は、きっぱりと言った。
「でも、中で行われてるのは監禁。もっと重い犯罪だわ。……人を助けるために入るなら、後から説明はつく。つけてみせる」
「蘭花さん……」
「うちの顧問弁護士は優秀なのよ。あとで全部、正面から戦う」
蘭花先輩は、にやりと笑った。
それから、笑みを消した。
「ただし、これだけは守って。――誰も殴らない。誰にも怪我をさせない」
「えっ?」
「志乃さんを連れ出すのが目的。警備員を倒すのは目的じゃない」
蘭花先輩は、俺を見た。
「颯騨くん。あなたなら、たぶん四人くらい一瞬で倒せる。……でも、やらないで」
「……なぜですか」
「倒した瞬間、こっちが傷害の加害者になるからよ」
蘭花先輩の目は、真剣だった。
「向こうは、それを待ってる。『侵入者に暴行された』。これ一つで、全部ひっくり返るわ。志乃さんを助け出しても、あなたは傷害罪、秋穂さんは共犯。……親族会議どころじゃない」
俺は、息を呑んだ。
昨夜、校門のときのように、全員叩きのめして連れ出せばいいと、どこかで思っていた。
それは、一番やってはいけないことだった。
「……分かりました」
「いい返事ね」
「でも、先輩。それだと、どうやって」
「逃げるのよ」
蘭花先輩は、ホワイトボードに線を引いた。
「あなたの役目は、戦うことじゃない。誰よりも速く入って、誰よりも速く出ること。……それだけ」
作戦は、驚くほど単純だった。
「まず、車」
蘭花先輩が、ボードに四角を描いた。
「うちの車を一台、運転手付きで出すわ。別邸から八百メートル離れた、海沿いの駐車場に待機」
「……お家の車を、ですか」
「父に話した」
全員が、固まった。
「はっ!?」
「正確には、『友達が困ってるから車を貸して』って言ったの。理由は言ってない。……まあ、察してたと思うけど」
蘭花先輩は、肩をすくめた。
「『何かあったら、すぐ父さんに電話しろ』って言われたわ。……うちの父、ああ見えて、昔はけっこう無茶な人だったらしくて」
蘭花先輩は、少しだけ照れくさそうに眼鏡を直した。
「で、その車に、秋穂さんと私が乗る」
「わたくしも、車に?」
「ええ。絶対に降りないで」
「…………」
「秋穂さん」
蘭花先輩は、真正面から秋穂を見た。
「あなたは、この件の当事者よ。あなたがあの敷地に一歩でも入った瞬間、これは『逆恨みの令嬢が元婚約者の家に押し入った事件』になる」
秋穂は、唇を結んだ。
「分かっております」
「本当に?」
「……はい」
秋穂は、顔を上げた。その目は、濡れていなかった。
「けれど、蘭花さん。ひとつだけ、お願いがございます」
「なに?」
「志乃さんと、お話しさせてくださいませ」
「……話す?」
「はい」
秋穂は、静かに言った。
「志乃さんは、きっと、颯騨様についてはいらっしゃいません」
俺は、思わず聞き返した。
「……どういう意味ですか」
「あの方は、わたくしを裏切りました」
秋穂は、まっすぐに前を見ていた。
「その志乃さんの前に、見ず知らずの男の方が現れて、『助けに来た』とおっしゃる。……志乃さんは、どう思われるでしょうか」
俺は、言葉に詰まった。
「罠だと思われるかもしれません。あるいは、自分にはその資格がないと思われるかもしれません。……いずれにしても、素直に手を取ってはくださらないでしょう」
「…………」
「ですから、わたくしの声が必要です」
秋穂は、自分のスマホを取り出した。
「颯騨様の電話を、繋いだままにしてくださいませ。志乃さんのお部屋に着いたら、わたくしに代わってください」
蘭花先輩が、しばらく秋穂を見つめた。
それから、小さく頷いた。
「……いいわ。インカムは二系統用意する」
「ありがとうございます」
「ただし、話すのは一分以内。それ以上は危険よ」
「かしこまりました」
「で、問題は」
蘭花先輩が、ボードに視線を戻した。
「颯騨くんが二階に上がるまでの間、庭の四人をどうするか」
「俺が全力で動けば、気づかれる前に通り抜けられると思います」
「昨夜、気づかれたわよね」
「……はい」
「久世遼平がいる限り、通り抜けは無理だと考えたほうがいいわ」
蘭花先輩は、ボードに×印を書いた。
「あの人は、あなたを『見てる』。何を見てるのかは分からないけど、少なくとも、あなたの接近は察知される」
「じゃあ、どうすれば」
「注意を、別のところに向けさせる」
蘭花先輩は、ボードに新しい四角を描いた。
別邸の、正門の位置だ。
「正門に、堂々と人が来たら。……どうすると思う?」
「……対応しますよね」
「そう。全員とは言わないけど、少なくとも二人は正門に寄る。久世も、たぶん出てくる」
蘭花先輩は、そこで言葉を切った。
「で、そこに立つ人が必要なんだけど」
「――私が参ります」
凛だった。
一瞬の迷いもない声だった。
「凛ちゃん」
「適任です」
凛は、立ち上がった。
「私は、紫条通家の侍女です。士族として、正門から名乗りを上げ、正式に面会を求めることができます。『浮橋志乃に会わせていただきたい』と」
「……相手が素直に通すわけないでしょ」
「通していただく必要はございません」
凛は、きっぱりと言った。
「門前で押し問答をするだけで、十分です。私が名乗り、正当な理由を述べて食い下がっている間、彼らは私の相手をしなければなりません。無言で追い返せば、それ自体が後々、不自然な記録になりますから」
蘭花先輩が、ゆっくりと息を吐いた。
「……それ、めちゃくちゃ怖い仕事よ。分かってる?」
「分かっております」
「久世遼平と、正面から向き合うことになる」
「承知のうえです」
凛の声は、震えていなかった。
「それに」
凛は、ほんの少しだけ、俯いた。
「私は、お嬢様のお側を離れていた一週間に、何ひとつできませんでした。志乃さんが苦しんでおられたときも、文書が持ち出されたときも、私は冬芽様のお屋敷で、お茶をお出ししておりました」
凛は、顔を上げた。
「今度は、門の前に立たせてください」
誰も、何も言えなかった。
秋穂が、立ち上がった。
そして、凛の手を、両手で包み込んだ。
「凛」
「お嬢様」
「必ず、無事に戻ってくださいね」
「……はい」
凛の目が、わずかに潤んだ。
「必ず」
「じゃあ、整理するわよ」
蘭花先輩が、ボードに向き直った。
『土曜 二十三時〇〇分 決行』
「二十三時ちょうど。凛ちゃんが、正門のインターホンを押す」
蘭花先輩が、時系列を書き込んでいく。
「凛ちゃんは、紫条通家の侍女として名乗り、浮橋志乃への面会を求める。押し問答を、できるだけ長く」
「かしこまりました」
「同時刻、颯騨くんは崖の東側の平場で待機。庭の人員が正門側に寄ったのを確認してから、移動」
「了解です」
「二階の東端の部屋へ。格子は――」
蘭花先輩は、そこで止まった。
「……ねえ、颯騨くん。あの格子、壊せる?」
「見てみないと分かりません。でも、たぶん」
俺は、自分の手を見た。
「全力で走って、その勢いをぶつければ、大抵のものは壊れると思います」
「音がするわね」
「それは、しますね」
「……まあ、いいわ。そこから先は、速さ勝負」
蘭花先輩は、ボードに矢印を引いた。
「志乃さんを連れて、海沿いの道を北へ八百メートル。駐車場の車まで。……ここまで、何秒でいける?」
「一人で走るなら、三秒です」
「人を抱えたら?」
「たぶんですが……五秒」
蘭花先輩が、額に手を当てた。
「あなた、本当に人間なの」
「俺も、時々分からなくなります」
「で、凛ちゃんの回収は――」
「私のことは、お構いなく」
凛が、言った。
「志乃さんを乗せたら、すぐに出発してください。私は、徒歩で引き上げます」
「駄目よ」
蘭花先輩が、即座に否定した。
「颯騨くん。志乃さんを車に乗せたら、すぐ正門に戻って、凛ちゃんも連れてきて」
「……それは」
凛が、何か言いかけた。
「文句は聞かない。全員で帰るの。……それが作戦よ」
蘭花先輩は、ボードに大きく書いた。
『全員で帰る』
凛は、その文字をしばらく見つめていた。
それから、小さく頭を下げた。
「……かしこまりました」
作戦会議が終わったのは、夜の八時過ぎだった。
帰り道、俺は秋穂と凛と並んで歩いていた。
十月の夜風は、もうすっかり冷たくなっていた。街灯の下を、落ち葉が転がっていく。
「……颯騨様」
秋穂が、ポツリと言った。
「なんでしょう」
「わたくし、昨夜から、ずっと祭壇の前におりました」
「えっ?」
「颯騨様がお帰りになった後、朝までずっと」
俺は、思わず秋穂の顔を見た。言われてみれば、目の下にうっすらと隈があった。
「紫条通さん、それは」
「あの場所に『視えた』ものが、何だったのか。確かめたかったのです」
秋穂は、前を向いたまま歩いていた。
「冷たく、静かな、刃のようなもの。……わたくしは、それを悪しきものだと思いました。けれど、一晩祈って、分かったのです」
「何ですか」
「あれは、悪意ではありません」
秋穂は、立ち止まった。
「刃には、善も悪もございません。ただ、振るう者がいるだけです」
街灯の明かりが、秋穂の横顔を照らしていた。
「久世という方は、刃なのです。とてもよく研がれた、古い刃。……ご自分の意思で、わたくしたちを憎んでいるわけではありません」
「…………」
「ですから、颯騨様」
秋穂は、俺のほうを向いた。
「あの方を、憎まないでくださいませ」
俺は、何と答えていいか分からなかった。
「……でも、志乃さんを閉じ込めてるのは、あの人ですよ」
「ええ」
「それは、悪いことでしょう」
「はい。悪いことです」
秋穂は、頷いた。
「ですが、刃を憎んでも、何も変わりません。……変えるべきは、振るっている者の手です」
秋穂は、夜空を見上げた。
十月の空に、半分欠けた月が浮かんでいた。
「わたくしは、春花と話さねばなりません。いずれ、必ず」
その声は、静かだった。けれど、どこか覚悟のようなものが滲んでいた。
「でも、その前に」
秋穂は、月を見上げたまま言った。
「志乃さんを、お家に帰して差し上げたいのです」
凛が、秋穂の隣に並んだ。
「……お嬢様」
「凛」
「はい」
「土曜日、怖くなったら、すぐに逃げてくださいね」
「いえ、逃げません」
「まあっ、頑固ですね」
「お嬢様ほどでは」
秋穂が、くすりと笑った。
俺は、ポケットの中のお守りを握りしめた。歪んだ縫い目の、小さな袋。
昨夜、これを持って、あの崖の上に立った。
土曜日。
あと四日。
――待っていてください。
俺は、心の中で、もう一度そう言った。
部屋中に折り鶴を並べて、たった一人で座っていた、あの人に。




