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第15話 夜を駆ける

「結論から言うわ。乗り込むのは、無しよ」


 月曜日の放課後。旧視聴覚準備室で、蘭花先輩はきっぱりとそう言った。

 モニターには、衛星写真が表示されていた。相模湾に面した、崖の上の土地。白い建物がひとつ、その崖に張りつくように建っている。

 鷲羽司侯爵家、葉山別邸の写真だ。


「なぜです」


 凛が、一歩前に出た。


「志乃さんが、あそこにいるかもしれないのですよ」

「かもしれない、でしょ」


 蘭花先輩は、椅子を回して凛を見た。


「電気の使用量が上がってるのは事実。でも、それだけ。中にいるのが志乃さんだっていう証拠は、何ひとつないの」

「ですが」

「で、仮にいたとして。あなた、どうやって入るつもり?」


 蘭花先輩は、衛星写真を拡大した。


「見て。敷地の境界は全部塀。正門は一つだけで、海側は崖。周囲に民家はなし。……そして、ここと、ここと、ここ」


 画面上に、赤い点が三つ打たれた。


「公道から見える範囲だけで、防犯カメラが三台。実際は、もっとあるでしょうね」

「…………」

「侯爵家の別荘に、無断で侵入する。それも、伯爵令嬢と、その侍女と、平民の男子高校生が」


 蘭花先輩は、ゆっくりと言った。


「捕まったら、どうなると思う?」


 誰も、答えられなかった。


「向こうは、むしろそれを待ってるかもしれないわよ。『婚約を解かれた逆恨みで、元婚約者の家に押し入った令嬢』。……そんな記事が出たら、親族会議を待つまでもないわ」


 凛が、唇を噛んだ。

 その拳が、震えていた。


「……では、どうしろと」


「調べるのよ。まず」


 蘭花先輩は、画面を切り替えた。


「本当に志乃さんがいるのか。何人が、どういう態勢で守ってるのか。それが分からないうちは、動きようがない」

「調べるといっても、どうやって」

「それが問題なのよね」


 蘭花先輩は、頭を掻いた。


「業者を雇うって手もあるけど、侯爵家を調べる仕事を引き受けてくれる探偵なんて、まずいないわ。引き受けてくれたとしても、向こうに情報を売らない保証もない」

「…………」

「かといって、私たちが昼間にうろつけば、カメラに映る。一度でも顔を覚えられたら、終わりよ」


 部屋が、静まり返った。サーバーのファンの音だけが、低く鳴っている。

 俺は、画面に映る衛星写真を見ていた。

 崖の上の、白い建物。塀に囲まれた、小さな敷地。

 ……距離は、どれくらいだろう。

 ここから、葉山まで。


「……蘭花先輩」

「なに?」

「ここから葉山まで、何キロありますか」

「え? ええと……道のりで、六十五キロくらいかしら。電車だと二時間ちょっとね」

「夜中なら、車も人も少ないですよね」


 蘭花先輩が、眉を寄せた。

 それから、はっと目を見開いた。


「……ちょっと待って。まさか」

「俺が、見てきます」


 部屋が、凍りついた。


「颯騨様!?」


 秋穂が、立ち上がった。


「いけません! そのようなこと」

「紫条通さん。落ち着いて聞いてください」


 俺は、できるだけ冷静に言った。


「俺なら、カメラに映りません」

「え……っ?」

「正確に言うと、映っても、何も分からないと思います」


 俺は、自分の手のひらを見下ろした。


「防犯カメラって、一秒間に何枚か写真を撮ってるようなものですよね。たぶん、俺が全力で動いたら、写るのはせいぜい一コマだけです。……それも、たぶん、何かのノイズにしか見えない」


 蘭花先輩が、ゆっくりと顎に手を当てた。


「……理屈は、合ってるわ」

「蘭花さん!?」

「一般的な防犯カメラは、毎秒五から十フレーム。シャッタースピードも、夜間はかなり遅い。……あなたが全力で動いたら、記録に残るのは残像の筋だけでしょうね」


 蘭花先輩は、椅子を回して俺を見た。


「でも、颯騨くん。問題はそこじゃないわ」

「……何が問題ですか」

「人間の目よ」


 蘭花先輩の声が、低くなった。


「カメラは誤魔化せても、警備の人間は別。向こうは素人じゃない。あなたが通り抜けた後の、風とか、音とか、埃の動きとか。……そういうもので、何かがいたって気づく可能性はある」

「それは、覚悟してます」

「気づかれたら、どうするの」

「逃げます」


 俺は、即答した。


「戦いません。見るだけ見て、すぐ帰ります。それだけです」

「…………」

「それに」


 俺は、モニターの衛星写真を指さした。


「今週中に、何かしないといけないと思うんです」

「どうして」

「春花さんが、折り鶴を持ってきたからです」


 秋穂の肩が、びくりと動いた。


「あれは、脅しでした。『志乃はこちらにいる』って。……でも、脅しって普通、何かをさせたいときに使うものですよね」

「……そうね」

「でも春花さんは、何も要求してこなかった」


 俺は、拳を握った。


「脅しだけ置いて、帰った。何も求めずに。……それって、何のためだと思いますか」


 蘭花先輩の目が、すっと細くなった。


「……時間稼ぎね」

「はい」

「私のサーバーへの攻撃と同じね」


 蘭花先輩は、赤いログの流れるモニターを見た。


「本気で破ろうとしないで、ただ叩き続ける。……何かの準備が整うまで、こっちの注意を引きつけておくため」

「向こうは、俺たちが志乃さんを探してることを知ってます」


 俺は、言った。


「で、折り鶴を見せて、『こっちにいるぞ』と教えた。……普通なら、慌てて探しますよね」

「ええ」

「探してる間に、動かすつもりなんじゃないですか。志乃さんを」


 誰も、何も言わなかった。


「葉山の電気の使用量が上がったのは、八月から。もう二か月近く、同じ場所に置いてるんです。……そろそろ、移すころだと思いませんか」


 凛が、顔を上げた。その顔は、蒼白だった。


「……涼木様。それは」

「ただの推測です。外れてるかもしれない」


 俺は、首を横に振った。


「でも、もし当たってたら。……来週には、もう誰もいないかもしれない」


 長い沈黙があった。

 やがて、蘭花先輩が、深くため息をついた。


「……分かったわ」


「蘭花さん!?」

「落ち着いて、凛ちゃん。私だって、賛成したいわけじゃない」


 蘭花先輩は、キーボードを叩きはじめた。


「でも彼の言う通りなら、時間がないのも事実。……それにこの子の足なら、万が一のときも逃げ切れる」


 画面に、葉山周辺の詳細な地図が表示された。


「条件を三つ出すわ。守れないなら、絶対に行かせない」

「はい」

「一つ。敷地には入らない。塀の外から見るだけ」

「……分かりました」

「二つ。インカムを持っていくこと。私が、ずっと繋がってる」


 蘭花先輩は、引き出しから小さな機器を取り出した。耳にかける、骨伝導式のイヤホンのようなものだった。


「三つ」


 蘭花先輩は、まっすぐに俺を見た。


「何かあったら、絶対に、ためらわずに逃げること。志乃さんより、あなたの命が優先。……いいわね?」

「……はい」

「返事が遅い」

「はい」



 夜十一時。俺は、自宅の自分の部屋で、服を着替えていた。

 黒いパーカー。黒いジャージ。黒いスニーカー。顔の下半分を覆う、黒いネックウォーマー。頭には、同じく黒いニットキャップ。

 鏡に映った自分を見て、我ながら完全に不審者だと思った。

 スマホを確認する。母さんには「ちょっと夜更かしする」と言ってある。父さんはもう寝た。


 玄関のチャイムが鳴った。


 こんな時間に誰だ?

 俺は慌てて階段を降りた。



 ドアを開けると、そこに三人が立っていた。


「……なんでいるんですか」

「お見送りに参りました」


 秋穂が、にっこりと微笑んだ。

 その後ろで、凛が腕を組み、蘭花先輩がノートパソコンの入ったリュックを背負っていた。


「蘭花さん、通信は近くからのほうが安定するとおっしゃって」

「まあ、気休めだけどね。どうせネット経由だし」


 蘭花先輩は、肩をすくめた。


「でも、一人で部屋にいるの、落ち着かなかったのよ」

「…………」

「で、凛ちゃんに連絡したら『私も行きます』って言うし、そしたらお嬢様も来るって言うし」

「お止めしたのですが」

「これはわたくしの問題ですから。颯騨様にお任せしたまま、家でじっとしているわけにはまいりませんわ」

「だから、全員で来たわけ」


 俺は、三人の顔を順番に見た。


 秋穂は、心配そうな顔を隠そうとして隠しきれていない。

 凛は、不機嫌そうな顔で、やっぱり心配しているのが分かる。

 蘭花先輩は、いつもの皮肉っぽい表情のまま、目だけが真剣だった。


 ……なんだか、妙にくすぐったい気分になった。


「颯騨様」


 秋穂が、一歩前に出た。


「お渡ししたいものがございます」


 秋穂は、両手に小さな布の袋を持っていた。

 白い絹地に、紫色の紐。お守り袋だった。


「わたくしが、縫いました」


「え、紫条通さんが?」

「針仕事は、巫女の務めのひとつです。……お恥ずかしいのですが、縫い目が少し歪んでおります」


 秋穂は、恥ずかしそうに言った。

 俺は、お守りを受け取った。手のひらに乗るくらいの、小さな袋。確かに、縫い目は少しだけ歪んでいた。


「中には、昨夜、祭壇でお清めをしたものを入れてございます」

「何が入ってるんですか」

「開けないでくださいませ」

「あ、はい」


 秋穂は、少しだけ目を伏せた。


「……颯騨様。わたくし、迷っております」

「迷ってる?」

「颯騨様に行っていただきたくないのです。危ないことは、させたくありません」


 秋穂は、顔を上げた。


「けれど、志乃さんを助けたいとも思っております。……わたくしは、自分では何もできないのに、颯騨様に危ないことをお願いしている。それが、とても」


 秋穂の声が、途切れた。


「情けないのです」


 俺は、お守りを握りしめた。


「……紫条通さん」


「はい」

「俺、自分の速さが嫌いでした」


 秋穂が、目を見開いた。


「隠さなきゃいけないもので、バレたら怖がられるもので。……ずっと、持って生まれた厄介事だと思ってました」


 俺は、暗い夜道のほうを見た。


「でも、今は違います」

「颯騨様……」

「これのおかげで、できることがある。それが、こんなに嬉しいとは思わなかった」


 俺は、お守りをパーカーのポケットに入れた。


「だから、情けないなんて言わないでください。……行かせてください」


 秋穂は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく頷いた。


「……行ってらっしゃいませ」

「行ってきます」

「必ず、帰ってきてくださいませ」

「必ず戻ってきます」


 凛が、俺の前に立った。

 そして、何も言わずに、俺の肩の埃を払った。


「……楯岡さん?」

「出陣の前に、主の装束を整えるのは、士族の務めです」

「俺、主じゃないですけど」

「本日だけ、特別です」


 凛は、ぷいと顔を背けた。


「……ご武運を」

「ありがとうございます」


 蘭花先輩が、インカムを俺の耳にかけた。


「テスト。聞こえる?」

『テスト。聞こえる?』


 耳元と、目の前から、同時に声が聞こえた。


「聞こえます」

「よし。……じゃあ、行ってらっしゃい」


 俺は、夜の住宅街に向かって、一歩踏み出した。

 そして、地面を蹴った。



 音が、消えた。

 街灯の光が、一本の線に伸びる。

 住宅街を抜け、国道に出た。

 深夜の国道は、トラックが数台走っているだけだった。

 その脇を、路肩を縫うように走り抜ける。

 止まって見えるトラックの横を通り過ぎるとき、運転席の男の横顔が見えた。眠そうにあくびをしている。俺のことには、気づいてもいない。

 街が、後ろへ流れていく。

 コンビニの明かり。

 信号の赤。

 深夜のファミレスの駐車場。

 どれも一瞬で、記憶に残らないほどの速さで、過ぎ去っていく。


『……速っ』


 耳元で、蘭花先輩の声がした。


『GPSで追ってるけど、点が飛んでるわよ。地図アプリがバグってるのかと思った』

「普通に走ってますよ」

『普通じゃないのよ。今、時速どれくらい?』

「分かりません。測ったことないので」

『測ったことないんだ……』


 蘭花先輩が、呻くような声を出した。

 川を渡り、市街地を抜け、丘陵地帯に入る。

 道が上りになった。

 上り坂は、少しだけ疲れる。といっても、普通に歩いたときと同じくらいの感覚だ。

 体が軽い。息も上がらない。足も痛まない。

 どれだけ速く走っても、体が壊れない。

 昔から不思議だった。

 なぜ、俺の体はこの速度に耐えられるのか。


 ――颯騨様の背にいらっしゃる神様は、決して、恐ろしい方ではありません。


 秋穂の言葉を、思い出した。

 もし、本当に誰かがいるのなら。

 その誰かは、俺に何をさせたいのだろう。



 丘を越えると、遠くに海が見えた。

 黒い水平線。

 その上に、満月に近い月が浮かんでいた。


『そろそろよ。次の交差点を右。それから、海沿いの道を二キロ』


 速度を落とす。

 音が、戻ってきた。

 潮の匂いがした。

 波の音が、低く響いている。

 海沿いの道には、街灯がぽつぽつと並んでいた。

 車は、一台も通っていない。

 時刻は、十一時十八分。家を出てから、十八分しか経っていなかった。


『……信じられない。本当に十八分で着いたの?』

「そうみたいですね」

『電車で二時間かかる距離よ』

「そうですか」

『……まあ、いいわ。それより、周囲に注意して』


 俺は、ゆっくりと歩いた。

 道の右側は、海。左側は、切り立った崖だった。

 その崖の上に、高い塀が見える。

 塀の上には、有刺鉄線。その向こうに、白い建物の屋根が見えた。


『正門は、ここから百メートル先。カメラの位置、覚えてる?』

「正門の上に一つ。塀の東の角に一つ。西の角に一つ」

『そう。……映っても分からないって話だったけど、念のため、正門の正面には立たないで』

「了解です」


 俺は、崖の下の歩道を歩いた。

 塀は高い。見上げても、中の様子は何も見えなかった。


「……先輩。これ、外から見るだけだと、何も分からないですね」

『そうよね。そう言うと思った』


 蘭花先輩が、ため息をついた。


『崖の東側に、細い階段があるはず。昔の漁師道らしいわ。そこを登ると、塀の東側の、少し高い場所に出る』

「そこから中が見えますか」

『見えるかもしれないし、見えないかもしれない。……ただし』

「ただし?」

『そこは、敷地の外よ。入らないっていう約束は守って』

「分かりました」



 階段は、思った以上に古かった。コンクリートの段が、ところどころ崩れている。手すりもない。

 俺は、ゆっくりと登った。

 登りきると、小さな平場に出た。

 雑草が生い茂り、錆びた祠のようなものが半分埋もれている。かつては、海を見下ろす祈りの場所だったのかもしれない。


 そして、そこからは。


「……見えます」


 塀の内側が、斜め上から見下ろせた。

 古い、洋風の二階建て。建物自体は荒れていない。対照的に庭は手入れされておらず、雑草が伸び放題だった。


 そして。


 建物の前に、黒い車が二台停まっていた。ワンボックスが一台と、セダンが一台。

 その周りに、人がいた。


「……四人」

『四人?』

「庭に二人。玄関の前に一人。……あと、一人が、建物の周りを歩いてます。巡回してるみたいです」


 俺は、スマホを取り出して、ズームで撮影した。

 画面を通して、男たちの姿を確認する。校門で襲ってきた連中とは、明らかに違った。

 まず、体つきが違う。

 無駄な肉がなく、立ち方に隙がない。巡回している男の歩き方は、一定のリズムを刻んでいた。訓練された動きだ。

 そして、全員が、耳に何かをつけていた。


「インカム……たぶん、全員繋がってます」

『プロね』


 蘭花先輩の声が、硬くなった。


『そいつらの顔、撮れる?』

「撮ってます。でも、暗くて」

『後で補正するわ。送っといて』


 俺は、写真を何枚か送信した。

 それから、建物に目を戻した。

 一階の窓は、すべてカーテンが引かれていた。明かりは、玄関と、一階の一部屋だけ。

 そして、二階。

 二階の一番端の部屋だけ、明かりがついていた。

 その窓には、カーテンがなかった。

 代わりに――


「……先輩」

『どうしたの』

「二階の窓に、格子がついてます」


 耳元が、静かになった。


『……格子』

「内側から。はめ殺しの、金属の格子です。……他の窓には、ついてません」

『その部屋だけ?』

「その部屋だけです」


 俺は、スマホのズームを最大にした。

 画面が荒れる。それでも、部屋の中が、わずかに見えた。

 狭い部屋だった。家具は、ベッドと、小さな机がひとつ。

 机の前に、人が座っていた。

 女性だった。

 痩せていた。

 髪は無造作に切られて短くなっている。頬がこけ、目の下に濃い隈があった。

 灰色のスウェットのようなものを着ている。

 それでも、俺には分かった。

 栃木の家で見た集合写真。カメラではなく、振袖姿の秋穂を見ていた、あの人だ。


「……いました」


 声が、かすれた。


「志乃さんです」


 耳元で、息を呑む音がした。


『……間違いない?』


「間違いないです」


 俺は、画面を見つめていた。

 志乃さんは、机に向かって、手を動かしていた。

 何かを、折っている。

 小さな紙を、丁寧に、何度も折り返して。

 そして、できあがったものを、机の端にそっと置いた。

 机の端には、同じものが、いくつも並んでいた。

 鶴だった。

 折り鶴が、机の上に、ずらりと並んでいた。

 十羽、二十羽。いや、もっと多い。棚の上にも、窓辺にも、床にまで。部屋中が、折り鶴で埋まっていた。


 ――お嬢様、泣き止むまで、いくつでも折って差し上げます。


 秋穂の言葉が、頭の中でよみがえった。

 喉の奥が、熱くなった。


『……颯騨くん』


 蘭花先輩の声が、やけに遠く聞こえた。


『どうしたの。黙り込んで』

「……いえ」

『何が見えたの』

「……鶴です」


 俺は、答えた。


「部屋中に、折り鶴が」


 耳元で、長い沈黙があった。

 やがて、蘭花先輩が、絞り出すように言った。


『……帰ってきて』

「え」

『今すぐ、帰ってきて。もう十分よ』

「でも、まだ」

『颯騨くん』


 蘭花先輩の声が、震えていた。


『――お願い』


 俺は、唇を噛んだ。


 目の前に、助けを待っている人がいる。

 塀を越えれば、二階に上がれば、たぶん一分もかからずに連れ出せる。


 でも。


 四人のプロと、インカムと、何より、「約束」があった。

 ここで強引に動いて、失敗したら。志乃さんは、二度と見つからない場所に移される。


「……分かりました」


 俺は、スマホをポケットにしまった。

 最後にもう一度、二階の窓を見上げる。

 志乃さんは、また新しい紙を手に取っていた。


 待っていてください。


 声に出さずに、そう言った。


 必ず、迎えに来ます。



 下に降りようと、一歩下がった。

 そのとき、草を踏んでしまった。

 かさり、と。

 ほんの小さな音だった。波の音にかき消されるほどの、本当にかすかな音。


 ――庭にいた男の一人が、顔を上げた。


 心臓が、止まりかけた。

 男は、まっすぐに、こちらを見ていた。

 五十メートル以上離れている。

 塀を挟んでいる。崖の上の、雑草に埋もれた平場。月は出ているが、俺は全身黒ずくめだ。

 見えるはずがない。

 なのに、男は、俺のいる場所を正確に見ていた。

 男は、インカムに何かを言った。

 他の三人が、一斉にこちらを向く。

 四人が、動きはじめた。


『颯騨くん! どうしたの!』

「……気づかれました」

『は!?』

「逃げます」


 俺は、踵を返した。

 階段を駆け下りる。

 いや、駆け下りるというより、落ちるような速度で。

 海沿いの道に飛び出した瞬間、背後で門の開く音が聞こえた。

 車のエンジン音。

 ヘッドライトが、道を照らす。

 無駄なことを、と思った。

 俺は、地面を蹴った。

 世界が、止まる。

 ヘッドライトの光が、空中で固まった。開きかけた門扉も、飛び出そうとしている男たちも、全部、彫像のように静止している。

 俺は、その横を、悠々と通り抜けた。


 ――そのはずだった。


 男の一人が、顔を動かしていた。

 止まった世界の中で。

 その男だけが、ゆっくりと、本当にゆっくりとだが、確かに首を回していた。

 俺の進む方向へ。

 目が、合った。

 四十代くらいの、短く刈り込んだ髪の男だった。

 右の眉の上に、古い傷跡がある。

 その目に、驚きはなかった。

 ただ、深い水の底のような、静かな目で。

 男は、確かに、俺を見ていた。

 そして、その唇が、わずかに動いた。


 ――いた。


 背筋が、凍った。

 俺は、全力で走った。

 海沿いの道を、国道を、丘を、川を。

 来たときの倍の速さで、何も考えずに、ひたすらに。



 家の前に戻ったとき、俺は、初めて膝に手をついた。

 息が、上がっていた。

 体育祭のリレーのときでさえ、こんなに息が上がったことはなかった。

 疲労ではない。恐怖だった。


「颯騨様!」


 秋穂が、駆け寄ってきた。


「颯騨様、お怪我は!」

「……ないです」

「颯騨くん!」


 蘭花先輩が、ノートパソコンを抱えたまま走ってきた。


「無事ね!? 何があったの!?」


「見られました」


 俺は、顔を上げた。


「一人、俺が見えてる人がいました」


 三人の動きが、止まった。


「……見えた?」


 凛が、呆然と呟いた。


「はい。……全力で動いてる俺を、目で追ってきました」


「そんな、まさか」

「俺にも、信じられません」


 俺は、自分の手のひらを見下ろした。

 震えていた。


「でも、確かに目が合いました。……『いた』って、言ってました」


 誰も、何も言えなかった。

 秋穂が、そっと俺の手を取った。

 その手は、驚くほど温かかった。


「……颯騨様。お守りは、お持ちですか」

「え? はい」


 俺はポケットからお守り袋を取り出した。

 秋穂はそれを両手で包み込むように持つと、目を閉じた。


「……よかった」

「何がですか」

「お守りが、守ってくださったのです」


 秋穂は、目を開けて、微笑んだ。

 けれど、その顔は、ひどく青ざめていた。


「颯騨様。もう、お一人では行かせません」

「紫条通さん」

「あの場所には、何か、よくないものがおります」


 秋穂は、海のある方角を、じっと見つめた。


「視えるのです。遠いのに、はっきりと。……とても静かで、とても冷たい、刃のようなものが」


 秋の夜風が、通りを吹き抜けていった。

 俺の手の中で、歪んだ縫い目のお守りが、かすかに温かかった。

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