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第14話 北へ

 春花が中平高校に姿を見せてから、一週間が過ぎた。

 学校では、何も変わらなかった。

 秋穂は毎日教室で浮世離れした質問をし、凛は毎日三十二人分の重箱を抱えてきて、俺は毎日ツッコミに追われた。

 宇佐美の足の捻挫は治り、松葉杖も外れた。

 田淵は賭けの配当で焼きそばパンを三週間分食い続け、ついに「もう焼きそばは見たくない」と言い出した。

 平和だった。

 その平和が、かえって落ち着かなかった。

 向こうは、何も仕掛けてこない。校門に不審な車が停まることもない。ネットに妙な書き込みが増えることもない。

 ただ、ひとつだけ。


「……また、来てるわ」


 昼休みの旧視聴覚準備室で、蘭花先輩が言った。

 一番右のモニターに、赤いログが流れている。この一週間、その流れが止まったことは一度もなかった。


「毎日ですか」

「毎日。一日平均で、四十回くらい」

「大丈夫なんですか」

「大丈夫よ。今のところは」


 蘭花先輩は、カップ麺の代わりに、凛の持ってきた重箱をつついていた。初日は「そんなに食べられない」と言っていたのに、三日目には完食するようになり、五日目からは「今日のは何?」と訊くようになっていた。


「ただ、嫌な感じなのよね」

「嫌な感じ?」

「本気で破ろうとしてない」


 蘭花先輩は、箸を置いた。


「本気で入りたいなら、もっと別の手を使うはずなの。でも、この相手は、毎日同じくらいの強さで、淡々と叩いてくる。……まるで、こっちが疲れるのを待ってるみたい」

「……」

「時間を稼がれてる気がするのよ。何か、向こうの準備が整うまで」


 その言葉が、妙に耳に残った。



「で、進捗のほうだけど」


 蘭花先輩は、椅子を回して、正面のモニターを指さした。


「お金の流れ。……行き詰まったわ」

「えっ?」


 行き詰まった?

 つまり、お手上げ?


「浮橋家の借金は、三件あった。信用金庫と、個人の債権者が二人」

 画面に、簡単な図が表示されていた。

「このうち、信用金庫の分は、八月二十六日に振り込みで完済されてる。振込人の名義は――」

「名義は?」

「『浮橋志乃』」


 凛が、息を呑んだ。


「志乃さん、ご本人の名義……?」

「そう。志乃さん名義の口座に、八月二十五日に二千百万円が入金されて、翌日に信用金庫へ振り込まれてる」


 蘭花先輩は、眼鏡を押し上げた。


「で、その二千百万がどこから来たかっていうと――『現金での窓口入金』」


 部屋が、しんとした。


「現金……」

「そう。誰かが札束を持って銀行の窓口に行って、志乃さん名義の口座に入れた。それだけ。振込元の口座がないから、辿れない」

「防犯カメラは」

「銀行の防犯カメラの保存期間は、普通は一か月から三か月。……まあ、理屈の上では、まだ残ってるかもしれないけど」


 蘭花先輩は、両手を上げた。


「私が銀行のカメラを覗いたら、それはもう完全な犯罪よ。しかも、仮に映像を手に入れても、違法に手に入れた証拠なんて、親族会議でも裁判でも使えない。むしろ、こっちが潰れる」


 俺は、拳を握りしめた。


「じゃあ、どうすれば」

「正攻法でいくしかないわ」


 蘭花先輩は、きっぱりと言った。


「志乃さん本人を見つけて、証言してもらう。それが一番確実で、一番強い」

「でも、その志乃さんの行方が……」

「ええ。そっちも、正直、手詰まり」


 蘭花先輩は、画面に別のウィンドウを開いた。

 そこには、びっしりと文字が並んでいたが、どれも赤い×印がついていた。


「浮橋志乃名義で借りられた部屋、契約された回線、使われたカード、全部調べた。九月三日以降、この国のどこにも『浮橋志乃』は存在してない」

「…………」

「つまり、別の名前で生活してるのよ。誰かが用意した、別の名前で」


 重い沈黙が落ちた。

 凛が、ゆっくりと手を挙げた。


「……ひとつ、申し上げてもよろしいですか」

「なに?」

「栃木へ、参りませんか」


 全員が、凛を見た。


「志乃さんのご実家です」


 凛は、まっすぐに言った。


「ご両親は、まだそこにお住まいのはずです。借金が消えたのであれば、家も土地も、手元に残っているはずですから」

「それはそうだけど。……行って、どうするの」

「お父様に、お会いします」


 凛の声は、硬かった。


「借金を払ったのが何者なのか。志乃さんが今どこにいるのか。……ご家族なら、何かご存じのはずです」

「素直に話してくれると思う? 娘が犯罪に関わってる可能性があるのに」

「分かりません」


 凛は、正直に言った。


「ですが、ネットの中をいくら探しても見つからないのでしたら、足で探すしかありません。……それが、私にできる唯一のことです」


 蘭花先輩は、しばらく凛を見つめていた。

 それから、小さく笑った。


「……そうね。私、ちょっとモニター画面を見すぎてたかも」

「蘭花さん」

「いいわ。行ってきて。こっちは、別の線を当たっておく」


 蘭花先輩は、キーボードを叩きながら言った。


「ああ、でも一つだけ条件」

「なんですか」

「土産は、宇都宮の餃子ね」

「……了解です」



 土曜日の朝、七時。最寄り駅のホームに、俺たち三人は立っていた。


「颯騨様。これが、電車というものですか」


 秋穂が、線路を覗き込みながら言った。


「お嬢様、危のうございます。黄色い線の内側へ」


 凛が、秋穂の袖を引いた。

 秋穂は、今日も私服だった。濃紺のワンピースに、薄手のコート。髪は低い位置でまとめられている。

 目立たない服を選んできたつもりなのだろうが、どう見ても目立っていた。

 ホームにいる他の客が、ちらちらとこちらを見ている。


「紫条通さん、電車、初めてですか」

「はい。お恥ずかしいのですが」

「移動は、いつも車で?」

「ええ。お屋敷の運転手が、どこへでも連れて行ってくれました」


 秋穂は、少し恥ずかしそうに頬に手を当てた。


「新幹線には、一度だけ乗ったことがございます。宮中の祭祀で、京都へ参りましたときに。……ですが、そのときも、乗る前も降りた後も、ずっと人に囲まれておりましたから」

「なるほど」

「ですから、こうしてホームの一番前に立つのは、生まれて初めてです」


 秋穂は、嬉しそうに辺りを見回した。

 電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。遠くから、車両が近づいてくる音がした。


「まあ……! 来ました!」

「お嬢様、下がってくださいませ」


 電車が、ホームに滑り込んできた。

 秋穂は、ドアが開くのをじっと待っていた。

 そして、ドアが開いた瞬間、中に向かって深々と一礼した。


「お邪魔いたします」

「紫条通さん、電車には挨拶しなくていいです」

「まあ。そうなのですか」

「はい。黙って乗ってください」

「かしこまりました」


 後ろに並んでいたサラリーマンが、口元を押さえて笑いを堪えていた。



 土曜の朝の鈍行は、空いていた。四人掛けのボックス席を確保して、三人で腰を下ろす。

 俺と秋穂が並んで座り、向かいに凛が座った。……凛が俺の隣に座ろうとしたのだが、秋穂が「颯騨様の隣がよろしいです」と言って、そのまま押し切られた形だった。

 凛は、終始、不服そうな顔をしていた。

 電車が動き出すと、秋穂は窓に顔を寄せた。


「景色が、流れてまいります」

「車でも流れますよね」

「車とは違います。もっと、ずっと」


 秋穂は、窓の外を見つめたまま言った。


「車の窓から見える景色は、いつも、人の少ないところばかりでした。大きな通りと、高い塀と、お屋敷の門と。……でも、これは」


 電車は、住宅街の間を縫うように走っていた。

 洗濯物の干されたベランダ。小さな町工場。自転車を押す老人。校庭でサッカーをする子どもたち。踏切の前で待つ、犬を連れた親子。


「人が、たくさん暮らしておられます」


 秋穂は、呟いた。


「わたくしの知らない暮らしが、こんなにたくさん」


 俺は、何と言っていいか分からなかった。ただ、窓の外を見ている秋穂の横顔を、少しだけ見ていた。


「……涼木様」


 向かいの席から、凛の低い声がした。


「何をご覧になっておられるのですか」

「景色です」

「お嬢様のお顔を見ておられました」

「……景色の一部です」

「屁理屈です」


 凛は、俺を睨んだ。

 それから、ふいと窓のほうを向いた。

 その横顔も、少しだけ、外の景色に見入っていた。

 凛もまた、主家の車でしか移動したことがなかったのかもしれない。



 電車を二度乗り換えて、三時間半。目的の駅に着いたのは、昼前だった。

 無人駅だった。

 ホームが一面だけ。待合室には、長椅子が二脚と、色褪せた観光ポスターが一枚。改札はなく、代わりに運賃箱が置かれていた。

 駅を出ると、目の前に田んぼが広がっていた。刈りの終わった田が、どこまでも続いている。遠くに、低い山並み。空は高く、澄んでいた。


「まあ……」


 秋穂が、立ち尽くした。


「なんて、広いのでしょう」

「……田んぼですね」

「空が、こんなに大きいなんて」


 秋穂は、両手を広げて、空を見上げた。

 風が吹いて、稲の切り株の列を渡っていった。


「志乃さんは、こういうところで生まれ育ったのですね」


 秋穂は、静かに言った。


「わたくし、何も知りませんでした。志乃さんが、どんなところから出てこられたのか。……二十年以上、毎日お会いしていたのに」


 誰も、何も言わなかった。

 凛が、地図のアプリを開いたスマホを掲げた。


「こちらです。歩いて二十分ほどかと」



 浮橋家は、集落の外れにあった。

 古い農家だった。黒い瓦屋根の母屋と、傾きかけた納屋。庭には柿の木があり、たわわに実をつけている。

 門も塀もなく、敷地の境は低い生け垣だけだった。そして、家の前の空き地に、トラクターと軽トラックが停めてあった。


「……新しいですね」


 俺は、思わず言った。

 トラクターは、見るからに新品だった。塗装がぴかぴかで、泥一つついていない。軽トラックも、まだ買って間もないように見える。


「借金が消えて、新しい機械を買われた、ということでしょうか」


 凛が、硬い声で言った。

 その声には、はっきりとした怒りがあった。


「……凛」


 秋穂が、凛の袖に触れた。


「決めつけるのは、よしましょう」

「……はい」


 凛は、深く息を吸って、吐いた。

 それから、玄関の引き戸の前に立ち、呼び鈴を押した。



 出てきたのは、小柄な老人だった。

 七十近いだろうか。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。作業着姿で、手には軍手をはめていた。


「……どちらさんで」


 老人は、俺たち三人を見て、怪訝そうに眉を寄せた。

 凛が、一歩前に出た。


「突然のご訪問、失礼いたします。わたくし、楯岡凛と申します」

 老人の表情が、わずかに動いた。


「……楯岡」


「紫条通伯爵家にお仕えする、士族の家の者です。志乃さんとは、同じお屋敷でご一緒させていただいておりました」


 老人の顔から、血の気が引いた。

 軍手をはめた手が、引き戸の縁を握りしめる。


「……帰ってくれ」

「お父様」

「志乃は、ここにはおらん。何も知らん。帰ってくれ」


 老人は、引き戸を閉めようとした。

 その手を、凛が掴んだ。


「お待ちください」

「離してくれ!」

「志乃さんは、生きておられます」


 老人の動きが、止まった。


「……なんだと」

「少なくとも、先週の時点では。……それだけは、確かです」


 凛は、老人の目をまっすぐに見た。


「わたくしどもは、志乃さんを探しております。罪に問うためではありません。……お助けするためです」


 老人は、しばらく凛の顔を見つめていた。

 その唇が、小さく震えはじめた。

 そして、老人の膝が、がくりと折れた。



「……申し訳ない」


 囲炉裏のある、古い板の間だった。

 老人――浮橋喜一さんは、俺たちの前に座り込んで、何度も頭を下げていた。


「申し訳ない。申し訳ない……」

「お父様。お顔をお上げください」

「上げられるわけがねえ」


 喜一さんは、顔を伏せたまま言った。


「あの子を……志乃を、売ったようなもんだ。わしが」


 奥の部屋から、小柄な老婦人がお茶を運んできた。志乃さんの母親だろう。何も言わず、湯呑みを置いて、また奥へ戻っていった。

 その後ろ姿が、ひどく小さかった。


「八月の、二十四日だった」


 喜一さんは、ぽつりと話しはじめた。


「夕方に、知らん男が訪ねてきた」

「どんな方でしたか」

「スーツを着た、三十くらいの男だ。名刺を出された。……どこかの、法律事務所の名前だったと思う。今は、もう手元にねえ」

「名刺を?」

「男が、帰り際に持って帰った。『お手元に置かれると、ご迷惑がかかりますので』と言ってな」


 凛の表情が険しくなった。


「その方は、何と」

「『お嬢さんの勤め先のご当主から、お預かりしてまいりました』と」


 喜一さんは、両手で顔を覆った。


「それで、鞄から、札束を出した。わしは、あんな量の金を見たのは、生まれて初めてだった」

「…………」

「借金の額を、一円単位で言い当てられた。三件とも、債権者の名前も、残高も、全部。……わしでさえ、正確には覚えとらんかったのに」


 俺は、背筋が寒くなった。

 調べ上げている。家族構成も、負債も、債権者も。何もかも。


「男は言った。『お嬢さんが、長年のご奉公でご当主に認められた。そのご褒美です』と。『これからは、より重要なお役目に就かれるので、しばらくご連絡は難しくなります』と」

「……それを、信じられたのですか」

「信じたかったんだ」


 喜一さんは、顔を上げた。

 その目は、涙で濡れていた。


「十二年だ。わしが事業に失敗してから、十二年。志乃は、高校を出てすぐ、紫条通様のお屋敷に奉公に上がった。……本当は、あの子は、学校の先生になりたがっとった」


 秋穂の肩が、びくりと動いた。


「給金のほとんどを、毎月送ってきた。わしらは、それで食いつないで、少しずつ借金を返してきた。……年に一度、盆に帰ってくるたびに、あの子は痩せてた」


 喜一さんは、拳を畳に打ちつけた。


「わしは、父親失格だ。娘の人生を十二年、食い潰した。……そこへ、全部きれいにしてやると言われて。わしは、ありがたい、ありがたいと言って、頭を下げた」

「…………」

「本当は、おかしいと分かっとった」


 喜一さんの声が、割れた。


「侍女の奉公に、三千万もの褒美が出るわけがねえ。……分かっとったのに、わしは、何も訊かなかった」


 板の間に、嗚咽が落ちた。

 秋穂は、静かに正座したまま、喜一さんを見ていた。そして、ゆっくりと、畳に手をついた。


「――紫条通秋穂と申します」


 喜一さんが、顔を上げた。


「志乃さんが、お仕えしていた娘でございます」


 老人の目が、見開かれた。


「……お、お嬢様が」

「お父様。どうか、頭をお上げください」


 秋穂は、深々と頭を下げた。


「わたくしのほうこそ、お詫び申し上げなければなりません」

「な、何をおっしゃる」

「志乃さんは、二十年以上、わたくしの身の回りのお世話をしてくださいました」


 秋穂は、頭を下げたまま言った。


「毎朝、わたくしの着替えを整え、部屋を整え、お茶を淹れてくださいました。わたくしが泣いていれば、折り鶴を折ってくださいました」

「…………」

「それなのに、わたくしは、志乃さんのことを何ひとつ存じませんでした」


 秋穂の声が、わずかに揺れた。


「お給金のほとんどを、ご実家に送っておられたことも。お盆に帰省されるたび、痩せてお戻りになる理由も。……先生におなりになりたかったことも」


 秋穂は、顔を上げた。

 その目は、濡れていた。


「わたくしは、何も見ておりませんでした。すぐそばにいた方のことを」


 喜一さんは、呆然と秋穂を見ていた。


「……お嬢様」

「ですから、お父様。どうか、お教えください」


 秋穂は、まっすぐに言った。


「志乃さんは、今、どちらにおられるのですか」


 喜一さんは、長い間、黙っていた。

 囲炉裏の灰が、かすかに崩れる音がした。

 やがて、喜一さんは、よろよろと立ち上がった。

 奥の部屋へ行き、しばらくして、一枚の紙を手に戻ってきた。


「……これが」


 差し出されたのは、葉書だった。

 裏には、短い文章が、丁寧な字で書かれていた。


『お父さん、お母さん。

 お元気ですか。私は元気です。

 お仕事の都合で、しばらく連絡ができません。

 心配しないでください。

 体に気をつけて。    志乃』


 差出人の住所は、書かれていなかった。


「九月の、半ばに届いた」


 喜一さんは、言った。


「それきり、何も来ん。電話もつながらん」


 凛が、葉書を手に取った。

 そして、表を返した瞬間、息を呑んだ。


「……消印が」


 俺も、横から覗き込んだ。

 切手の上に、丸い消印が押されていた。少し掠れていたが、文字は読み取れた。


『神奈川 葉山 8.-9.16』

「葉山……」


 秋穂が、呟いた。

 そして、その顔が、みるみる青ざめていった。


「……お嬢様?」

「葉山に」


 秋穂の声が、震えていた。


「鷲羽司侯爵家の、別荘がございます」



 帰りの電車の中で、俺はすぐに蘭花先輩に連絡を入れた。

 返事は、五分で来た。


『葉山、鷲羽司。……ビンゴよ』

『鷲羽司家名義の不動産、葉山に二件。一件は本邸筋が使う大きい別荘で、年に数回は人が入ってる』

『問題はもう一件。海沿いの小さい方。十年前に取得して以来、固定資産税だけ払われて、ずっと使われてない』


 少し間があって、次のメッセージが届いた。


『その建物の電気の契約。今年の八月から、使用量が跳ね上がってる』

『空き家のはずなのに、人が住んでるレベルの消費量』


 俺は、スマホの画面を、秋穂と凛に見せた。

 凛の手が、震えていた。


「……志乃さん」


 窓の外は、もう暗くなりはじめていた。

 田んぼが黒く沈み、遠くの家々に、ぽつぽつと明かりが灯っていく。

 電車は、夜に向かって、まっすぐに走っていた。


 ――そのとき、俺はふと、妙な感覚に襲われた。


 後ろの車両から、視線を感じた気がしたのだ。

 振り返った。

 車両の連結部のガラス越しに、誰かが立っていた。

 黒いキャップを目深にかぶった、男だった。

 距離は、十メートルほど。顔は、影になってよく見えない。

 目が合った――ような気がした。

 男は、ゆっくりと身を翻し、後ろの車両の奥へ消えていった。

 俺は、立ち上がりかけた。

 だが、そこで思いとどまった。

 今、追えば。

 この速さを、こんな場所で使えば。

 それに、秋穂と凛を、この席に残すことになる。

 俺は、ゆっくりと腰を下ろした。


「……颯騨様?」

「いえ。何でもないです」


 俺は、できるだけ普通の声で答えた。

 そして、窓の外の暗闇に目をやりながら、宇都宮の駅で買った餃子の袋を、膝の上で握りしめた。

 向こうは、ずっと見ている。

 蘭花先輩のサーバーに、毎日、淡々と。

 そして、たぶん――俺たちの足元にも。

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