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第13話 可愛い(?)妹

「お姉様!」


 昇降口に降りた瞬間、鈴を転がすような声が響いた。

 春花は、まっすぐに駆けてきた。上履きに履き替えることもせず、来客用のスリッパのまま、両手を広げて。

 そして、秋穂に抱きついた。


「会いたかった……! ずっと、ずっと会いたかったんです、お姉様!」


 昇降口にいた生徒たちが、一斉に足を止めた。

 華族の制服を着た美少女が、転入生の伯爵令嬢に抱きついている。しかも、涙ぐんでいる。

 誰が見ても、感動の再会の場面だった。


「……春花」


 秋穂は、抱きしめられたまま、静かに言った。


「どうして、ここへ」


「だって、お姉様が心配で! お父様は『秋穂には会うな』とおっしゃるし、お手紙もお返事がないし。……わたし、もう我慢できなくて」


 春花は、顔を上げた。大きな瞳に、涙の粒が光っている。


「勝手に来てしまって、ごめんなさい。でも、どうしても、お姉様のお顔が見たかったんです」


 周りから、小さなどよめきが起きた。


「……なんか、めっちゃいい話じゃない?」

「妹さん、お姉さんのこと心配で来たんだ」

「泣いてるじゃん。可愛い……」


 俺は、その光景を、少し離れた場所から見ていた。

 春花の腕は、確かに秋穂の背中に回されている。涙も、本物に見える。声も震えている。

 なのに、どうしてか。

 背筋の産毛が、ざわりと逆立った。

 理由は、すぐに分かった。

 春花の腕が、秋穂に触れていないのだ。

 正確に言えば、触れてはいる。

 けれど、その手のひらは、秋穂の背中の上で、わずかに浮いていた。制服の布の上を、ほんの数ミリ、滑るように。

 抱きしめてなど、いなかった。

 抱きしめている、という「絵」を作っているだけだった。


 ――視線を感じた。


 春花が、秋穂の肩越しに、こちらを見ていた。

 涙に濡れた大きな瞳が、まっすぐに俺を捉えている。その瞳の奥に、感情は何もなかった。悲しみも、喜びも、驚きも。ただ、値踏みするような、冷えた光だけがあった。

 目が合った瞬間、春花は、にこりと微笑んだ。

 俺にだけ見える角度で。

 泣き顔のまま、口元だけで。

 次の瞬間には、もう涙ぐんだ妹の顔に戻っていた。



「お嬢様から、お離れください」


 凛が、二人の間に割って入った。

 春花は、名残惜しそうに秋穂から離れると、凛のほうを向いた。


「まあ、凛。久しぶりね」

「……春花様」

「元気にしていた? 平民の学校は、大変でしょう」

「私の務めは、お嬢様にお仕えすることです。場所は関係ありません」

「相変わらず、真面目ねえ」


 春花は、くすくすと笑った。

 それから、ふと悲しそうに眉を下げた。


「……ごめんなさいね、凛。あなたにも、つらい思いをさせてしまって」

「何のことでしょう」

「わたしのせいでしょう? 冬芽お姉様の園遊会に、あなたを推薦したのは、わたしなんだもの」


 凛の表情が、固まった。

 昇降口の生徒たちには、何のことか分からない。

 けれど、俺と秋穂には分かった。

 文書が消えた一週間。

 凛が秋穂のそばを離れていた、あの一週間の話だ。


「あのとき、わたしは本当に、紫条通家のためを思って言ったの。冬芽お姉様の園遊会には、華族の皆様が大勢いらっしゃるから、一番信頼できる侍女を送るべきだって」


 春花は、両手を胸の前で組んだ。


「でも、その間に、あんなことが起きてしまって。……わたし、ずっと考えているの。あのとき、あんなことを言わなければ。凛がお姉様のお側にいてくれたら、きっと何も起きなかったのにって」


 春花の目に、また涙が浮かんだ。


「ごめんなさい、凛。全部、わたしのせいなの」


 ――上手い、と思った。


 背中に、冷たいものが流れた。

 春花は、自分から言い出したのだ。凛を遠ざけたのは自分だと。事件のきっかけを作ったのは自分だと。

 誰かに指摘される前に、自分で認めて、泣いて、謝る。そうすれば、それはもう「疑惑」ではなくなる。「善意が裏目に出た悲劇」になる。

 そして、もし今後、誰かが「凛を遠ざけたのは春花だ」と言い出しても。


 ――ああ、それは本人がとっくに認めて、泣いて謝っていたことだ。そんなことを今さら責めるなんて、なんてひどい。


 そうやって、疑いの芽を、先に摘んでしまえる。


「……春花様」


 凛の声は、震えていた。

 怒りだ、と俺には分かった。

 けれど、周りの生徒たちには、そうは見えなかっただろう。


「お顔を、お上げください」

「でも、凛」

「春花様に、責はございません。命に従うのが、士族の務めです」


 凛は、深く頭を下げた。

 その下げられた頭を、春花が優しく撫でた。


「……ありがとう、凛。あなたは、本当にいい子ね」


 凛の手が、スカートの脇で、握りしめられていた。

 白くなるほど、強く。

 周囲から、ため息のような声が漏れた。


「なんかもう、感動するんだけど」

「妹さん、いい人じゃん……」

「お姉さんのこと、本気で心配してるんだね」


 俺は、拳を握った。

 速さでは、どうにもならない。

 この場で起きているのは、暴力ではなかった。もっと静かで、もっと確実に人を壊していく何かだった。



「あの、そちらの方は?」


 春花が、俺のほうを向いた。

 初対面の相手に向ける、無邪気な笑顔だった。


「お姉様の、お友達ですか?」

「……涼木颯騨です。同じクラスの」

「まあ! 涼木様とおっしゃるのね」


 春花は、ぱっと顔を輝かせた。


「お姉様がお世話になっております。妹の、紫条通春花と申します」


 春花は、深々と頭を下げた。

 華族の礼だった。所作は、秋穂に劣らないほど美しかった。


「お姉様は、ご不自由なさっていませんか? 平民の学校のことは、何もご存じないでしょう。お困りのことがあったら、どうか助けて差し上げてくださいね」

「……はい」

「ふふ。よかった。お姉様に、こんなに優しいお友達ができて」


 春花は、心底嬉しそうに微笑んだ。

 そして、ほんの少しだけ、首をかしげた。


「……あら?」

「何か」

「涼木様。わたし、どこかでお名前を伺ったことがあるような」


 空気が、すっと冷えた。

 春花は、頬に指を当てて、可愛らしく考え込む仕草をした。


「ええと……そうそう。この学校の校門の前で、大人の男の方が三人、いっぺんに倒れたという事件がありましたでしょう?」


 周りの生徒たちが、「あー」と声を上げた。


「ネットで見ました。『校門前集団転倒事件』でしたっけ」


「そのとき、そばにいらしたのが涼木様だと、どこかで読んだような気がして」


 春花は、俺の顔を見上げた。

 大きな瞳が、きらきらと輝いている。無邪気な、好奇心そのものの目で。


「あれ、何があったんですの?」


 ――試されている。


 俺は、すぐに悟った。

 春花は、あの事件を知っている。

 当たり前だ。自分が仕掛けたのだから。

 だが、失敗の原因は、まだ掴んでいない。三人の実行犯は、何が起きたのか分からないまま気絶した。運転手は逃げた。誰も、何が起きたのかを報告できていない。

 だから、確かめに来た。

 あの場に居合わせた平民の少年が、何者なのかを。


「……さあ」


 俺は、頭を掻いた。


「俺も、よく分からないんですよ。ちょうど通りかかったら、三人ともバタバタ倒れてて」

「まあ、そうなんですの?」

「熱中症じゃないかって、みんな言ってました。あの日、暑かったんで」

「九月ですものね。まだ暑い日がありますものね」


 春花は、納得したように頷いた。


「怖いですわね。三人同時だなんて」

「ですね」

「涼木様も、お気をつけくださいませ」


 春花は、にっこりと笑った。

 その笑顔のまま、ほんの少しだけ、声を落とした。


「――お怪我など、なさいませんように」


 周りには、ただの気遣いの言葉に聞こえただろう。

 俺には、そうは聞こえなかった。



「春花様」


 凛が、鋭く言った。


「そろそろ、お帰りいただけますか。お嬢様のご負担になります」


「あら、もうそんな時間?」


 春花は、腕時計を見た。


「本当だわ。お父様に、遅くならないようにと言われていたのに」


 春花は、秋穂に向き直った。


「お姉様。今日は、お顔が見られて嬉しかったです」

「……ええ」

「あの、それで」


 春花は、少し言いにくそうに目を伏せた。


「年の瀬の、親族会議のことなのですけれど」


 秋穂の肩が、わずかに動いた。


「わたし、反対したんです。お姉様から跡取りを取り上げるなんて、あんまりだって。何度も、お父様や、ご親族の皆様に申し上げました」


「……春花」

「でも、聞いていただけなくて。……ごめんなさい、お姉様。わたし、力が足りなくて」


 春花は、秋穂の手を取った。


「でも、安心なさってください。もし、わたしが跡取りになっても、お姉様はずっと紫条通家の娘です。わたしが、必ずお守りします」


 ――守る。


 春花は、確かにそう言った。

 跡取りの座も、稔彦も、紫条通家も。全部、自分が手に入れる。そのうえで、姉を「守ってやる」と。

 こんなに優しい言葉で、こんなに残酷なことを言える人間を、俺は初めて見た。


「……ありがとう、春花」


 秋穂は、静かに言った。

 その声は、驚くほど落ち着いていた。


「あなたの気持ちは、よく分かりました」

「お姉様……!」

「けれど、春花」


 秋穂は、握られた手を、そっと解いた。


「わたくしは、まだ諦めておりません」


 春花の笑顔が、一瞬、止まった。


「……え?」


「祭祀文書を持ち出したのは、わたくしではありません。ですから、いずれ真実は明らかになります」


 秋穂は、まっすぐに妹を見た。


「年の瀬までに、必ず」


 昇降口が、静まり返った。

 春花は、しばらく秋穂の顔を見つめていた。

 そして、ふわりと笑った。


「……そうですのね」


 その笑顔は、今日いちばん自然に見えた。

 泣き顔の演技よりも、よほど。


「お姉様は、昔からそうでした。一度こうと決めたら、決してお曲げにならない」


 春花は、うっとりと呟いた。


「わたし、そういうお姉様が、大好きでした」


 過去形だった。


「……どうか、お体を大切に。真実を探すのは、とても、お疲れになるでしょうから」


 春花は、一歩下がって、深く一礼した。


「それでは、失礼いたします」


 踵を返しかけて、春花は「あ」と声を上げた。


「いけない。忘れるところでした」


 春花は、上品なハンドバッグを開けた。


「お土産を持ってまいりましたの」


 取り出されたのは、小さな桐の箱だった。

 紫の紐が、丁寧にかけられている。


「大したものではありませんけれど。お姉様に、ぜひ」


 秋穂は、その箱を受け取った。


「……ありがとう」


「開けてみてくださいませ」


 春花は、にこにこと笑っていた。

 秋穂は、紫の紐を解いた。

 蓋を開ける。

 秋穂の指が、止まった。

 俺は、横から箱の中を覗き込んだ。箱の中には、綿が敷き詰められていた。

 その上に、小さなものが、ひとつだけ載っている。

 折り鶴だった。

 金色の千代紙で折られた、指先ほどの大きさの鶴。折り目は、驚くほど精密だった。首の傾げ方、翼の広げ方。慣れた者の手でなければ、こうは折れない。

 秋穂の顔から、血の気が引いていくのが分かった。


「……これは」

「可愛いでしょう?」


 春花は、無邪気に言った。


「わたし、折り鶴が好きなんです。お姉様も、お好きでしたでしょう?」


 秋穂は、答えなかった。

 箱を持つ手が、小さく震えていた。


「小さい頃、お姉様のお部屋に、鶴がたくさん並んでいたのを覚えております」


 春花の声は、どこまでも明るかった。


「あれは、どなたが折ってくださったのでしたっけ」


 ――秋穂が、息を呑んだ。

 俺は、思わず一歩踏み出していた。

 その腕を、凛が掴んだ。凛もまた、蒼白な顔をしていた。それでも、首をわずかに横に振った。

 ここで動いてはいけない。

 それは、春花に「効いた」と教えることになる。


「……さあ」


 秋穂は、箱の蓋を、静かに閉じた。

 その顔には、いつもの穏やかな微笑みが戻っていた。


「昔のことですから、もう覚えておりません」

「まあ、そうですの?」

「ええ。……素敵なお土産を、ありがとう。大切にしますね」

「ふふ。喜んでいただけて、嬉しいです」


 春花は、満足そうに微笑んだ。

 そして、今度こそ踵を返した。スリッパの音が、昇降口に小さく響く。

 黒いスーツの男たちが、校門の外で待っていた。

 春花は、リムジンの前で一度だけ振り返り、大きく手を振った。


「お姉様、またお会いしましょうね!」


 昇降口に残っていた生徒たちが、何人か手を振り返した。

 黒いリムジンが、滑るように走り去っていった。



 その日の放課後、旧視聴覚準備室。

 秋穂は、パイプ椅子に座ったまま、膝の上の桐の箱を見つめていた。

 蘭花先輩は、椅子を回してこちらを向き、腕を組んでいた。

 凛は、壁際に立ったまま、一言も喋らなかった。


「……で、その箱の中身が、折り鶴」

「はい」

「で、志乃さんは、秋穂さんに折り鶴を折ってくれた人」

「はい」


 蘭花先輩は、深いため息をついた。


「最悪ね」

「ええ」

「その情報、どこまで広がってる? 屋敷の中で」

「……分かりません」


 凛が、ようやく口を開いた。


「志乃さんがお嬢様に折り鶴を折られたのは、十年以上前のことです。屋敷の古参の者なら、知っている者もいるでしょう。ですが、春花様は当時、まだ三つか四つでいらっしゃいます」

「覚えてるはずない、と」

「……はい」

「つまり、誰かから聞いた。しかも、わざわざ調べた上でね」


 蘭花先輩は、眼鏡を押し上げた。


「これは、脅しよ」


 その言葉が、部屋に落ちた。


「『志乃はこちらにいる』。『あなたと志乃の関係も、全部知っている』。……この二つを、証拠の残らない形で伝えてきたわけ」


「……」


「頭がいいわ。折り鶴を贈るのは罪じゃないもの。誰に見せても、『妹が姉に可愛いお土産を渡した』としか言えない」


 俺は、拳を握りしめた。


「じゃあ、志乃さんは」

「生きてるでしょうね。少なくとも、今は」


 蘭花先輩は、あっさりと言った。


「生きてるから、脅しのカードとして使える。死人を人質にはできないもの」


 秋穂が、小さく息を吐いた。

 安堵したのだ、と俺は気づいた。

 自分が脅されていることよりも、志乃さんが生きているという一点に。


「……蘭花さん」


 秋穂が、顔を上げた。


「ひとつ、お願いがございます」


「なに?」

「志乃さんを、一刻も早く見つけてくださいませ」


 秋穂の声は、震えていなかった。


「潔白を証明するためではありません。……あの方を、助けるために」


 蘭花先輩は、しばらく秋穂を見つめていた。

 それから、椅子を回して、キーボードに向き直った。


「……分かった」


 その指が、猛烈な速さで動きはじめた。


「三週間って言ったけど、撤回するわ。二週間でやる」

「蘭花さん、無理は」

「無理なんかしてないわよ」


 蘭花先輩は、画面を見つめたまま言った。


「……ただ、ちょっと、腹が立っただけ」



「涼木様」


 帰り道。

 秋穂が数歩先を歩いているのを確かめてから、凛が小声で言った。


「今日は、ありがとうございました」

「何がですか」

「昇降口で、動かずにいてくださったこと」


 凛は、前を向いたまま言った。


「あのとき、涼木様が春花様に詰め寄っておられたら。……周りの生徒たちの目には、『平民の男が、華族のご令嬢に食ってかかった』としか映りません。翌日には、ネットに書き込まれていたでしょう」

「……止めたのは、楯岡さんじゃないですか」

「ええ。ですが、止まってくださったのは涼木様です」


 凛は、そこで少しだけ言葉を切った。


「私は、止められませんでした」

「え」

「園遊会の話を持ち出されたとき。……私は、本気で、春花様を斬るところでした」


 その声は、静かだった。

 だからこそ、冗談に聞こえなかった。


「主家の方に刃を向ければ、楯岡の家は終わります。それでも、一瞬、どうでもよくなりました」

「……」

「私は、士族として失格です」


 凛は、唇を噛んだ。

 俺は、少し考えてから言った。


「でも、斬らなかったでしょう」

「……はい」

「じゃあ、失格じゃないですよ」


 凛が、俺のほうを見た。


「怒って当然のことで怒って、それでも堪えた。それは、失格って言わないと思います」


 凛は、しばらく黙っていた。

 それから、ぷいと顔を背けた。


「……涼木様は、時々、余計なことをおっしゃいますね」

「褒めたつもりだったんですけど」

「存じております」


 凛の耳が、夕日の色に染まっていた。

 前を歩く秋穂が、振り返った。


「凛、颯騨様。何をお話ししておられるのですか」

「何でもございません、お嬢様」

「まあ。二人とも、仲がよろしいのですね」

「よくありません」


 凛が、即座に否定した。

 秋穂は、くすくすと笑った。

 その手には、まだ、桐の箱が握られていた。

 大切そうに、両手で。

 あの中の折り鶴を、秋穂はどうするつもりなのだろう。

 捨てるのだろうか。

 それとも――。

 俺はそれを、訊かなかった。

 何も言わずに、ただ秋の夕暮れの道を三人で並んで歩いた。

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