2話:エフィだけ
ルーカスは、腕の中に収まったエフィを見下ろした。
「俺にくっついてれば、少しは寒さが和らぐだろ?」
声をかける。彼女は答えない。ルーカスの胸に顔を埋めたまま、目も合わない。
(必要なこととはいえ、不快だったか?)
そんな不安が過る。
しかし、エフィは大人しくルーカスに抱かれている。彼女の考えが分からない。腕の力を弱めるべきか、迷う。
(これは、エフィを温めるためだ)
なのに、勝手にルーカスの鼓動は速くなっている。
(別に、他意はない。……はずだ)
腕の中で、彼女が身動ぎする。そんな些細なことで、顔が勝手に緩んでしまう。今ほど、彼女がこちらを見ていなくて良かったと思ったことはなかった。
「……エフィ」
名前を呼ぶ。思ったよりも熱が滲んでしまった声。気付かないでほしい。そんな身勝手なことを願う。
(今だけでいい。……兄だと、思わないでくれ)
言えるはずもない願いを、心の奥にだけそっと浮かべた。
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エフィのすぐ目の前に、ルーカスの胸板がある。
肉体を使う技術者らしい、引き締まって無駄のない体つき。背中に回された腕は力強く、ふたりの体は隙間がないほど、ぴたりと密着していた。紅茶の香りに包まれる。
彼の胸に耳を着けると、規則正しくて、少しだけ速い音が聞こえてくる。
ルーカスは、家族だ。
ひとりぼっちのエフィにとっては、無条件に頼れる実の兄のような人。
そう、思っていたのに——
(近い、よね)
この距離感が、その思いを粉々に砕いてしまう。兄と妹の距離感ではない。もっと、別のなにか。
兄ではない。なのに、離れがたい。その思いに素直になって、エフィはルーカスの背におずおずと腕を回した。彼がぴくりと体を震わせた。
(……嫌だった?)
咄嗟にそんなことを思って、不安になる。しかしルーカスは、強く抱きしめ返してくれた。
このまま、ただ身を任せていられたら楽だったのに。
思い出すのは、行きに見かけたあの女性のことだった。きゅっと胸が軋む。
(もし、水を被ったのが私じゃなくて、あの女性だったら)
そんなもしもを考えてしまう。
(ルーカスはやっぱり、こうするのかな)
紳士だから。
誰にでも優しいから。
(私だけが、特別じゃない……)
その事実に、体よりも心が冷えていく。それが嫌で、エフィは彼に縋るように、力いっぱい抱きしめた。
「あったかいな」
ルーカスの掠れた声が、耳元で聞こえる。
「ご、ごめんね。ルーカスは寒いよね」
「いや。可愛い女の子のためなら、お安い御用さ」
彼が笑ったのが、吐息でわかった。エフィはぎくりと身を震わせる。考えていたことが、言い当てられたかのようだった。
いつもの軽口。でもそれをいつもと同じように流せなくて、エフィはルーカスから逃れようと、咄嗟に身をよじる。
「うわっ」
「きゃ……!」
急な動きに体勢を崩し、ルーカスが背後のソファに倒れ込んだ。彼の腕に拘束されたままのエフィも巻き込まれる。
気付いた時、彼を押し倒すように、完全に下敷きにしてしまっていた。
至近距離で、琥珀色の瞳と目が合う。
その瞬間、時間が止まったかと思った。
「ご、ごめん!!」
肘を伸ばし、彼になるべく体重がかからないように上体を支える。
「え、エフィ? 急に、どうしたんだ?」
戸惑ったような声。それでも彼は、こちらの様子に何か察したのか、優しく背を擦ってくれる。
「ルーカス……あの、あのね」
彼に直接聞いてはいけない。わかっているのに、その優しさと触れたところから伝わる熱のせいで、本音が口をついてしまう。
「ルーカスは、誰にでもここまでする……の?」
「え?」
「ルーカスは優しいから、誰かが濡れちゃった時、こうやって抱きしめたり……する? アリステアとか」
「は?」
咄嗟にアリステアの名を挙げたのは、逃げだった。女性を挙げて、肯定されたら——立ち直れない気がした。
ルーカスは露骨に顔を歪める。
「アリスなんか放置に決まってるだろ。頼まれたってごめんだ」
「うん……」
「まあ、上着くらいは恵んでやるかもしれないが」
ルーカスはふと、真剣な顔になった。
「エフィ」
背を擦ってくれていたルーカスの手が、後頭部へと移動する。髪の流れに沿って、大きな手が頭に触れる。
「さっき、『誰にでもここまでするのか』って聞いたよな」
真っ直ぐにこちらを射抜く、熱を帯びた瞳。目が離せない。声を出すことすらできずに、エフィはただ、頷いた。
「誰にでもなんて、しない」
低い声が、耳をくすぐる。指先がうなじを掠めて、エフィは短く息を吐く。
「こうするのは——こうしたいのは、エフィだけだ」
目を見開いた。
「妹には、するよね?」
「しない」
即答された。
「絶対嫌がるだろ、たぶん。だからしない。……これさ、エフィが嫌なら離れるけど。どうする?」
問いかけながらも、エフィを抱く左腕の力は強い。まるで、逃さないとでも言うように。
(離れないで)
そう言うのは恥ずかしくて、自分の中に留める。代わりに、
「嫌なわけ、ないよ」
そう言って、エフィは力を抜いた。彼の上に完全に倒れ、その胸に身を預ける。これはもう兄と妹の距離じゃない。それはわかるのに、名前が付けられない。
一拍遅れて、ルーカスが抱き直してくれる。
こうして彼の規則的な命の音を聞いていると、訳もなく安心できた。温かいし、落ち着く。
(ルーカス)
体から力が抜けた。いつの間にか意識がまどろみ、溶けていく。
彼が何かを言っている。しかしそれは、眠りに落ちようとしているエフィの耳まで届かなかった。





こちらが本編です。