2話:不埒な葛藤と好敵手?
※ルーカス視点です
そんな朝食を終えて、ルーカスは席を立った。今日は蒸気機関の修理の仕事が入っている。
水道のポンプに使われている蒸気機関が不調なようで、下町に上水が届かなくなっているらしい。貴族街ならすぐに専門の修理屋が飛んでくるだろうに、下町だからと何日も放置されているのだという。
あまりお金にはならなそうな仕事だが、人々が困っているのを見捨てることはできなかった。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
片付けはエフィに任せ、ルーカスは工具セットを持って出ていこうとした。アリステアは我関せずといった様子で、読書に没頭している。
「あ、ルーカス」
洗い物をしていたエフィが、声をかけつつこちらに近寄ってきた。
「ん?」
ルーカスは足を止める。エフィが、服の裾を軽く掴んだ。ルーカスの目の前、手を伸ばせば触れられてしまう距離に彼女がいる。
上目遣いにこちらを見上げる空色の瞳に、吸い込まれそうになった。
「エフィ……?」
息が止まる。
(寂しいから行かないで、とか……?)
自分に都合が良すぎる考えが、頭の中を巡って弾けた。
「ルーカス、ちょっと屈んでくれる?」
「……!?」
寂しいから行かないで、どころの話ではなかった。
(いってらっしゃいのキス!?)
ある訳がない。ルーカスとエフィはそんな関係ではない。わかっている。
わかっているのに、『期待』という名前の妄想が爆発してしまう。心臓は勝手に鼓動を高鳴らせ、視線は彼女から一切逸らせなくなる。
エフィが一歩近付く。花のような甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
彼女はルーカスへと手を伸ばし——
「やっぱり。ネクタイ、曲がってるよ」
ルーカスのベストの合間から覗く、赤色の布に触れた。確かに、ネクタイは今は斜めに曲がっている。
盛り上がっていた気持ちが、急速に萎んでいく。
(知ってた。知ってたさ)
エフィとルーカスはそんな関係じゃない。さっきの告白もどきだってそうだ。
ルーカスが望もうとも、彼女の方はそんなつもりが一切ないのだから。
工具を置いてネクタイを直そうとしたルーカスの手を、エフィがそっと触れて制する。そんな些細なことなのに、心臓は素直に高鳴った。
本当に、男というのは単純な生き物だ。
「私がやるよ。ちょっとごめんね」
エフィがまた、こちらに一歩近付いた。胸元のネクタイに手をかけ、するりと解いてしまう。
「えっ、ちょ……近くない、か?」
咄嗟に口をついたのはそんな言葉だった。
「そう? このくらいじゃないと、やりにくいから」
エフィは気にする様子もない。意識して、動揺しているのはルーカスだけだ。
距離が近いのもそうなのだが、ネクタイを解くという行為そのものが親密過ぎるというか、なんだか新婚夫婦のようだと感じてしまう。
そんなこちらの内心になど全く気付いていない様子で、エフィは真剣な表情でネクタイを結んでいる。
(お、俺は……)
全身が緊張で硬直している。工具を持っていない左手が、所在なさげに宙を彷徨う。
彼女を抱きしめたい。しかし、そんな不埒なことをしていい筈がない。葛藤と必死に戦う。
エフィはふと手を止めて、挙動不審なルーカスを見上げた。
「ごめん、嫌だった? でも、工具を置き直すより私がやっちゃった方が早いでしょ?」
「いや、そっちじゃなくて……逆というか」
「逆?」
エフィはルーカスの切ない男心に全く気付いていない。嬉しいんだか悲しいんだかよくわからないうちに、エフィはネクタイを結びなおしてしまった。自分がやるより、断然きれいだ。
彼女が離れる。葛藤から解放された左手で、緩みきった口元を覆う。それでも、赤くなった顔は隠せない。
「ネクタイ結ぶの、慣れてるんだなと思って……」
素直な言葉は、出てこなかった。
「ああ。兄様がね、しょっちゅう曲がったまま出掛けようとするから、いつも直してたんだ」
それを聞いて、ひどく複雑な気持ちになった。
エフィの兄のおかげで、彼女にネクタイを締めてもらうという素晴らしい展開に巡り会えた。
しかし、エフィがこちらを恋愛相手として見ていないのは、どう考えてもこの兄とやらのせいなのだ。
ルーカスは、エフィの兄とよく似ているらしい。
たびたび彼女から「兄様に似ている」と言われるくらいには。
つまり、エフィにとってルーカスは一生、『兄に似た人』止まり。安心感や頼れる男としては見てもらえるが、兄みたいというのはつまり、異性として見ていないというのとほぼ同義。
告白は不発に終わっているのに、ルーカスは失恋している。
「そ、そうか。いやこれ、心臓に悪すぎるだろ……」
肩を落としたルーカスを、冷ややかな視線でアリステアが見つめている。
「ごめん。確かにこのまま出掛けてたら、大変なことになってたもんね。次からもうちょっと早く声をかけるようにするね」
「お、おう……」
エフィはいつだって、ひどく天然なのだ。
そんな彼女に、ルーカスの気持ちは今日も届かない。
✱
翌日。
(完璧だ)
ルーカスは自室で鏡を見て、自分のネクタイが完璧に、かつさりげなく曲がっていることを確認した。
(べ、別に不埒なことを考えている訳じゃない。そう……たまたま2日連続で曲がっているだけだ)
などと誰かへ言い訳をしながら、部屋を出た。リビングでは、エフィがいつも通り朝食を用意してくれている。
「ルーカス、おはよう!」
こちらに気付いて振り向いたエフィが、目を丸くした。その視線は、目論見通りルーカスの胸元に向けられている。
(計画通り……!)
ルーカスは思わず笑いそうになった。
エフィが手を止めてこちらへ近付いてくる——よりも早く、静かに本を読んでいたアリステアが、パタンと音を立てて本を閉じ、机に置いた。
立ち上がり、真顔のまま近寄ってくる。
「ルーカス。ネクタイが曲がっている」
彼の青い瞳は、ひどく冷たい光を宿していた。ちなみに、アリステアのループタイは、一片の隙もなく整っている。
「あ、私が——」
「エフィ。やらなくていい」
ぴしゃりと言って、アリステアがネクタイを掴んだ。ルーカスが口を挟む暇もなく、さっと直してしまう。エフィは「ありがとう」とアリステアに微笑みかけて、また朝食作りに戻ってしまった。
「何も嬉しくねぇ……」
「ネクタイを直すことに、嬉しいも嬉しくないもないよね」
何も間違ってない、完璧な正論である。
アリステアの無表情からは、何を考えているかは全く読み取れない。ただ奴はルーカスの欲望を阻止してきた。それだけは事実だ。
(……やっぱりこいつ、俺の好敵手なんじゃないか?)
確信は持てないが、そんな気がした。





こちらが本編です。