7話:君の幸せ
アリステアはずっと、エフィを見ていた。
彼女は予言のない場所から予言のあるこの街へ迷い込んだ。流され受け入れることを良しとせず、決められた理不尽な未来を覆そうとする姿が眩しくて、目が離せない。
特別だった。何よりも大事にしたかった。こんな風に思うのは、エフィだけだった。
だからこそ、罪のある自分は、彼女に近付くべきじゃない。
そう、思っていたのに——
絡んだ指のぬくもりが広がっているかのように、体中が熱い。指の腹で彼女の手の甲を撫でると、ぴくりと腕が反応する。
やろうと思えばできるのに、彼女の小さな手を振り払うことだけは、どうしてもできなかった。
半歩先を行く彼女は、時々アリステアが着いてきているのを確かめるように、ちらっとこちらを振り向くことがある。長いプラチナブロンドが靡く。
そんな何でもない仕草に、どうしようもなく息が詰まる。
「ルーカス、心配してるかな」
ルーカスのことを気にするエフィに、なぜか心が揺れた。顔にも言葉にも出さない。昔から感情を表に出さないようにしてきた。自分の役割を果たすためには、不要だから。
でも、結ばれた指に僅かに力が入るのは、止められなかった。
エフィが気付いて振り向いた。最初は驚いたように目を丸くしていたが、すぐにふわっと笑いかけてくれた。
それに、満たされてしまう自分がいる。
矛盾する自己を抱えながら、アリステアはエフィに手を引かれて、家まで戻ってきてしまった。重い足で、中に入る。
リビングには、ルーカスがいた。
「アリス、エフィに捕まったな?」
彼はにやっと笑いながら言う。
ルーカスに黙って一晩家を空けたことなど一度もない。どう返していいかわからなくて、ただ黙って頷いた。
ぎこちない空気で、ほとんど昼食のような朝食を終えた後、エフィはリビングのソファでうとうとしていた。
その姿に、昨日、自分の肩にもたれかかってきた彼女の姿を思い出す。すぐに離れてしまった、柔らかな重み。アリステアは黙って、自分の肩に触れた。
「……エフィ、少し寝たほうがいいんじゃないか? 昨日は寝てないだろ」
ルーカスが声をかけると、彼女は目を擦ってから、ふるふると頭を振る。
「眠いけど、でも」
エフィの空色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いた。そこには、不安ですとそのまま書いてあるかのように感情が滲んでいる。
「どこにも行かない」
そう伝えても、彼女は目を逸らさない。信用されていないらしい。
「約束する」
重ねて伝えて、ようやく彼女の肩から力が抜けた。
「じゃあ、ちょっとだけ寝てくる。本当に、どこにも行かないでね」
「行かない。……言葉で信用できないなら、眠る君の隣で手を握って過ごすけど」
「そ、それはダメ!!」
極めて合理的な判断だと思ったのだけれど、顔を真っ赤にしたエフィに即却下された。時々、彼女の考えることがわからない。
ちなみに、ルーカスが「はぁ!?」と言いたげな顔をしていることも、視界の端に捉えていた。
(……どうして、だろう)
エフィの考えていることが気になったが、恐らく質問しても彼女は答えてくれないだろう。リビングを出ていく彼女の背を見送りつつ、そんなことを考えていた。
「なあ」
エフィの足音が完全に消えたあと、ルーカスが声をかけてくる。
「好敵手に塩を送るような真似はしたくねぇけど、お前さ、ちゃんとエフィと話せよ」
ルーカスが、琥珀色の瞳でこちらを睨んでくる。
それきり、彼が黙ったのでリビングは静寂に包まれた。エフィがいないと、この家はひどく静かだなと思う。
海まで追いかけてきて、自分を連れ帰ってくれて、彼女は色々と言葉をくれた。重要なものはいくつもあったのに、今思い出せるのはひとつだけだった。
——好きだから。
そう言った時の彼女は、どんな顔をしていたのだろうか。そんな取り留めのないことが、気になった。
「話す必要は……ない、はず」
呟く。アリステアの過去を知ったところで、エフィにただ重さを背負わせるだけ。その笑顔を、自分などのせいで曇らせてしまう——得をすることは、何もない。
だというのに、ルーカスは露骨に眉をひそめた。
「お前、本当にそう思ってるのか?」
いつもは軽口ばかりの彼だが、その口調はいつになく真剣だった。
「そうだね」
「ま、それなら別にいいけど。お前がそんなんなら、俺がエフィを口説き落として幸せにしてやる。いいんだな? お前のことなんか忘れさせて、見向きもさせないんだからな!」
まくし立てるように言われた。アリステアはどう返すべきか悩み、しかし何を言っていいか言語化できず、視線を逸らす。
ルーカスはなぜか怒っていて、彼もこちらに背を向けてしまった。
先ほどよりもずっと重苦しい沈黙に包まれる。
(エフィを、幸せに……)
ルーカスが発したその言葉を、胸の内で反芻した。
脳裏に過ったのは、口付けをしてしまった時の、彼女の心底嬉しそうな笑顔——だった。
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「……!」
咄嗟に口を手で覆う。表情を作るのは昔から得意だった。はずなのに、今は取り繕うこともできない。ルーカスがそっぽを向いていることにひどく感謝する羽目になる。
あの時のエフィの顔を、ルーカスがもたらして、ルーカスが見たとしたら?
(嫌、だ)
思考するまでもなく、言葉では説明できない不快感でいっぱいになる。
エフィが幸せになることは、良いことだ。今まではずっと、彼女がただ笑っていればいいと、自分はその隣にいなくてもいいと、そう思ってきた。
なのに今は、彼女の隣にいるのが自分でない可能性が、こんなにも心を抉る。
(僕だけを……見てほしい)
思い至ったそれは、ひどく甘美な響きだった。自分の中にある未知の衝動に戸惑う。
この衝動の名前を、知識では知っている。でも、体感するのは初めてだった。
「……ルーカス」
「なんだよ」
声をかけたら、不機嫌そうだがルーカスは応じてくれた。彼が振り向いたので、真面目な表情を作る。普段よりもぎこちない気がしたが、彼は何も言わなかった。
「僕は、どうしたらいい?」
「知るか!」
怒られた。
「あのなあ、俺とお前は好敵手なんだよ。だからお前の味方はしない。わかるか?」
少しだけ、考える。
「多分、わかる。つまりルーカスは、エフィに懸想しているから、僕が足踏みをしている方が都合がいい」
「けそっ……ま、まあ、間違ってはないな」
ルーカスがごほんと咳払いをする。
「だから、正解は教えてやらない。というか、俺が教えてほしいくらいだ」
「なら、ひとつ問題がある」
アリステアの言葉に、ルーカスは首を傾げた。彼に申し訳ない気もしたが、黙っているのは公平じゃない。
おもむろに口を開く。
「僕は、エフィに……好きだと言われた」
「………………は?」
ルーカスは、目を見開いて硬直した。





こちらが本編です。