6話:どこにも、行かないで
ひとり残されたエフィは、医学書を読んでいた。この時はまだ、アリステアが帰ってきてくれると信じていた。
夕方になり、なぜかパーツを買ってこなかったルーカスが帰ってきても、アリステアは戻ってくる気配がなかった。
「アリスと何かあったのか?」
エフィの表情を見て、ルーカスは一瞬で何かを察したらしい。眉尻を下げて、気遣うように聞いてくれた。
「ちょっと……ね」
力なく笑って、誤魔化す。
結局、ベッドに入るような時間になっても、エフィは自分の部屋に帰って寝るなんてできなかった。
リビングでうとうとしながら、アリステアのことを待つ。扉はぴたりと閉ざされ、開かない。
夜が更け、窓から覗く東の空が白んでくる。
それでも、アリステアは戻ってこない。
机に突っ伏していたエフィは、恨めしい目を開かないリビングの扉に向けた。
「帰ってきて」
独り言が落ちる。
彼は大人だ。一晩何処かに行っていたって、気にするようなことじゃない。理屈ではわかっているのに、納得はできなかった。
去り際の彼の背中が、目に焼きついてしまったように離れない。そこにちらつく感情がなんだったのか、エフィにはわからない。
やがて陽が顔を出し、朝が訪れる。もう、居ても立ってもいられなかった。
ルーカスのために「アリステアを探してきます」と書き置きを残して席を立ち、玄関へと向かった。
アリステアが出ていった扉を開ける。朝の冷たい風が吹き込んできて、エフィの髪を揺らした。
エフィは身を震わせてから、静寂を割るように走り出す。朝霧にけぶる街の中を、真っ直ぐ、アリステアの診療所へ向かって。
しかし、診療所には明かりがついていなかった。家から持ち出した鍵を使って中に入るが、アリステアの姿はどこにもない。来た形跡すらもなくて、肩を落とす。
彼を探して次の場所へ行こうとして——ぴたりと、足が止まる。
「アリステアは……」
エフィは待合室の椅子に、力なく座り込んだ。自分の太腿に視線を落とす。
ここでアリステアに膝枕をした時のことが、ひどく昔のように感じられた。
「どこに、行くんだろう」
今更、彼のことを何も知らないことに気付いてしまった。
自分の不甲斐なさに、ぎゅっと強く手を握りしめる。
知ろうとしていた。でもそれは表面上のことだけで、こういう時に彼がどこで何をするか——全くわからない。心当たりすらない。
彼を好きだと思った。それは嘘じゃない。なのに、彼のことを何一つ理解していなかった事実を改めて突きつけられて、息が苦しくなった。
(アリステア……)
明日は診療所が開く日だ。ここで待っていれば、明日には確実に会える。でも、それでは意味がない気がした。
(待ってるだけじゃ、だめ)
彼と、きちんと向き合いたい。
そのためには、ここに来る『医者』ではなく『アリステア』と話さなければいけない。
エフィは顔を上げた。
(諦めない……)
今までのアリステアとのやり取りを、ひとりで振り返る。
思えば彼は、あまり自分の過去を自分の口で語りたがらなかった。早朝から、時々ひとりで何処かに出かけていることはあるけど、行き先を聞いたことはない。
「ああいう時のアリステアは、確か……」
思い返す。夜明け前から出かけて、朝食の時間には帰ってくる。多分、そう遠くはない場所だ。帰ってきた彼の服からは、ほんのりと潮の香りがして——
「そうだ。もしかして、海?」
確信はないが、それしか心当たりがない。エフィは椅子を立ち、診療所を飛び出した。
息を切らしながら、西にある舗装されていない海岸に向かって走る。南にも港があるが、あちらは遠く、ルーカスの家から数時間で行き来するのは難しい。
海岸にいて欲しい。
貴方の話が、聞きたい。
(アリステア……!)
舗装された道は徐々に土と草へと変わり、建物が減り、海の香りが漂いはじめる。
彼だけを想っていた。
このまま彼は姿を消して、もう二度と会えないんじゃないかなんて、そんなことが何度も何度も頭を過った。
だから、霧の丘に佇むアリステアの後ろ姿を見つけた時、張り詰めていたものが一気に崩れてしまった。
「アリステアっ!」
彼の名を呼ぶ。足がもつれ、柔らかな草地に倒れ込んだ。
その音に、はっと彼は後ろを振り返った。エフィは完全に足が笑ってしまって、地面に転がったまま、起き上がることができない。
そんなエフィを見て、アリステアが逃げずに駆け寄ってきてくれる。
「エフィ……どうして?」
返事をする前に、すぐ側に跪いた彼の上着をしっかりと掴む。
振り払われなかった。それをいいことに、エフィは震える足で立ち上がり、思いっきり彼に抱きついた。彼の胸に顔を埋め、小さく肩を震わせる。
そんなエフィの背を、彼は宥めるようにさすってくれた。
「探したの。どこにも、行かないで」
荒い呼吸の合間に口から出たのは、そんなどうしようもない我儘だった。
アリステアが息を呑む。
「私……貴方のことを、もっと知りたい」
広がる草原を、海風が吹き抜けていく。アリステアのフロックコートの裾が翻る。背を撫でていた彼の手が、抱きしめるようにエフィを引き寄せた。
「僕は」
アリステアの声は、掠れている。
「過去に、許されない罪を犯した」
耳元で響いたその言葉を飲み込むのに、少し時間が必要だった。
「だから……君の側にはいられない」
アリステアの腕が、力を失って静かに落ちた。
彼はエフィを引き留めない。今この手を離したら、今度こそ手の届かないところに行ってしまう。そんな気がして、ますます強く彼を抱きしめた。
「でも、私は貴方の側にいたい。貴方の過去を知りたい」
「……どうして?」
「好きだから」
アリステアは何も言わず、そのまま拘束され続けていた。
エフィも黙って、彼の胸に耳をつける。彼の速い鼓動と、引き剥がされない自分の腕。それだけじゃもう、全然足りないと思った。
どれだけの時間、そうしていただろうか。
「一緒に帰ろう」
エフィはそう言って、腕を解いた。代わりに彼の手を握って、自分の指を絡める。
歩き始めれば、少し遅れて彼も着いてくる。
拒絶は、されなかった。
エフィは海風に溶かすように、安堵の息を吐いた。





こちらが本編です。