5話:届かない
「あ、ああああのっ!」
声が不自然に裏返っている。それを自覚しつつも取り繕うことはできなくて、エフィはぱっと立ち上がった。
「お代わり淹れるね!」
苦しすぎる言い訳をしつつ、キッチンに向かって歩き出す。何かしないと居られなかった。
が、ふわふわした気持ちのまま歩き出したせいか、何かに足を取られて体勢を崩してしまう。
(転ぶ)
そう思ったのと、
「エフィ!」
アリステアの声が響いたのは、同時だった。
彼に後ろから腕を掴まれ、やや強引に引き寄せられる。それでも体を支えきれなくて、アリステアを巻き込みながら倒れてしまった。
衝撃に備えて咄嗟に目をぎゅっと閉じたが、想像したような痛みは来なかった。
代わりに、唇に柔らかいものが触れる。先ほど飲んだはちみつ入りの紅茶より、ずっと甘い。
(あれ?)
恐る恐る目を開ける。すぐ近くに、アリステアの顔があった。長い睫毛の1本1本が見えるどころか、瞬きをする時にくすぐられるような距離感。
青い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。至近距離で見つめ合ってようやく、エフィは彼を下敷きにしてしまったことに気が付いた。
それから、自分の唇が彼のそれと重なっていることにも。
「……!!」
唇が塞がっていて、声が出ない。
すぐに離れなきゃ。そう思うのに、エフィを庇おうとしたのか、彼の腕がしっかりと腰に回っていて動けない。自分の手足もまるで力が入らなくて、振りほどくこともできない。
きっと、顔はこれ以上ないほど赤くなっているだろう。
(でも)
エフィは目を閉じた。視覚情報がなくなったことで、彼と触れ合っているところにより意識が集中する。
(嬉しい……)
力の抜けた笑みを浮かべる。
こんな形とはいえ、恋を自覚した相手に触れられることに、純粋に喜んでいた。彼が許してくれるのなら、このままずっとこうしていたいくらいだった。
力を抜いて、組み敷いたアリステアに身を預ける。今まで、こんな風に彼とくっついたことは何度かあったけど——今は一番、緊張するのに離れたくないと思う。
押し倒されているアリステアが、小さく腰を引くように身動ぎをした。腕の拘束が緩む。エフィは名残惜しさを押し殺して、僅かに体を離した。
赤茶色の髪が乱れ、床にこぼれている。見てはいけないような気がして、エフィは視線を彼の顔に固定した。
「ごめんなさい」
口を開いたアリステアよりも先に、謝罪の言葉を放つ。彼はぱちりと瞬きをした。
「どうして、君が謝る? これは僕が引き起こした事故だよね。倒れそうな君を助けられなかったから——」
「違うの」
エフィは彼に抱かれたまま、ふるふると首を横に振る。もう、表情を隠さない。溢れてしまうものを押さえておくことができなくて——
「私……私ね、得しちゃった、から」
右手で、触れ合ってしまった唇を軽く押さえる。あの感触はたぶん、もう一生忘れられない。
「アリステアが、好き」
「……っ」
彼が目を丸くして、それから視線をさっと逸らした。努めてこちらを見ないようにしている。
先ほどの口付けよりもずっと動揺していることが、手に取るようにわかった。
こんなに驚いている彼は見たことがない。だからきっと、エフィの気持ちは誤解なく届いている。
腰を抱くアリステアの腕に、力が籠った。
「エフィ……」
名前を呼ぶ彼の顔は、どこか苦しげだった。
その意味を考えている間に、アリステアは腕を完全に解き、エフィの体を解放する。
「……降りてくれる?」
いつもよりも硬い声だった。
「ご、ごめん。重かったよね」
「重くはない。だけど」
彼の上から降りると、アリステアはさっと身を起こした。立ち上がり、床に座り込んだままのエフィに手を差し出してくれる。そこに自分の手を重ねたら、力強く引っ張り上げられた。
彼との距離が縮まる。
なのに、アリステアは下を見ていた。エフィの手を取ったまま、片手で乱れた服を手早く整える。
視線は、合わない。
彼の雰囲気の変化を感じ取って、高揚していた気持ちが、急激に冷たく、小さくなっていく。
「僕は」
アリステアの声は、震えていた。
重なったままの手に、力が籠もったのを感じる。好きな相手の言葉なのに、今だけは続きを聞きたくないと、そう思ってしまった。
「君に近付くべきじゃない」
言うが早いか、彼はするりとエフィの手を抜け出し、背を向けた。心を握り潰されたみたいに胸が疼く。
こちらを拒絶するような背中。掛ける言葉を見つける前に、アリステアはリビングを出ていってしまった。
遠くで、玄関の扉が開いて、また閉じる音が聞こえる。
「アリステア……?」
名前を呼ぶ。
誰もいない家の中、当然返事はない。
呆然としながら、テーブルを見た。ふたり分のティーカップと、医学書と、論文。そこにはまだ、ふたりで過ごした証が残っているのに——
「どう、して?」
呟く。
嫌われてはいない。間違いなくそう言い切れる。
アリステアはエフィを拒絶しなかった。
——僕は、君に近付くべきじゃない。
それは明らかに、自分自身への宣告だった。
だからこそ、彼のことがわからなくて——ただ呆然と、彼が出ていった扉を見つめることしかできなかった。





こちらが本編です。