4話:知りたい気持ち
その日の分の家事を終えたエフィは、リビングの片隅にある本棚の前に立った。見繕った本を何冊か抱えて、テーブルへと移動する。
蒸気機関をいじっていたルーカスが顔を上げ、こちらを見て目を丸くする。アリステアは、彼の向かい側で論文を読んでいるようだった。
「エフィが本か。珍しいな」
「うん。ほら、この前アリステアの診療所に行った時、私にできることってあんまりないなと感じたの。だから、医学の勉強をしたいんだ」
エフィは、抱えていた本の1冊をルーカスに見せる。比較的初心者向けの易しい医学書だと、以前アリステアが教えてくれたものだ。
「大変だと思うけど、頑張れよ」
「うん、ありがとう」
こういう時、ルーカスは真っ直ぐ背中を押してくれる。その気持ちに感謝しつつ、エフィはアリステアの隣に座り、本を机に並べた。
彼は読んでいた論文から顔を上げて、ちらりとこちらを見る。
「な、なあエフィ、席は他にも空いてるのに、アリステアの隣に座るのか?」
「え? あっ……」
ルーカスに笑いながら指摘されて、初めてアリステアの隣に座ったことを意識した。
テーブルの周囲にある椅子は5脚。空いているのは3脚。でも特に何も考えずに、ここに座ってしまった。誰も座っていない、所謂お誕生日席もあるのに。
(ちがう……私、アリステアの隣に座りたかったんだ)
その事実に気付いて、顔に熱が集まる。ちら、と隣の彼を見ると、何か言いたげな青い瞳と視線が絡んだ。
「ごめん。狭いよね。違う席に——」
「いや。この方が、もしわからないことがあった時に僕が教えやすい」
アリステアが真面目な声で言う。合理的な判断をするところが、とても彼らしい。そう思っていたら——
「だから、そのままで」
つけ足された一言に、息が止まってしまうかと思った。
「う、うん」
ぎこちなく答える。
アリステアはただ、本当に教えやすいからそう言ってくれただけ。そこに特別な意味なんかない。わかっている。
(はず、なのに……)
顔が上げられない。彼の顔が見られない。
エフィは医学書を開き、綴られた文字を眺める。もう、とてもじゃないが顔を上げられない。文字を読むことはできるのに、内容が全く頭に入ってこない。
(どうしちゃったんだろ……)
読んでも読んでも、まるで手応えがない。1ページも進んでいないエフィを、アリステアが見た。
「困ってる?」
耳元で囁かれているかのように、近くから声が聞こえる。
「えっと……はい」
「この章は、解剖生理について書かれてる。まずは、この図なんだけど」
彼が指先で、図を示す。その際に、本の上に添えられていたエフィの手と、僅かに触れ合った。
「……!」
思わず声が出そうになり、慌てて飲み込む。
もう、必死だった。
アリステアは作業の手を止めて、わざわざ教えてくれている。だから精一杯頭に叩き込もうとするのだけれど、どうしたって彼の一挙一動までもが気になって仕方がない。
「……あー」
ルーカスがごほん、とわざとらしい咳払いをして、ぱっと席を立った。
「あのさ俺、ちょっと足りないパーツあるから買い物行ってくるわ。夕方まで戻らないから。じゃあな」
早口で言ってから、工具セットを持って、さっさとリビングを出ていこうと踵を返す。
(……買い物に工具セット?)
とは思ったが、突っ込んでいる余裕はなかった。
「いってらっしゃい」
顔を上げて、ルーカスを笑顔で見送る。なぜか彼は苦笑いを返してくれた。
その間、アリステアはじっと、エフィを見つめていた。
ルーカスが出ていく。扉の向こうで、玄関の扉が閉まった音がした。なぜかその音が、妙に耳に残る。
「………………君は」
ぽつりと、アリステアが呟く。
「ルーカスには、よく笑いかける」
「え? そうかな?」
「僕が見ている限りでは。それに、君が来てから、ルーカスもよく笑うようになった」
僕が見ている、と真顔で言われて、エフィは妙に落ち着かない気持ちになった。
元々アリステアは周囲をよく見ているし、自分の感情には鈍感だが、人の変化には敏感だ。それはよく知っている。
彼の言動はいつも通りなのに、エフィの受け取り方だけが変わっている。そんな気がした。
「そう、かな? ほら、私とルーカスは兄妹みたいなものだから」
「兄妹」
こちらの発言を繰り返し、アリステアが纏う空気が少しだけ緩む。
疑問を覚えつつも、彼のことを努めて意識から追い出し、医学書と向き合う。エフィの手が止まると、アリステアがそれとなく助け舟を出してくれる。
彼に見られている。
それがいつも以上に緊張するのに、なぜかくすぐったくて、気持ちがざわざわと落ち着かない。
そんな状態で難しい文字列を追っていたせいか、しばらくすると眠気が襲ってきた。
(寝ちゃ、だめ……)
頭を振って自分を保とうとするが、半分眠りに落ちかけている意識を引き戻すことは難しくて、かくんと体が船を漕いでしまう。
エフィの頭が、アリステアの肩に乗る。瞬間、その感触にはっと意識が覚醒した。眠気など、一発でどこかに吹き飛んでしまった。
「ご、ごめん!!」
エフィは飛び上がって、アリステアに頭を下げた。勉強を教えてもらっているというのに、彼を枕にするなどとんでもない話だ。
「大丈夫」
アリステアはそう言って、なぜか表情を明るくした。迷惑をかけた上に不真面目な態度を見せてしまったというのに、むしろ、どこか嬉しそうで——彼のことが、やっぱりわからない。
エフィは深呼吸をしてから、椅子に座り直す。
「お茶を淹れる。少し休憩にしよう」
「あ、そんなの私が——」
立ち上がりかけたエフィの肩に、彼が触れた。
「僕が淹れたいんだ」
真剣な声色にどきりとする。
(そ、それ……どういう意味?)
自分の感情をもてあましつつ、エフィは素直に頷いた。そう言われてしまったら、従う他なかった。
「わかった。じゃあお願い。……って、アリステアはお茶を淹れられるの? ちょっと前までは何もできなかったよね?」
放っておくと、食事すら満足に取らない生活能力皆無なアリステアが、お茶を淹れてくれる。そんなことがあるのかと、エフィは目を瞬かせた。
「……練習したから」
その宣言通り、ぎこちない手つきとはいえ、彼は紅茶を淹れてくれた。
カップに口をつけると、紅茶の香ばしい匂いと共に、甘さが口に広がる。
「あ。はちみつ入り?」
「頭を使った後は、甘いものがいいよ」
淡々と言って、自分のカップを持ち上げている。彼の気遣いに、自然と笑みがこぼれた。
エフィとアリステアの間には、柔らかい空気が漂っている。
踏み込むなら、今しかない。
エフィは決意した勢いのまま、口を開く。
「休憩の間、アリステアのことを聞いていい?」
「僕のこと?」
アリステアは予想外のことを言われたとばかりに、目を瞬かせる。でも、きちんと聞こうとしてくれているのか、彼はカップをソーサーに置いた。
「うん。趣味とか、苦手な食べ物とか、ルーカスと出会った頃のこととか」
「……休憩で、どうして僕のことを聞く?」
アリステアは心底、不思議そうな顔をしている。
「どうしてって……」
そんなのは、ひとつに決まっている。
(好きだから)
「……っ!!」
咄嗟に浮かんだそれに、エフィはティーカップを落としかけた。平静が保てない。顔に全部出ている。だからもう、彼から思いっきり顔を背けるしかなかった。
好き。
その二文字が体の中を駆け巡るようで、ひどく落ち着かない。頬に手を当てる。そこは手の中にある紅茶と同じくらい熱い。
「エフィ?」
アリステアが呼んでいる。今までどんな顔をして、どんな声で、彼と接していたのか、もう思い出せない。
「……もっと」
やっとの思いで口を開く。紅茶を飲んでいたはずなのに、口の中はカラカラに乾ききっていた。
「もっと、アリステアのことを知りたい……から」
絞り出すような、小さな声だった。見えないところで、アリステアが息を呑む音が聞こえる。
居心地が悪い沈黙が、しばらくその場を支配していた。意味もなく紅茶を口に含み、ティーカップを机に置く。沈黙がいたたまれなくなって、またティーカップを口へ運ぶ。その繰り返し。
あっという間に、カップの中身はなくなっていく。
「なら、僕も」
沈黙を破ったのは、アリステアだった。
「君のことが、知りたい」
いつもと同じ調子で落ちたその言葉を、どう受け取っていいか——エフィには、まるでわからなかった。





こちらが本編です。