3話:もうちょっと、一緒に
ルーカスが去って、しばらくして。
「……ありがとう」
そう言いながら、アリステアが体を起こした。太腿の上から重みが消え、不思議なほどに寂しく思う。
彼はこちらに背を向けていて、やっぱり顔は見えないままだった。
「少しは休めた?」
「………………うん」
なぜか、返事があるまでの間がやたらと長かった。
エフィとアリステアは診療所を閉め、夜の帳に包まれきったエルシオンの街を歩く。行きにエフィが失態を晒したからか、アリステアは車道側を歩いてくれた。
(……なんだろう)
エフィは、歩きながら自分の掌を見つめる。ついさっきまで、アリステアの頭に触れていたところ。今はそこが空っぽなことが、ひどく物足りないと思ってしまった。
なんとなく、彼の手に目が向いた。しなやかで、しかし剣を握る男の人らしい大きな指。アリステアは医者なのに、武術の腕も立つ。
繊細さと大胆さ。両方を巧みに切り替える手を見つめていたら、つい——
「手を、繋いでもいい?」
そんなことを口走っていた。
ぴたりと、アリステアが足を止める。
返事は、すぐには来なかった。こちらの真意を確かめるように、青い瞳がじっと見つめてくる。
車道を自動車や馬車が走り抜けていく音が、やけに耳についた。
(嫌だった……かな)
そんな不安が頭をもたげる頃——
「わかった」
答えとともに、ぱっと手が差し出された。そこには照れも躊躇いもない。その姿勢に、なぜかエフィの方が緊張してしまう。
(な、なんか……恥ずかしくない……?)
と、今更ながら思ったが、アリステアはいつも通りの真面目な顔。気にしているのは自分だけなのかもしれない——そう考えた時、ちくんと胸が痛んだ気がした。
「う、うん」
自分の声は、妙に上擦っていた。差し出された彼の手を、きゅっと握る。
彼は黙って握り返してくれた。その温かさに、エフィの表情は自然と緩んでしまう。
彼とふたりで、手を繋ぎながら並んで歩く。
「今日は、君がいてくれて助かった」
「それはこっちの台詞だよ。私ひとりじゃ、あの人を助けられなかったと思う。アリステアはやっぱり、凄いね」
いつもと同じ、他愛ない会話。なのに、エフィの心は妙に弾んでいる。
(変なの)
ちょっとしたことで気分が沈んだり浮かんだりする。今も、歩調の違いで手が離れそうになると、アリステアが手を握る力が僅かに強くなる。歩調が合えば、安心したように少しだけ緩む。
そんな些細なことが、ひどく気になってしまって落ち着かない。
自分の感情の動きが、いつもとどうしてか違ってしまう。理由は、よくわからない。
今日、真剣な顔で患者に向き合う姿を見てから、だろうか。
「ねえ、アリステアはどうして……」
医者になったの?
そう聞きたかった。
しかし、言葉は中途半端なところで掻き消えた。目の前のスタンドで、予言が書かれた新聞を買っている人がいることに気付いたからだ。
エルシオンの人々はみんな、予言に従って生きている。生き方を自分で決めたりしない。
(もしかして、アリステアも?)
足が鉛のように重くなった気がして、歩くペースが少しだけ落ちた。
もし、アリステアが予言通りに医者をしているのだとしたら——
(なんか、やだな)
ひどく自分勝手なことに、そう思ってしまった。
アリステアには流されたのではなく、自分の意思で医者になっていてほしかった。その希望がまるで、自分が彼のことを見ていない、信じていない証のような気がして、呼吸が僅かに乱れる。
「どうして、手を繋いでくれたの?」
誤魔化すために咄嗟に出た言葉は、そんな他愛もない一言だった。
アリステアが振り向いて、青い瞳でエフィを見る。凪いだ眼差しだった。
「君が、願ってくれたから」
真っすぐで、妙に重い台詞が、返しのついた棘のように胸に刺さった。
どんな顔をしていいか、どんな言葉を返したらいいか、どちらもわからない。
エフィはただ、赤みを帯びた顔で俯く。
家までの道のりが、もっと続けばいい。そう思ったのに、診療所とルーカスの家はそもそもそんなに離れていない。あっという間に玄関までたどり着いてしまった。
アリステアは躊躇いなく、ドアノブに手をかける。きっと家の中に入ったら、繋いだ手を離さなければいけない。もう少しだけ、この時間を引き伸ばしたかった。
「あの……アリステア」
そう思ったら、勝手に口が動いていた。アリステアは体ごと向き直って、こちらを見てくれる。
「もうちょっと、一緒にいたい。……だめ?」
ぴくりと、アリステアの肩が揺れた。繋がれたままの手を通して、彼の体の動きが伝わってくる。考え込んでいるのか、彼の眼差しがあちこち彷徨う。
その間、手を繋いでいることができて、エフィは満たされた気持ちになった。
「もう夜だし、早く家の中に入るべきだ」
言いながら、彼は繫いだ手に視線を落とす。
「……うん」
「でも」
繋いでいない左手が、エフィの頭にそっと乗せられた。さっきのお返しとばかりに、優しく撫でられる。
「僕も、同じ気持ち……だと思う」
「あ、アリステア……?」
いつも理性的な彼らしくない行動に、エフィは目を丸くする。息をすることすら憚られるような時間の後、こちらを見つめる青い瞳が、僅かに陰った。
「迷惑なら、言って」
「迷惑じゃない!」
食い気味に、エフィは叫んでしまう。
「逆だよ。……すごく、嬉しい」
頭に触れる熱が心地いい。顔は赤いし、表情も緩んでいるし、とてもじゃないが人に見せられないような顔をしていると思う。
でも、そんなエフィを見て、アリステアも唇の端だけで笑みを浮かべてくれた。
穏やかで、こちらを見守るようなささやかな笑顔が、エフィの頭に焼き付く。
(……今、笑うんだ)
以前から、笑うタイミングが掴みにくい人だとは思っていた。今でも、よくわからない。
わからないから——もっと、彼のことが知りたくなった。
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今までに経験したことがない、妙な感情が渦巻いていて——アリステアは戸惑っていた。
エフィと繋いでいた手を離し、撫でるのもやめて、アリステアは家の扉を開く。エフィが先に入るように扉を開けたまま支えていると、彼女は素直に「ただいま」と言いながら、家の中に入っていった。
「おかえり。大変だったな」
ルーカスが出迎える声。それにエフィが応える声。
それらを聞きながらふと、アリステアは左手を見た。彼女の頭に触れていたそこは、まだぬくもりが残っているように熱い。
アリステアが頭を撫でたら、エフィは恥ずかしそうに、しかし確かに笑ってくれた。思い出してしまったその表情に思考が乱されそうで、軽く頭を振る。
「……君はどうして、僕に笑いかける?」
呟きは誰にも届かず、ただ夜の闇に溶けて、消えた。





こちらが本編です。